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第11話 再会

 三回忌から数週間が経ち、春の雨が街を濡らしていた。あの日の静かな法要が終わり、佳子が冷たく去り、琢磨が気遣いの言葉を残して帰った後も、淳一の胸には微かな疼きが残っていた。家族が集まった温もりと、埋まらない溝の両方が、胸に重く残っていた。それでも、琢磨の『母さんのためにも』という声や、春の柔らかな陽射しが、小さな希望の灯を消さずにいた。そんな中、なぜかあの図書館での出来事が、頭から離れなかった。筒井みさき。あの穏やかな横顔と、交わした一瞬の視線が、静かな波紋のように心に広がっていた。


 あの日、声をかける勇気が持てなかった自分を思い出しながら、淳一は再び図書館へと足を運んだ。雨の日は、家に閉じこもるよりも、静かな空間で時間を過ごしたいという思いが自然と湧く。だが、内心では、彼女に会えるかもしれないという微かな期待が、心をそっと動かしていた。テレビの音も耳に届かず、ただ窓を叩く雨の音だけが響く部屋にいるよりも、あの図書館の静寂が、今の自分には必要な気がした。老眼鏡をポケットにしまい、傘を手に持つと、淳一は玄関を出た。


 外は冷たい風が吹き、傘に当たる雨粒の音が単調に響く。足元の靴が湿り、歩道にできた水たまりが街灯の光を歪に映している。図書館までの十分ほどの道のりを、淳一は特に何も考えず歩いた。だが、心のどこかで、あの日のみさきの姿が揺れている。医療センターでの柔らかな声、『失礼しました』と微笑んだ顔。そして、図書館の窓際で本を読んでいた横顔。あの時、なぜ声をかけるのを躊躇ったのか。58歳の自分が、20代の女性に話しかけることに、世間からどう見られるかと気後れしたからだ。だが、その遠慮が、今は小さな後悔に変わっていた。また会えたら、今度は声をかけてみよう。そんな決意が、胸の奥に静かに芽生えていた。


 図書館のガラス扉を押し開けると、雨の音が遠ざかり、紙の匂いと静寂が淳一を迎えた。靴底の水気をマットで拭い、傘を立てかけると、館内の穏やかな空気に肩の力が抜けた。カウンターには前回と同じ司書が座り、静かに本を整理している。館内は平日にもかかわらず閑散としており、数人の来館者が本棚の間をゆっくりと歩いているだけだ。淳一はいつものように歴史書のコーナーへ向かい、何気なく背表紙を眺めた。『江戸時代の暮らし』という本を手に取り、パラパラとめくると、昔の家族の情景が目に浮かぶ。優子と佳子、琢磨が一緒に囲炉裏を囲んでいたら、こんな風だっただろうか。そんな思いが胸をよぎり、淳一は小さく息をついた。


 ふと、周囲に目をやった瞬間、手が止まった。彼女がいた。筒井みさき。先日の図書館で見たあの女性が、再び窓際の席に座っている。白いセーターを着た姿は前回と変わらないが、今日は淡いグレーのマフラーをゆるく巻き、手に文庫本を持っていた。柔らかな光が彼女の細い肩を照らし、雨の滴が窓を伝う中で、彼女だけが穏やかな空気を纏っているようだった。淳一は本を手に持ったまま、思わず息を呑んだ。まさか、こんなにも早く再会するとは。偶然が重なることに、心臓が小さく跳ねる。


 『また会えた…』と心の中で呟きながら、淳一は一瞬、彼女に近づくべきか迷った。あの日の後悔が頭をよぎる。たった一度の視線の交わりと、医療センターでの短いやり取りだけだ。彼女にとっては、自分など記憶にも残っていないかもしれない。それでも、あの穏やかな笑顔と、不思議な瞳が、なぜか頭から離れない。優子に似た温かさと、どこか捉えどころのない魅力が、淳一の心を掴んでいた。『今度は声をかけてみよう』と決めたはずなのに、足が動かない。本棚の陰に立ち、彼女をそっと見つめた。


 みさきは本に集中しているようで、時折ページをめくる手が止まり、窓の外の雨を眺める。その横顔が、前回と同じく柔らかな光に照らされ、どこか儚げに見えた。雨の音が遠く聞こえ、館内の静寂がその姿を際立たせる。彼女の細い指が本のページをそっと押さえ、時折、マフラーの端を無意識に触る仕草が、穏やかで自然だった。淳一は目を細め、その動きを観察した。あの日の医療センターでの声が、頭の中で再生される。『佐藤淳一様ですね』と柔らかく言った響きが、耳の奥に残っている。優子の『淳一、味噌汁できたよ』と笑った声と重なり、胸が小さく疼いた。

 

 その時、みさきが顔を上げ、周囲を見渡した。視線が再び淳一と交わり、二人の目が合った。みさきは一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに小さく微笑んだ。淳一は心臓が跳ねるのを感じ、前回と同じく視線を逸らしかけたが、今度は踏みとどまった。あの日の確信が、再び二人を繋ぐ微かな糸のように感じられた。今度こそ逃げてはいけない。淳一は深呼吸をし、本を手に持ったまま、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。


「あ、すみません。先日、医療センターでお見かけしましたよね?」

 声が少し震えたが、何とか言葉を紡いだ。みさきに近づくにつれ、彼女の周りの空気が微かに暖かい気がした。

 みさきは一瞬目を丸くし、驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑顔に変わった。

「あ、そうですね。確かにお会いしました」

 彼女は少し照れくさそうに答え、軽く首を傾げた。その仕草に、どこか子供っぽい無邪気さと、大人びた落ち着きが混じっている。淳一はそのギャップに、微かな懐かしさを感じた。


「その…図書館でも一度お見かけしてて。今日またお会いしたので、ちょっと声をかけてみました」

 淳一は言葉に詰まりながら、ぎこちなく続けた。年齢差を意識してか、無理に会話を広げないよう気を使っていた。自分でも、そのぎこちなさが恥ずかしく感じられた。

 みさきは静かな声で言った。

「ありがとうございます。まさかこんなところでまたお会いするとは思いませんでした」

 彼女の声は穏やかで、雨の音に溶け込むように柔らかかった。淳一はその響きに、医療センターで感じた安心感を思い出した。彼女が本を膝に置き、こちらを向くと、その瞳が再び彼を捉えた。深く、どこか遠くを見ているような目。だが、今はしっかりとこちらを見つめている。


「私も、まさかこんな場所で再会するとは思っていませんでした。お互い、ちょっとした偶然ですね」

 淳一は彼女の言葉を繰り返し、少し笑みを浮かべた。緊張が解け、心が軽くなるのを感じた。

「本当に」

 みさきは小さく笑い、淳一の顔をじっと見つめた。その目には、医療センターで見たような温かさが宿っていた。だが、同時に、どこか捉えどころのない影が揺れているようにも見えた。彼女の周りに漂う空気が、図書館の静寂と相まって、妙に落ち着いた雰囲気を醸し出していた。淳一はその視線に引き込まれそうになり、慌てて目を逸らした。


 少しの間、言葉が途切れた。雨の音が窓を叩き、本棚の向こうで誰かが本を戻す音が小さく響く。淳一は気まずさを埋めようと、再び口を開いた。

「お邪魔かもしれませんが、もしよろしければ、少しお話しませんか?」

 提案する声に、微かな緊張が混じる。

 みさきは一瞬考えたように目を伏せ、少し驚いた表情を見せたが、すぐに答えた。

「はい、よろしければ…」

 彼女は穏やかな笑顔を見せ、本を閉じて膝に置いた。その動作が、まるで時間がゆっくりと流れるように感じられた。淳一は彼女の足音が聞こえないことに一瞬違和感を覚えたが、すぐにその思いを打ち消した。雨の音が大きいだけだ、と自分に言い聞かせた。

 

 二人は窓際の小さなテーブルに移動し、向かい合って座った。お互いに一度顔を合わせただけの関係なのに、図書館の静かな片隅で、初めて会話が生まれた。淳一はやや緊張しながらも、彼女の落ち着いた雰囲気に安心感を覚えた。

「どんな本を読んでいたんですか?」

 淳一が尋ねると、みさきは文庫本を手に取り、表紙を見せた。

「昔の詩集なんです。雨の日に読むと、気持ちが落ち着く気がして」

 その声に、どこか遠い響きがあった。

「詩集か…。若いのに渋いですね」

 淳一は笑いながら言うと、みさきも小さく笑った。

「そう言われます。でも、昔から好きなんです」

 彼女の笑顔に、微かな寂しさが混じるように見えたが、淳一はそれ以上深く考えなかった。

 時間がゆっくりと流れ、雨の音が背景に溶け込む中、二人は他愛のない話を交わした。好きな本のこと、雨の日の過ごし方。年齢差を感じさせないほど、会話は自然に進んでいった。淳一はどこか心が落ち着くのを感じていた。こんなにも穏やかに誰かと話せることに、驚くと同時に、少しの希望が生まれた気がした。みさきの声が、優子の温かさを思い起こさせながらも、どこか違う不思議な響きを持っている。その違いが、淳一の心に小さな波を立てていた。


 雨が小降りになり、図書館の窓に映る滴が細くなっていく。淳一は時計を見ると、もう一時間が過ぎていたことに気づいた。

「ずいぶん長くお話ししてしまいましたね」と言うと、みさきは微笑んだ。

「私も楽しかったです。またお会いできたら嬉しいです」

 その言葉に、微かな期待が込められている気がした。

 立ち上がりながら、淳一は小さく頷いた。

「そうですね。またお会いしましょう」

 みさきがマフラーを巻き直し、本を手に持つ姿を見ながら、淳一は再び彼女の不思議な雰囲気に目を奪われた。彼女が立ち去る時、背後から足音が聞こえない気がしたが、すぐにその思いを打ち消した。図書館を出ると、雨上がりの空が薄く明るくなっていた。みさきとの会話が、凍りついていた日常に春の柔らかな風を吹き込んだ気がした。


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