第10話 出会い
定期健診から一日が経ち、あいにくの雨模様の休日を迎えた。冷たい雨が朝から降り、窓ガラスを叩く音が部屋に静かに響いている。淳一はソファに座り、テレビのニュースをぼんやりと眺めていたが、気象予報士の声も耳に届かず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
外は灰色の空に覆われ、足元を濡らす水たまりが歩道に広がっている。優子がいた頃なら、こんな日は『雨でも散歩に行こうか』と笑いながら傘を手に持っただろう。だが、今はただ一人、家の中で音もなく時間が流れていく。そんな日でも、家に閉じこもっているよりはどこかへ出かけたい気分だった。
ふと、近くの図書館に立ち寄りたくなった。若い頃は読書が好きで、歴史書から小説までジャンル問わず読み漁っていた。優子と出会った頃は、彼女に『淳一って本の虫ね』と笑われたこともある。老眼が酷くなってからは、細かい文字を追うのが億劫になり、本棚に並ぶ背表紙を眺めるだけの日々が続いていた。それでも、家に一人でいるよりも、違った環境で一人の時間を過ごしたいという思いが、胸のどこかに湧き上がっていた。雨の音が耳に染みるこの部屋で、ただ座っているだけでは、優子の不在が重くのしかかるだけだ。
傘を手に玄関を出ると、冷たい風が頬を刺した。雨粒が傘に当たる単調な音が響き、足元の靴が湿っていく。図書館までは徒歩で十分ほど。道すがら、濡れたアスファルトに映る街灯の光を見ながら、淳一は特に何も考えず歩を進めた。
だが、心の奥で、昨日の医療センターでの出来事が微かに揺れていた。あの受付の女性、筒井みさき。彼女の穏やかな声と、どこか不思議な瞳が、ふとした瞬間に蘇ってくる。特別な会話があったわけではない。ただ、『佐藤淳一様ですね』と柔らかく言った声と、一瞬留まった視線が、胸に小さな波を残していた。優子の笑顔と重なる何かがあったが、それ以上のことは考えないようにしていた。
図書館のガラス扉を押し開けると、雨の音が遠ざかり、代わりに本の匂いと静寂が淳一を包んだ。靴底の水気をマットで拭い、傘を立てかけると、館内の穏やかな空気に肩の力が抜けた。カウンターには司書が一人座り、静かに本の整理をしている。館内は休日にもかかわらず閑散としており、数人の来館者が本棚の間をゆっくりと歩いているだけだ。
淳一は、いつものように歴史書のコーナーへ向かい、何気なく背表紙を眺めた。『戦国武将列伝』という分厚い本を手に取り、パラパラとめくりながら、紙の感触に少しだけ心が落ち着く。だが、ふと周囲に目をやった瞬間、その動きが止まった。
つい最近出会った女性がいた。先日の医療センターで顔を見かけた若い女性だ。淳一は一瞬、心の中で彼女の名前を思い浮かべた。確か名札には、『筒井みさき』と書かれていた。本棚の向こう側、窓際の席に座る彼女は、手に文庫本を持ち、静かにページをめくっている。
白いセーターに包まれた細い肩が、柔らかな光に照らされていた。診察機関では白い制服姿だったが、今は普段着の彼女が、どこか親しみやすさと不思議な雰囲気を漂わせている。雨の滴が窓ガラスを伝い、外の灰色の世界と対比するように、彼女の周りだけが穏やかな光に包まれているようだった。
淳一は本を手に持ったまま、思わず彼女を見つめた。医療センターは自宅からそんなに遠くない。彼女の自宅もこの近くだとすると、同じ地域で偶然出会うこともあり得る話だ。だが、まさかこんな場所で再会するとは思わなかった。
『偶然か…』と心の中で呟きながら、淳一は彼女に声をかけるべきか迷った。たった一度、受付で顔を合わせただけだ。こちらは名札を見て名前を知っているが、彼女にとっては自分など、受付処理されるただの患者の一人に過ぎないだろう。年齢差もある。58歳の自分が、20代と思しき女性にいきなり話しかけるなんて、不快に思われないだろうか。そんな思いが頭をよぎり、淳一は本棚の陰で立ち尽くした。
だが、心のどこかで、あの日の彼女の笑顔が引っかかっていた。医療センターで『失礼しました』と微笑んだ時、優子に似た穏やかさと、どこか現実離れした空気が漂っていた。優子が生きていた頃、近所の子供たちに『大きくなったね』と笑いかけた時の温かさに似ている気がした。
だが、それ以上に、みさきの瞳には何か捉えどころのない深さがあった。疲れた目のせいか、それともただの気のせいか。淳一は首を振ってその思いを打ち消そうとしたが、視線は彼女に留まった。
彼女は本に集中しているようで、時折ページをめくる手が止まり、窓の外の雨を眺める。その横顔が、柔らかな光に照らされ、どこか儚げに見えた。雨の音が遠く聞こえ、館内の静寂がその姿を際立たせる。淳一は目を細め、彼女の仕草を観察した。細い指が本のページをそっと押さえ、時折髪を耳にかけ直す仕草が、穏やかな空気を漂わせていた。
あの短いやり取りが、頭の中で再生される。『どうかしましたか?』と尋ねた自分の声に、彼女が『いえ、失礼しました』と答えた瞬間。なぜかその声が、耳の奥に残っている。優子の声とも重なり、胸の奥が小さく疼いた。
ふとした瞬間、みさきが顔を上げ、周囲を見渡した。その視線が淳一と交わり、二人の目が合った。みさきも一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに小さく微笑んだ。淳一は心臓が跳ねるのを感じ、慌てて視線を逸らした。あの日のことを、彼女は、覚えているのではないか。そんな確信が、二人を繋ぐ微かな糸のように感じられた。だが、その糸に手を伸ばす勇気はなかった。淳一は踵を返し、本を二冊手に持ったまま、みさきと離れた館内のテーブルに腰を下ろした。
テーブルに座っても、視線が自然と彼女の方へ戻る。みさきは再び本に目を落とし、静かに読み進めている。彼女の周りに漂う空気が、他の来館者とはどこか違う。穏やかで、静かで、なのに現実から浮いているような感覚。淳一は手に持った本を開いたが、文字を追う気にはなれなかった。雨の音が窓を叩き、図書館の静寂が心を落ち着かせるどころか、逆にざわつかせる。
あの女性に声をかけるべきだったのだろうか。そんな思いが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。たった一度の出会いだ。無理に近づく理由はない。
やがて、雨が小降りになり、淳一は図書館を後にした。傘を開きながら、彼女の横顔が脳裏に焼き付いていることに気づいた。なぜか、その姿が心に残る。また会うことがあれば、その時は声をかけてみようか。そんな小さな決意が、胸のどこかに芽生えていた。