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第12話 日常

 図書館での再会から数日が経ち、淳一はいつものように会社と家を往復していた。春先の朝はまだ寒く、スーツにコートを羽織って駅へと向かう。駅のホームでは、凍える指で定期券を握り、電車が来るのを待つ。車内では吊り革につかまりながら新聞を広げるが、経済欄の数字を追うよりも、窓の外の灰色の景色に目が留まる。ビル群の隙間から見える薄雲と、春風に舞う桜の花びらが、ぼんやりとした視界に映る。会社に着けば、デスクに向かい、書類に目を通し、部下からの報告に頷く。58歳の自分にとって、この単調な繰り返しは、長年染みついた習慣だった。優子が生きていた頃も、彼女が死に、家族がバラバラになってからも、変わらない日常のはずだ。


 だが、この数日、心のどこかに微かな揺らぎが生まれていた。午後の会議が終わり、デスクに戻って書類の数字をチェックしていると、ふとした瞬間にみさきの顔が脳裏をよぎる。図書館の窓際で、詩集を手に静かに微笑んでいた彼女の姿が、まるで目の前に浮かぶ。『雨の日に読むと落ち着く気がして』と穏やかに言った声が、耳の奥に響く。淳一はペンを止めて目を閉じ、その記憶を振り払おうとした。

 だが、彼女の柔らかな笑顔が、書類の数字を霞ませて離れない。なぜこんなにも鮮明に覚えているのか。たった一時間の会話だったのに。彼女がマフラーを触る仕草や、詩集のページをめくる細い指が、頭から離れない。


 昼休み、会社の休憩室で弁当を広げていると、同僚の高橋がコーヒー片手に近づいてきた。

「佐藤さん、最近、少し雰囲気が変わったんじゃないですか?」と軽い口調で言う。高橋は同い年で、若い頃から一緒に仕事をしてきた仲間だ。淳一は一瞬言葉に詰まり、

「そうか?自分では分からないな」と曖昧に笑って誤魔化した。

「なんか、穏やかになった気がするな。いい雰囲気ですよ」と高橋が笑う。

 淳一は箸を止めて、少し考えた。

「そう言えば、昨日も部長が『佐藤さん、最近顔色いいね』って言ってたよ。何かいいことでもあった?」と高橋が続けるが、淳一は理由を説明できなかった。

 みさきのことを話すわけにもいかず、

「歳を取っただけさ。疲れが顔に出なくなったんだろ」と冗談めかして言うと高橋は納得したように席に戻って行った。


 だが、心の中で、確かに何かが変わりつつあるのを認めざるを得なかった。図書館でのあの時間が、凍りついた日常に小さな波を立てていた。午後の仕事中、部下が提出した報告書に目を通していると、再びみさきの声が頭に響く。『昔の詩集なんです』と笑った彼女の顔が、書類の文字に重なる。淳一は老眼鏡を外し、額を擦った。こんなことは初めてだった。優子の死後、二年間、ただ機械的に生きてきたはずなのに、なぜ一人の女性との短い会話が、こんなにも心を乱すのか。高橋の言葉が頭をよぎり、鏡を見ていない自分の顔を想像した。穏やかになったと言われたが、それはみさきとの出会いがもたらしたものなのかもしれない。


 帰宅すると、空はすでに暗く、家の窓に街灯の光が映り込んでいる。淳一はコンビニの弁当を電子レンジで温め、テレビをつけたまま夕食を済ませた。ニュースキャスターの声が遠く聞こえ、画面には開花予報が映し出されている。いつもならそのままソファで眠り込んでしまうが、この夜は何か落ち着かず、和室に足を向けた。仏壇の前に座り、線香立てに火をつけると、細い煙が立ち上り、静かに部屋に広がった。優子の遺影が、穏やかな笑顔でこちらを見つめている。緑のショールが畳まれて横に置かれ、佳子の冷たい背中や、三回忌でのぎこちない別れを思い起こさせる。


「優子…久しぶりに、誰かとこんなに話した気がするよ」

 淳一は小さく呟き、線香の香りを吸い込んだ。図書館でのみさきとの会話が、頭に浮かぶ。一時間ほどの他愛のない話だったが、彼女の声や仕草が、なぜか心に残っている。『詩集が好きなんです』と笑った顔が、優子の温かさと重なる瞬間があった。優子と初めて会った日、彼女が『私、詩が好きなんです』と照れながら言ったことを思い出す。あの頃、二人で古本屋を巡り、薄い詩集を手に取って笑い合った。

 

 だが、次の瞬間、淳一は気づいた。優子とみさきは、まったく違う存在だ。

 優子は『思い出の中の人』だ。彼女の笑顔も声も、過去に閉じ込められたものだ。どれだけ鮮明に思い出しても、もう触れることはできない。病室で冷たくなった彼女の手を握ったあの日の感触が、今でも指先に残っている。優子が最後に『あなたが元気でいてくれれば』と言った声が、耳に響く。だが、みさきは『今を生きている人』だ。図書館で彼女がページをめくる指、雨の音に溶け込む声、マフラーを触る仕草。それらは確かに現実に存在していた。淳一は目を閉じ、その違いに胸が締め付けられるのを感じた。優子はもういない。だが、みさきは生きていて、偶然とはいえ、自分の前に現れた。その事実に、微かな戸惑いと、言いようのない安堵が混じる。


「お前がいたら、どう思うかな」と呟き、遺影を見つめた。

 優子が『良かったね』と笑う気がしたが、その笑顔に答えられない自分がいる。

 ふと、佳子が三回忌で『お父さんは、仕事ばっかりだったから』と刺した言葉が頭をよぎる。あの時、もっと優子に寄り添っていれば、家族がこんなにも離れることはなかったかもしれない。みさきとの会話が、そんな後悔を呼び起こしながらも、別の感情を芽生えさせていた。淳一は線香の煙を見つめ、『生きている人と話すって、こんな感じだったな』と呟いた。優子のいない二年が、どれだけ自分を孤独に閉じ込めていたのか、今になって気づく。


 その夜、淳一は久しぶりに夢を見た。桜の咲く小道を歩いている。春の陽射しが柔らかく、微風が舞い散る花びらを運んでいく。頭上の枝に満開の桜が広がり、淡いピンクが空を染めている。右手の土手の下には、澄んだ川が流れ、光を反射する小魚の姿が水面に揺れていた。風が頬を撫で、桜の香りが鼻をくすぐる。こんな穏やかな風景を、どれだけ見ていなかっただろう。

 優子と一緒に花見に行ったのは、もう何年前のことか。佳子が『お母さん、桜きれい!』と笑い、琢磨が小さな手で花びらを拾っていたあの春が、遠い記憶として蘇る。


 ふと左を見ると、みさきが隣を歩いていた。白いワンピースに薄いカーディガンを羽織り、寄り添うような距離感で穏やかに微笑んでいる。彼女の長い髪が風に揺れ、桜の花びらがその上に舞い落ちる。他人が見れば、仲の良い親子のように見えるだろう。淳一は彼女の横顔を見つめ、心が軽くなるのを感じた。『桜、綺麗ですね』とみさきが囁き、その声が風に溶け込む。だが、その声はどこか遠くから聞こえるような気がした。彼女がこちらを振り返り、柔らかく笑う。その瞳が、深く、どこか現実を超えた光を宿している。


 よく見ると、みさきの輪郭がどこか曖昧で、夢特有のぼやけた感覚がある。足音が聞こえない。桜の花びらが舞い落ちるたびに、彼女の姿がかすかに揺れる。淳一は手を伸ばそうとしたが、指先が彼女に届く前に、花びらが視界を遮った。彼女が『ずっと待ってました』と呟き、その言葉が風に紛れて遠ざかる。ずっと待っていた? 誰を? そんな疑問が頭をよぎるが、答えが浮かばない。次の瞬間、風が強くなり、桜の花びらが一斉に舞い上がった。みさきの姿が、花びらに紛れて薄れていく。『待ってくれ』と声を上げた瞬間、夢が途切れた。


 目を覚ますと、枕元の時計は午前4時を指していた。部屋は暗く、静寂が耳に染みる。淳一はベッドに仰向けのまま、珍しくはっきりと夢を覚えていることに驚いた。ここ何年も、夢など見たことがなかった。優子の死後、眠りはただの空白で、朝を迎えるたびに疲れだけが残っていた。それなのに、今夜は違う。桜の風景や、みさきの笑顔が、現実のように鮮明に残っている。桜並木の柔らかな光、川のせせらぎ、彼女の遠く響く声。すべてが頭に焼き付いている。


 淳一は目を閉じ、その感覚をもう一度呼び戻そうとした。だが、みさきの輪郭が曖昧だったこと、足音が聞こえなかったことが、微かな違和感として胸に引っかかる。『ずっと待ってました』という言葉が、頭の中で反響する。あれは夢だったのか。それとも、何か別のものだったのか。ふと、窓の外を見ると、まだ暗い空に微かに雨の匂いが混じっている気がした。カーテンを開けると、ガラスに細かい水滴が付いている。まるで夢の余韻が現実にまで残っているように感じ、淳一は小さく息をついた。


 ベッドから起き上がり、冷たい床に足をつけると、現実の重さが戻ってきた。だが、心のどこかに、桜の花びらが舞う感覚が残っている。あの夢が、みさきとの再会をきっかけに生まれたものなら、彼女は自分にとって何なのだろう。優子とは違う、生きている存在。だが、夢の中の彼女は、どこか現実を超えた気配を漂わせていた。淳一は首を振って立ち上がり、水を飲むために台所へ向かった。冷蔵庫からペットボトルを取り出し、一口飲むと、冷たい水が喉を潤す。だが、桜の香りがまだ心に残っている気がした。リビングに戻り、ソファに腰を下ろすと、仏壇の優子がこちらを見ている気がした。

『みさきって、誰なんだろうな』と呟き、答えのない問いを宙に響かせた。


 ポットの湯気が立ち上り、淳一はいつものようにコーヒーを淹れた。キッチンに苦い香りが広がる。窓の外では、夜の雨が止み、薄い雲が空を覆っている。時計を見ると、まだ6時前。いつもより早く目が覚めたのは、夢の影響かもしれない。無意識にスマホを手に取り、画面を見つめた。佳子や琢磨に連絡を取ろうかと一瞬考える。三回忌後のぎこちない別れが頭をよぎる。佳子の冷たい『じゃあね』と、琢磨の『父さん、大丈夫か?』という声。あれから数週間しか経っていないが、みさきとの会話が、家族ともう一度向き合いたい気持ちを呼び起こしていた。

 ふと、三回忌の前、琢磨と電話で話した時のことを思い出す。『母さんのためにも、みんなで集まろう』と言った彼の声が、耳に残っている。佳子には、あの緑のショールを手に持つ姿が、母への思いを隠しているように見えた。


 淳一はスマホの連絡先を開き、佳子の名前をタップしかけた。『元気か?』と送ればいいのか。『三回忌、どうだった?」と切り出せばいいのか。だが、指が動かない。何を話せばいいのか、どう切り出せばいいのかが分からない。佳子からの『お父さんは、仕事ばっかりだったから』という言葉と、琢磨の『母さんのためにも』という気遣いと重なり、胸を締め付ける。

 

 思い切って琢磨の名前をタップし、『最近どうしてる?』と打ちかけた。だが、送信ボタンに指が届く前に、画面を消した。もし返事が来ても、どう答えればいいのか分からない。佳子にはなおさらだ。あの冷たい背中が、電話の向こうで再現される気がして、淳一はスマホをそっとテーブルに戻した。『また今度』と心の中で言い訳をした。コーヒーを一口飲むと、苦味が喉に残る。家族との距離は、まだ縮められない。それでも、みさきとの会話や夢が、何かを変えようとしている気配があった。


 ふと、近所の少女が届けた手袋がテーブルの隅に片付けられずに、置かれているのに気づいた。あの小さな出来事が、佳子に電話をかけるきっかけになったことを思い出す。みさきとの出会いも、偶然が重なって生まれたものだ。淳一は手袋を手に取り、その粗い編み目を指でなぞった。家族ともう一度繋がりたい。そんな思いが、みさきの笑顔や夢の中の桜と重なる。まるで、老いた木に新たな芽がほんの少しずつ現れるように、心の奥で何かが変わり始めているのを感じていた。淳一はカップを手に持ったまま、窓の外を見つめた。薄暗い空が、ゆっくりと明るくなりつつあった。外に出ると、春の朝霧が漂い、庭の花が静かに揺れていた。


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