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第1話 家族旅行

 佐藤淳一は玄関先で上着にこびりついた雪を払い、スラックスのポケットから鍵を取り出した。かじかんだ指先で鍵穴に差し込み回すと、カチリと静寂を破る小さな音が響いた。扉を開けて、土間の壁にあるスイッチを入れると、ようやく闇から解放される。蛍光灯の白い光がちらつきながら広がり、冷たい空気を淡く照らした。靴を脱ぎ終えた淳一は、ふと玄関脇の棚に目をやった。


 そこには、小さなシーサーの置き物が一対、今も変わらず並んでいる。沖縄への家族旅行の記念にと買ったもので、艶やかだった赤と青の彩色は今ではやや色褪せ、表面には薄く埃が積もっていた。片方の耳に小さな欠けがあるのは、佳子が幼い頃、遊んでいる最中に棚から落としてしまったせいだった。佳子は泣きながら謝り、優子は笑って慰めていた。

『大丈夫よ、ちょっと欠けたくらいが味になるわ』

 優子は叱らず、優しく微笑みながら佳子の頭を撫でた。この欠けた耳を見るたび、あの遠い夏が思い出される。淳一は、その欠けた部分を指先でそっと撫でた。埃が指に付き、少しざらつく感触が現実を突きつける。


 ―あれは、佳子が小学校に入ったばかりの、初めての夏休みだった。数少ない家族旅行だった。飛行機に乗るのが初めてで、佳子は小さな体を精一杯使って窓の外を覗きこみ、

『雲の上って、本当にあるんだね!』と目を丸くしていた。

 琢磨はまだ四つか五つ。よく分かっていない様子で、優子の膝の上でぐずったり、空港で売っていたお菓子を握りしめて離さなかったり、そんな小さな姿がいまでも鮮明に思い出される。


 美ら海水族館では、初めて見る巨大なジンベエザメに佳子は、目を輝かせて興奮した声で、

『お父さん、見て!このお魚大きいね!』と腕を引っ張ってきた。

 薄暗い館内で、琢磨は優子に抱っこされたまま、目をぱちくりさせていた。海沿いのホテルで、家族四人で何枚もの写真を撮った。夕焼けの浜辺をみんなで歩いて、色とりどりの貝殻を拾い合った。佳子はみんなが拾った貝殻を、

『お土産にするの』とビニールの袋に大事そうにしまっていたのを、今でも覚えている。

 旅行中、このシーサーを見つけたのは優子だった。

『魔除けになるって言うし、家に飾ろうよ』と、笑顔で手に取った。

 その笑顔の温かさと、シーサーのずしりとした感触―その記憶が、今の静まり返った玄関に重なり、淳一の胸を締めつける。

 棚の端に置かれていた布を手に取り、そっと埃を拭った。色褪せたシーサーの目が、じっとこちらを見返してくる。思い出は、時が経つほどに眩しく、切なくなる。あの夏の光と笑い声は、もう戻らない。あの笑い声が響いた家は、今では冷たい空気だけが漂っている。埃を拭いながら、あの夏に佳子を叱らなかった優子の優しさを思い出し、淳一は唇を噛んだ。今なら、もっと家族と過ごす時間を作れたはずだと、後悔が胸を刺す。


 冷え切った床の感触が足裏に染みてくる。部屋に入ると暖房のスイッチを入れて、コートをハンガーに引っ掛けて台所へと向かった。暖房が唸りを上げ、徐々に部屋を温め始めるが、心まで届くことはない。


 休日になると、淳一は近くのスーパーで、適当に自分が食べたいものだけを買い揃える。半額シールが貼られたサバを見つけては、少しだけ得した気分になるが、家に帰ればその喜びも消え失せる。買い物をする家族連れの笑い声が耳に届くが、淳一は、一人足早に館内を一巡りしては、特に献立を考えるでもなく、カゴに放り込むのは、パック詰めされたカット野菜や、出来合いの惣菜がほとんどだ。人参や玉ねぎが薄くスライスされた野菜炒め用のセット、サラダ用にカットされたキャベツやレタス。どれも袋から出して皿に盛るだけで済む。包丁やまな板を出すことは、ほとんどない。調理と呼べるほどの手間はかけない。それが今の淳一の日常だった。


 この日も、帰宅するなり冷蔵庫の扉を開け、先日買ったままのカット野菜の袋と、ラップに包まれた焼き魚を取り出した。焼き魚はスーパーの総菜コーナーで半額になっていたサバの塩焼き。ポットに水を入れて湯を沸かす間、淳一は無言のまま茶碗にインスタント味噌汁の素を入れ、乾燥したネギの小袋を開けて中に振り入れた。ポットがカチリと音を立て、淳一は湯を注ぐ。ふわりと湯気が立ちのぼるが、その香りに食欲が湧くわけでもない。

 レンジの中で回る焼き魚をぼんやりと眺める。チンという電子音が響き、扉を開けると、塩気が強い魚の匂いが鼻をついた。それを皿に移し、カット野菜を添えただけのサラダを脇に置く。ご飯は昨晩炊いたものを冷凍していた。小分けの容器に入ったまま、それもレンジで温める。どこかで読んだ『一人暮らしの食卓は単調になりがち』という言葉が、頭の中をよぎるが、料理をする気力はもうない。レンジの電子音が鳴るたび、かつての家族の会話が聞こえないことにふと気づく。


「いただきます」と呟きながら箸を取るが、味はほとんど記憶に残らない。ただ、生きるために食べる。そんな食事が、もう二年も続いている。優子がいた頃は、同じ魚でもこんがりと焼き目がつき、味噌汁にも刻みネギや豆腐が浮かび、温かみがあった。今は、ただ腹を満たすだけの時間だ。食卓に並んだ料理は、どこか寂しげで、そのまま部屋の空気まで冷たくなったように感じられる。箸を手に取る動作さえ億劫で、魚の身をほぐしながら、味もよく分からないまま口に運んだ。咀嚼する音だけが、静かな部屋に小さく響く。


 何となくテレビをつけると、ニュースキャスターが今日の出来事を淡々と読み上げていた。雪崩の被害状況や政界の動きが流れるが、耳を傾けることもなく、ただぼんやりと画面を眺めていた。ふとリモコンを手に取り、無言で電源を切ると、再び静寂が部屋を包み込む。テレビの音が消えた瞬間、耳に届くのは自分の呼吸と、遠くで鳴る冷蔵庫の低いうなり声だけだった。

 食べた食器を流しに持っていき、給湯器のスイッチを入れる。蛇口のハンドルを上げてお湯になる前に食器を洗い出した。

 キッチンの食器棚の隅には、優子が使っていた湯呑みが今もそのまま置かれている。白地に薄い青の花模様が描かれた、彼女が気に入っていたものだ。手に取ることはなくても、片付けることもできなかった。埃が薄く積もっているのを見ると、胸の奥がちくりと疼く。優子がこの家を出て行ったわけではない。ただ、もう二度と帰ってこないだけだ。二年前のあの日に、すべてが止まってしまった。


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