ピッチャーの名前 【諏訪原視点】
●常永 諏訪原
「速い」
バットを振ることもできず、見送った1番打者を責めることはできない。
「自慢するだけはあったか」
あの男の兄自慢を本気にはしていなかった。野球のことを何も知らない男に、からかい半分でお灸をすえてやろうと思っただけだったのだが……
兄だというあのピッチャー、球速もコントロールも申し分ないどころか、高校生であれだけ投げられる投手は全国でもそうはいないだろう。
隣からガタリと大きな音が立つ。
面倒くさげだった池田コーチが、いつの間にか隣に座っていた。
「あのピッチャーの名前は?」
「不動静真、1年生です」
記録員がメンバー表を確認して伝えると、コーチが身を乗り出す。
「1年か。……いいピッチャーだな。もったいない。あんな弱小校にいていい人材じゃない」
北仙丈のピッチャーを池田コーチが食い入るように見つめている。
常永のピッチャーにさえ、ここまで熱心に視線を向けているのを見たことがない。
池田コーチはピッチングコーチだ。投手を見る目は、誰よりも厳しい。
「カメラとスピードガン持ってこい。ああそれと……」
コーチが後ろに控えていたマネージャーに声をかけた後、近くにいた1年の肩に手を置いた。
「レギュラー何人か連れて来い。ああいう投手の球を打てる機会、そうそうないからな」
1年が困惑した表情になりながらも、レギュラーを呼びに立ち上がる。
「そんなにですか?」
「バッターボックスに立てば、お前らもわかる」
浮き立つコーチに、記録員が訝しむようにマウンドの北仙丈ピッチャーを凝視する。
常永の野球部には全国から集めてきた投手が何人もいる。
打てる機会がないということは、うちにいる投手ではあの球を再現できないということだ。150の速球を投げる投手もいるというのにだ。
「いろんなタイプのピッチャーのボールを経験するに越したことはないからな。特にあのピッチャーは……、わかるか?諏訪原」
コーチが俺に水を向けてくる。
「メジャーの投手を彷彿とさせますね」
「わかってるじゃないか」
投手の投球フォームというのは、選手によって違いがある。体格や目指すスタイルによって変わってくるからだ。
ほとんどの高校生投手は、日本のプロ選手に近いフォームになる。体格的に自分に合うフォームを見つけやすいからだ。
身長が190近くはあるだろう不動静真の体格は、メジャー選手に近い。メジャーのフォームに近くなるのは必然ではあるが……
高校球児でも全国にいけば、メジャーの投手のようなフォームで投げる高身長の投手がいないこともない。
だが、あんなに完璧なのは見たことがない。ああした速球を意識したフォームの投手は、ほとんどがコントロールが悪く、活躍できてないのが現状だ。なのに、北仙丈のピッチャーはあのスピードで制球力もいい。
「ああいう豪快に見えて綿密に理論建てたフォームで投げる投手を高校野球で見られるとはなぁ。指導者は誰なんだ?向こうには監督の類はいなさそうだが……」
池田コーチの視線の先にある北仙丈のベンチには、やる気のなさそうな教師がぽつんと一人座っているだけだ。
ただの責任教師だろう。野球経験すらあるかわからない。
「諏訪原、お前もバッターボックスに立ってこい。いい勉強になる」
「俺はもともと出るつもりだったのに、止めたのはコーチですよ」
「……下手なのとやって怪我でもしたらと心配したんだ。親心だよ。親心。あのピッチャーのコントロールなら故意でない限り大丈夫そうだからな」
投手に関しては厳しい目を持つ池田コーチが、お墨付きを与えるほどのコントロール。
興味がわいてきたよ。
あの弟が自慢するだけのことはあったというわけだ。
そうこうしているうちに1回の攻撃が終わっていた。
点どころか塁に出ることもできずに。




