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星加護クズおじさん小銭入れを拾う

作者: たのすけ

 紛れもなくタノスケは〝愛の星〟の下に生を受けた男である。しかし、その星の加護虚しく、ある日突然、彼は大悲劇に見舞われた。

 約一年前のことだ。

 天地神明、キリスト、仏陀、それに加えてその他諸々それっぽいもの軒並み全てに誓って必ず守ると、この命をかけて必ず守ると、そう固く固く心に決めていた、その対象たる妻冬美と二人の娘(姉の夏緒十二歳と妹の春子八歳)が出て行ったのだ。そして、タノスケは一人ぼっちになったのだ。


 タノスケは生粋のアル中で暴言とグズりの常習犯。おまけにマッチングアプリを駆使した重度の浮気性でもあり、では浮気するからには金はあるのかといえば慢性不治の金欠病で、そのくせ労働意欲も就職意欲も、家事意欲までも完全に皆無。さらには日頃から上から目線でアレコレ言う醜癖をもっているのにも関わらず極めての低脳(英検は五級に落ち、一回だけ受けた模試の結果は群馬で下から二位)にできているのである。だから言ってしまえばこのタノスケという男は、その腐朽極まる心身を酒と凶暴性と面倒臭さと性欲と堕落とアホでもって佃煮みたく煮つめて出来上がった最低最悪の佃煮野郎なのである。

 んで、であれば、妻から愛想を尽かされ弊履のごとく捨てられたというのも、これは至極当然の成り行きであり、あまりにも因果応報すぎ、あまりにも身から出過ぎたサビ過ぎる結末なのである。

 そして、その結末に対し、反省しているのかと言えば、もちろん反省している。もし一度反省の弁を口にすればもう止まらないほどだ。それが真実だ。ただ、いくら反省しているようなことを口にしても、そんなことはすぐに忘れ、同じようなことを性懲りも無く何度も何度も繰り返してしまう。それがタノスケの本性というか、人間としての〝根〟のようなものであり、それはもはや到底矯正不可能だということもまた真実なのである。

 そのような人間だということはタノスケレベルの痴脳でも十全に理解している。だから、自分はこんな人間なのだから、妻子のことはもうすっぱりサッパリと諦め、完全忘却の彼方へ向けて舵を切ることが相手方のためにも良いに違いないのだが、しかし、それがどうしてもできない。

 できないのは、この家には何がどうあっても処分できない品が、家族四人の大切な思い出が染み込んだ品があまりにも沢山残りすぎているせいだ。

 何でもないような物でも少しの間見つめているだけで、それは忽ちにしてまるで釣り糸の先端に結ばれた釣り針の如きものへと変じ、ポチョン! 一つ音をたて〝思い出の海〟へと深く深く沈んでいくのである。そしてその釣り針は程なくして実に簡単に呆気なく妻子との思い出に引っかかり、ヒット、そしてそれを、ザブン! とタノスケは一本釣りに釣り上げてしまうのである。

 そして、釣り上げてからは毎度同じ流れである。タノスケは釣り上げたその思い出をジィーッと見つめ、やがて堪らず肩を震わせ鼻水ブルンブルン、目茶苦茶に泣くのである。

 んで、今回どうやらその釣り針の役を担いそうなのが、先程来どうしても目が離せぬあの小銭入れである。それは随分と長い間、家のリビング、その端に置かれた棚の上に無造作に置かれたままになっている。タノスケはその小銭入れに呆けた眼差しを向け続けている。

 そして、それは案の定、毎度お定まりの例の変容を遂げた。それは次第に鋭利な釣り針へと変じ、勢いよく〝思い出の海〟へ、

 ポチョン!

 ヒット!

 ザブン!

 タノスケは見つめ続ける。すでに目にはもう涙でいっぱいである。



 あれは夏緒が五、六才くらいの頃だったと思う。あの日、タノスケは夏緒と二人、近所の公園で遊んでいた。柔らかな陽射しだった。その中で遊んでいるうち、二人は腹が減ってきた。んで、小腹満たしにパンでも買いに行こうかということになったのだった。その公園には道路を挟んですぐ隣にコンビニがあった。

 コンビニに入るとタノスケがカゴを持ち、軽食だけでなくちょっとしたお菓子やペットボトル飲料なども買うことにし、夏緒は好みのものを次々とカゴに入れていったが、その時タノスケは自分が食べる軽食はどれにしようかと、サンドウィッチの棚を熱心に見ていて、夏緒がカゴに何を入れたのかはよくチェックしなかった。

 んで、レジで会計してもらってるときだ。タノスケは驚愕した。店員が次々商品のバーコードを読み取る段になって初めて気がついたのだが、カゴにはなんと夏緒が投入したと思われる〝贅沢イクラおにぎり〟なる商品が入っていたのだ。

 贅沢イクラおにぎりのバーコードが読み込まれ、ピッと音がした瞬間、モニターには〝二百八十円〟という金額が表示され、それはおにぎり一個に使う金額としては天文学的数字だとタノスケには思われ、タノスケはピッというそのあまりにも人工的な電子音があまりに脳深く突き刺さってきて、クラクラした。

 店を出るとタノスケはすぐに屈み込み、夏緒と目の高さを合わせて向かい合うと、買い物袋の中から贅沢イクラおにぎりを取り出し、それを夏緒に示した。そして動揺を抑えながら

「な、な、な、な、なっちゃん! イ、イ、イ、イ、イクラおにぎり、す、す、す、好きだっけ?」

 と問うた。

「ううん。食べたことない」

「な、な、な、なら、ど、ど、どうして買ったの?」

「(友達の)◯◯ちゃんがね、いつもイクラおにぎり三個食べてるんだって!」

 夏緒は暖かく柔らかな春の陽射しの中で、その陽射しよりも暖かく柔らかく笑った。無邪気が輝きとなって周囲一帯に放たれるような笑い方だった。この笑い方はタノスケの邪気まみれの笑い方とは少しも似ていない。母親である冬美の笑い方に似ていた(といっても、タノスケと夏緒の間に血のつながりはないのだから、笑い方が血のつながりのある母冬美に似ているというのは当たり前のことなのかもしれないが)。

 とあれ、タノスケは夏緒のその説明を受け、ああそうかと合点した。ただ夏緒はお友達が大好物だというイクラおにぎりを食べてみたかった、ただそれだけのことだったのだ。

「パパにも一口あげようか?」

 夏緒の笑顔が眩しい。あまりに眩しくて、小言を言おうとしていたタノスケだが、言うのは後にしようと思った。もう買ってしまったのだからどの道食べるしかないのだ。ならば美味しく食べた方がいい。今小言を言ったら、それはこの無邪気な笑顔に徒に影を差し込み、もってこれから食べる二人の飯をただマズくするだけ愚行だと思った。後で言うべきことは後で言うべきなのだ。実は意外にもこのタノスケ、〝ダンディの星〟の下にも生を受けており、そのためこのようにいつも分別のある大人の判断ができるのだった。しかもダンディゆえ、一度決断したらもう決して絶対金輪際ブレないという、つまり端的に言えば、タノスケという男は常時シックに黒光りする男前なのである。

「ありがとう。でもパパはあまりイクラは好きじゃないから……」

 キラリと歯を輝かせながらタノスケはそう言った。だが、その時、おにぎりに280円という予想外の出費がもたらした痛みのせいだと思うが、ふいに

━━やばい! 今月のエロ貯金、足りないんだった!━━

 というかねてよりの懸念が再燃しながら頭を過った。

 〝エロ貯金〟とは、タノスケのライフワークであるマチアプ穴漁り活動において、その努力が実った暁には最低限どうしても必要になる金額を予め貯めておいたもののことである。実はこのタノスケという男、けっこう計画性のある男で、何を隠そう〝NISA(ナイスなインコウ、サオとアナ)の星〟の下にも生を受けているのである! だから、テレビやネットなどで、NISAのCMを目にするたび、タノスケは半ば呆れた、そして余裕たっぷりのハニカミ笑顔でもって幾度か悠然と首肯するのである、過保護すぎるゆえあまりに包茎過ぎる短小ドリチン愚息と一緒に!

 んな話はいい。

 ともかく、今月は〝エロ貯金〟が不足しているのであった。タノスケに収入はない。だから、エロ貯金の出所はすべて内縁の妻冬美ということになるが、冬美とて、障害児施設で働く一職員に過ぎず、給金はたかが知れている。毎月給料日までの十日間くらいは、タノスケが冬美の隙をみて財布から拝借するという熟練のコソ泥ムーブを繰り出してみても、そこはすっかり枯れ果てた水源のような光景で、どうにか手に握れたとしてもそれは雀の涙ほどの額なのである。そして、今日はまさに枯れ果てたその十日間にあたるのだった。

 それを思うとタノスケは狼狽えた。すると、先ほど飲み込み決して言わぬと決断したはずの夏緒への小言が呆気なくダダ漏れに漏れてきた。

「あのね、なっちゃん。贅沢イクラおにぎりはね、特別な日なら買ってもいいけど、普通の日には絶対に買ってはダメだよ。どうしてかと言うとね、値段が高すぎるんだよ。◯◯ちゃんの家はお金があるからいいけど、うちは(タノスケのせいだが)お金が無いんだよ。どうしてお金がないのかというとね、実はパパ、〝清貧の星〟の下に生を受けているんだよ」

「セイヒン(性頻)?」

「そう、清貧」

 夏緒は頭の上に大きなハテナを浮かべてタノスケを見つめたが、タノスケの表情がいつになく真剣なのを認めると、すぐにハッとし、今にも泣き出しそうな顔になった。そして、

「ごめんなさい」

 呟くように言うと、夏緒はしょぼんとうなだれた。

 これにタノスケは胸が潰れる思いだった。貧乏である理由は、もちろん清貧を宿命づけられているからなどではなく、単にタノスケが五体満足なのにも関わらず一向に働かずに怠惰をむさぼり、いつまでも冬美に対し執拗な寄生虫ムーブを繰り返しているからなのである。しかも、タノスケはタバコもたくさん吸うし、酒も大量に飲む。ゆえに、おつまみも大量に要る。さらには、例のマッチングアプリの決して安くない料金も就職にきっと有利となるとの理由で英語を学習するためのアプリだと嘘を言って冬美の口座から引き落としにしてもらっているのである。

 つまり、貧乏である責任は全部が全部タノスケにあるのである。ここに至りタノスケは明確に痛切に自覚した。

━━夏緒はなんでイクラおにぎりを一個買ったくらいで怒られなきゃならないんだ! 今こうしてイクラおにぎりを買って叱られている夏緒の苦しみ責任はすべて全部が全部この僕にある! この僕というウジ虫のせいで、この愛しい夏緒は、こんなにも辛い思いをしている!━━

 で、このように自覚したのであれば、そうならば目の前のか弱き者をせめてケアしなければならない。それが出来るのは自分だけなのだから必ずやらなければならない。そのくらいの判断力はいかにタノスケといえどある。確とある。ほんとに、確とあるのだが、しかし、実はこのタノスケという男、〝ブーブークッションの星〟の下にも生を受けており、とにかく重さに耐えられない質なのである。ゆえにこの時も痛切な自覚によってもたらされた罪責の重さに耐えられず、その判断力なるものは見事あっさりとペシャンコになって潰れて消え去り、目の前のか弱き夏緒を、さらに責めるような口調で、とにかく口から出任せに、子育てしてるっぽい、ただそれだけの訓示風言辞を弄しはじめた。

「なっちゃん、あのね。パパの目を見て真剣に聞いてね。あのね、なっちゃん、誠実さこそ最大の価値なんだよ!」

 マジでどの口が言ってんだというセリフだが、たしかにタノスケはそのセリフを口にした。相手が幼児なのをいいことに、たしかにそのセリフを口にして詰めた。そして続けて

「見えないものをこそ恐れよ!」

 ビシッと言い、夏緒はもはや何を言われているのか分からないという顔をしていたが、タノスケも実は自分が何を言っているのかよくわからなかった。ただ聞きかじりでも何でもいいからとにかく真理の芯を喰っていそうな、いかにも〝それっぽいこと〟を、言葉に余白を持たせない断定口調でもってピシャリと言い、眼前の相手を叩き潰すように絶句させ、完爾と笑う。これにより脳内でブシャっと快楽物質が噴出する。これがとにかく気持ちいいのだ。ただそれだけのためにやっているのだ。んで、もうどうにも止まらない心地なのだ。

「なっちゃっん! 本当に大事なものは目に見えないんだよ。だけどね、その〝見えないもの〟は、いつも僕たちを見ている。その、いつも僕たちを見ている〝見えないもの〟を満足させるような生き方こそが善い生き方なんだよ」

 そう言った。隠れて妻の財布から金を抜いて、それを資金にコソコソ浮気しているような男が、別に隠れてイクラおにぎりを買ったわけでもない娘に対し、確かにそう言った。そして更に、

「イクラおにぎりにはね、ほんの少ししか栄養が無いんだよ。栄養価は水と変わらないんだよ。それに比べてね、安いけど鮭おにぎりには栄養がいっぱいなんだよ。イクラおにぎりの百倍の百倍の百倍の百倍、栄養が入っているんだよ。なっちゃんはこれから大きく立派なお姉さんにならなきゃいけないでしょ。だからパパはイクラおにぎりじゃなくて、安い鮭おにぎりを食べさせたいんだ。わかるね?」

 という嘘まで言った。

 素直な夏緒は、タノスケの嘘を申し訳なさそうな顔で、自分を思うがゆえのお叱りの言として受けている。その姿にタノスケは、親は正しいという前提でしか生きられぬ子どもの哀れを見た思いで、自分を棚上げになんだが、胸が締め付けられる思い。また、夏緒というこの愛しの娘は、春子というまだ小さい妹がいるため、自身もまだ就学前の幼児なのにも関わらず、お姉ちゃんだからという理由で日頃から何かと我慢をさせられている、そのことを思えば、自分は何をやってんだろうと、タノスケは胸の圧迫がさらに強くなるのを感じ、息も絶え絶え大悶え心地なのだ。

 とあれ、なんとか少し気を取り直して公園のベンチに座り、二人でおにぎりを食べはじめたのだが、それはちょうど食べ終わった頃だった。公園の向こう側から夏緒を呼ぶ声がした。夏緒のお友達だった。

「あ! ◯ちゃんだあ!」

「行っておいで」

「うん!」

 夏緒を見送ると、タノスケはコーヒーを飲みたくなった。依存症コンプリート体質のタノスケはカフェイン依存症でもあるのだ。

 んで、先ほど行ったコンビニに再び向かった。コンビニの、百円で飲めるあの淹れ立てコーヒーがタノスケは大好物なのである。

 そして、その大事件が起こったのは、公園を出て、タノスケがコンビニに入ろうとしたその時だった。タノスケ目はフッと、コンビニの入り口あたりに落ちているものに止まった。

━━小銭入れ?━━

 小銭入れが落ちていた。徐にタノスケはそれを拾った。〝狩猟採集民族の星〟の下に生を受けているタノスケは、価値がありそうなものが落ちていると反射で拾ってしまうDNAなのである。

 触った感じ、中にはけっこう沢山の、数十枚の硬貨が入っている感じだった。だが合計の金額は、入っていたとしても千円程度だろうと見積もった。だが、千円といえど貧乏なタノスケにとっては魅力的な金額だ。もちろんネコババなぞする気なぞ毛頭ない。日頃から子供たちに誠実さこそ最大の価値だと説き、見えないものをこそ恐れ、見えないものから祝福されるように生きるべきだとも説いているタノスケなのである。ネコババなぞもっての他である。

 コンビニの入り口付近に落ちていたのだから、これはこのコンビニを利用した客のものだろうと思った。ならば、これは店員に預けるのが最良の手のように思われた。客が自身の小銭入れ紛失に気がつけば、記憶を遡り、このコンビニに問い合わせを入れる可能性が高いと思ったからだ。

 だからタノスケはコンビニに入るとすぐに店員を探した。しかし、一秒くらい探したが、見つからないために諦め、何故かそそくさコンビニのトイレに入っていった。そして、そこの個室に収まると、店員に渡すにしても万が一、爆発物とか、それに類する危険物が入っていては大変だと思い、小銭入れを開け、中をあらためた。

 中にパンパンに入っていたのは、ほとんどが百円玉と五百円玉だった。これは優に三千円は入っていると思った。タノスケは小銭入れがズシリと重くなったのを感じた。そしてその小銭入れを胸に抱き、天を仰ぐと、独り言ちた。

「店員も信頼できねえしなあ」

 そして、これだけの金額となると、どうせ貧乏に違いない店員に預けたら、そんなの店員の出来心を誘発するだけの蛮行だと思った。

 そう考えると、これだけの金額であるならば、交番に届けるべきだと思った。交番ならしっかりと拾ったものに対する書類を作成するからだ。

 そして、そう思いを定めると、何故か再度タノスケは小銭入れの中を見たのだが、その時、この小銭入れには内ポケットがあり、そこに小さく折りたたまれた何枚かの札があることに気がついた。何故かタノスケはゴクリと唾を飲み込んだ。

 内ポケットを探り、札を取り出してみると、なんと千円札が二枚と、五千円札が三枚、そこには入っていた。何故かタノスケはガッツポーズをした。もちろんネコババなぞする気は毛頭ない。そんな浅ましいことをしたら妻子を傷つけることになるのだから、そんな気は毛頭ないが、何故かタノスケはガッツポーズをした。そして、再び天を仰ぎ、独り言ちた。

「しょせん警官も、信頼できねえしなあ……」

 タノスケは小銭入れを自分のバックの奥に詰めると、トイレを出た。そして、コンビニで百円の淹れ立てコーヒーを買って店を出たのだが、支払いの時、タノスケには何故かいつもよりもコーヒーが安く感じられた。

 んで、コーヒーを啜りながら公園に戻り、友達と遊んでいる夏緒の姿を見つけると、夏緒もタノスケに気づき、笑顔で大きく手を振ってくれる。それは平凡な日常の一コマにすぎないが、平生タノスケにしてみれば何にも代えがたい一コマであり、いつもはかなり嬉しい心地になるのだが、何故かその時は夏緒のその笑顔と手の振りに上の空で対応してしまった。

 そして、何故かソワソワしてきてコーヒーを一気に飲むと、あることに気がつき、だんだんむかっ腹がたってきた。あることというのは、千円札を二枚入れていたことは分かるが何で他は五千円なんだ、と思ったからだ。千円札は、自販機や駐車場の自動精算機などで使えることが多いが、五千円や一万円が使えないところは、けっこうあるのだ。だから、小銭だけでは必要時、金額が過小になる可能性があり、だからそれに備える必要があるとの理論により、千円札を入れるのはわかるが、しかし、ならば五千円札を入れた理由がわからない。なぜなら、五千円札が使える自動精算機ならば、必ず一万円も使えるのだ。ならば、金が足らなくなる非常時に備えるというのであれば、五千円三枚ではなく、一万円を三枚入れるべきなのだ。その方が小銭入れ内の合計金額が一万五千円も増え、より非常時に備えられるというものなのだ。

「まったく! どこのどいつだかしらねえが、間尺の合わねえ野郎だぜ!」

 吐き出すようにそう言うと、ちと声が大きすぎたか、離れたところで遊んでいた夏緒がチラとこちらを見た。それに対し何故かタノスケはドキリとし、何故か誤魔化すようなそそくさとした手の振りと、取って付けたような作り笑顔でもってそれに応えた。純朴な夏緒は安心したように再びお友達と遊び始めた。

 そしてタノスケは再びこの小銭入れをどこに届けるべきかを思案し始めた。

 それは極めて誠実な思案であった。実はタノスケ、〝奢られ屋の星〟の下に生を受けており、喜んでご相伴お預かり体質に出来過ぎているところがあるのだが、そんな体質でありながらも、少しも微塵も本当に、

━━もしかするとこの小銭入れは、日々奮闘する僕に向けられた神の饗応の一端なのかもしれねえぞ。うむ。そんな気するぜえ。濃厚にそんな気がするぜえ━━

 なぞ、考えることなく、誠実に、鉄の意志でもってこの小銭入れを持ち主に届けること、その方途について誠実に沈思黙考、思案し続けたのだ。そして、あらためて思った。

━━ああ、しかし、それにしても、ネコババなんぞ、そも微塵もしたいと思わないなあ。僕という男は、本当に心根の清い清い清い高尚な男なんだなあ。こういうところにきっと冬美は惚れているんだろうなあ。

 それに、無数の因果の流れを的確に見極める叡智に恵まれた僕は、もしも万が一、億が一、兆が一、ふいに出来心が生じてネコババなんぞ、そんなことをしたならば、それは結果として必ずや妻子を傷つけることになると確と知れるんだわなあ。バレるバレないではないんだわ。そういう行動をしたならばそれは我が精神に不可逆の影響を与え、そしてその影響は心の中で悪しきものと悪しきものを次々と連結させ、圧縮発火させ、そしてその愚火は必ずや妻子への愛無き攻撃用として心の中に温存されるんだわ。そんな愚行中の愚行、悪手中の悪手、この僕が打つはずがないんだわ。だから絶対に絶対にネコババなぞあり得ないんだわ。散々隠れて浮気しておきながらこんなことを言うのもなんだが、誠実性に欠けるネコババなぞいう糞行為、絶対に絶対にしないと僕は言い切れるんだわ。━━

 公園に目をやった。柔らかく優しい光の中で子供たちが遊んでいる。夏緒が笑っている。タノスケも笑顔になった。そして、命をかけてもこの幸福を守りたいと思った。それが自分が生まれてきた意味だとすら思った。するとその直後タノスケは虚心坦懐心地となった。自身の中から理屈が抜け落ちていくのを感じたのだ。そして、理屈なぞ、そんなのは頭の表面から出るもので、そんなのどうでもいいとすら思った。そんなものよりももっともっと鳩尾の奥、はらわたの芯から出る言葉に身を委ねたい、それだけを踏みだしの原動力としたい、そんな至誠極まる心地となった。そしてタノスケは、腹にグッと力を入れ、目をカッと見開くと、力強く言った。 

「だって、嫌だもん! 持ち主に小銭入れが戻らないの、嫌だもん! 持ち主が悲しむの、ぜったいに嫌だもん!」

 タノスケは駆けだした。一刻も早く持ち主を探し出したいという思いが本当に本当に抑えられなかったのである。

 んで、本当に時折公園に夏緒の様子を見に戻りながらも、本当に何時間も休み無く走り続け、本当に町中を汗だくになって走り続け、本当にその結果、本当に持ち主が見つかった。んで本当にタノスケは、本当にその小銭入れを、本当に持ち主に、本当に返した。

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