第八話「チヤちゃんの秘密?」「それでもその手を汚すわけは?」
今をさかのぼること、五年と少し。
某県某所に設けられた、廃棄物最終処理場。
新月の夜空にかかる雲が、この場所を訪れた彼の姿を、闇の中に隠していた。
Lの字に折れ曲がった二本の棒に、いくつもの怪しげな装飾品や宝石などを取り付けたものを両手に握る男は、せわしなくそこかしこを歩き回る。
あるとき、Lの字の棒が彼の手の中で動き始めた。
こけた頬をし、ぼさぼさの長髪をオールバックにした男は、何かに取り付かれたように、その足元を掘り出す。
彼の手に、それが触れるまでは、間もないことだった。
「あった……あったぞ、リンフォン!」
廃棄物の焼却灰に手を汚しながら、男は地面にひざまずいて、感極まったようにそれを掲げ持った。
ソフトボールほどの大きさを持った、漆黒の正二十面体――すなわち、都市伝説に語られる呪具、リンフォンを。
(これさえあれば……! これさえチヤに渡してやれば……!!)
滅魔士にして、獄正の位を受けた稀代の呪具師でもある男、津上カズトモは、その場で歓喜の声を張り上げたいのを、必死でこらえていた。
◇◇
チヤちゃんのリンフォンは、あれから止まることを知らなかった。
わたしの編んだ「白妙小町」の術で飛ばした式神たちが指す方に、チヤちゃんは歩いていく。
その先では、絡新婦の子グモが待っていた。子グモたちのママに比べれば細くて短い八本の脚を、和紙でできた式神に絡め取られたままで。
「滅してやるわ、妖魔ども」
チヤちゃんは静かにそう言って、「熊」の「爪」に姿を変えたリンフォンを振りかざしていった。
鋭い爪で子グモを引き裂くために。
握り締めた熊の拳を、子グモの顔に打ち込むために。
両手で挟んで、ぺしゃんこに潰してしまうために。
さっきなんか、つかみ上げた子グモを、まるで掃除の時間に雑巾を絞るようにして、両手でねじり上げて、体を千切ってしまった。
わたしの持つ妖魔浄化のお札は……「丑寅封閂符」は、わたしの手の中で、手と一緒に震えているだけ。
なんとなくだけど、チヤちゃんがこのまま絡新婦の子グモを滅し続けることを、止めなきゃいけないような気がする。気がするんだけど、声を出そうとすると、まるで舌が金縛りにでもあったみたいに動かない。
「白妙小町」の術で見つけた子グモたちをすべて滅すれば、チヤちゃんはもう一度わたしに術を使うようにうながす。そうしたらわたしはもう一度「白妙小町」の術を編む。続けて、チヤちゃんがその先で子グモたちを見つけて、また滅する。ただ、それを繰り返すことしかできない。
わたしは「ワタシ」に代わってもらおうかとも思ったけれども、「ワタシ」はあれからずっとへそを曲げたまま、わたしに声すらかけてくれない。
足が震える。チヤちゃんは別に走っているわけじゃないのに、そんなチヤちゃんに追いつくことすら難しいくらいに、わたしの足取りがおぼつかなくなっている。
「これで十八匹。ユキ、次の『白妙小町』の術を……」
「ね……ねえ……」
それでも、わたしは勇気を振り絞って、声を出した。
チヤちゃんを、止めるために。
チヤちゃんは、絡新婦の子グモたちの血で染まった両手のリンフォンを着けたまま、わたしの方に振り返る。
あの、お日様の光が一筋も届かない、深海の奥底のような目つきが、わたしの顔を見つめている。
チヤちゃんは、わたしに言った。
「足を震わせてどうしたの? このぐらいの気温、寒いというほどじゃあ――」
「そ、そうじゃないの! そうじゃなくて……」
わたしは一生懸命考えた。チヤちゃんに、なんて声をかけようか、って。
一回、二回、三回と深呼吸して、わたしは重たい舌を、何とか動かす。
「あの……このまま絡新婦の子グモたちを祓って回るの、ちょっと待ってくれない?」
それを聞いたとたん、チヤちゃんは目の色を変えないまま、明らかにわたしの言葉に対してあきれたような表情に変わっていく。
「……あんた、自分のパパに言われた言いつけすらも守れないわけ? それに私がやっているのは妖魔を『祓う』ことじゃない。『滅する』ことよ」
「じゃあ、子グモたちを滅するのをちょっと待ってほしいの、チヤちゃん」
あきれきった表情のチヤちゃんの、視線が痛い。それに耐えながら、わたしはチヤちゃんに言う。
「チヤちゃんは、そのリンフォンで絡新婦を滅してるけど、それだと絡新婦の魂も砕けちゃうよね」
「……何を今更。そんなの、当たり前のことじゃない」
「じゃあ、一度砕けてしまった魂は、もう二度と輪廻することはできないのも、分かってるよね?」
そう。妖魔にだって、魂はあるんだ。
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。わたしたちの世界に巡る魂は、生まれては死ぬことを繰り返して、この六つの道を巡っている。これを「輪廻」というのは、わたしのパパやママが、よく教えてくれたことだ。
人も妖魔も、魂があれば、たとえその姿で命を落としたって、また別の道に生まれ変わって、輪廻という魂の旅を続けることができる。
でも、滅魔師はその力で、妖魔の魂を砕いてしまう。魂が砕けてしまえば、もう二度と、その人や妖魔は生まれ変われなくなってしまうことになる。
だから、チヤちゃんが今まで魂を砕いてきた、絡新婦の子グモたちは、魂すらも残さずに、この世界から消えてしまったことになる。
「あの子グモたちは、まだ何も悪いことをしていないんだよ。祓ってあげれば、もう一度魂が生まれ変わることだってできたのに、あんな風に話も聞かないで滅しちゃうなんて――」
そんなわたしの声をさえぎって、チヤちゃんはぽつりとつぶやいた。
「――一兆六五五三億一二五〇万年」
「……え?」
「これが何を意味するか、あんたには分かるかしら」
いっちょ……ええっと、一万の次が……確か一億だから……
わたしが、わたわたしながら一生懸命指を折ってたら、チヤちゃんはため息をついた。
「そのぶんだと知らないようね。これはね、地獄の刑期よ。一度地獄に落ちた魂が、どれだけの時間、地獄で責め苦を受けなければならないのか、っていうね」
なんで、チヤちゃんはいきなりこんなことを話し出したんだろう? わたしはさっぱり分からないけれど、チヤちゃんの話は続いていく。
「これは遥か未来――弥勒菩薩が私たちの世界に訪れて、衆生を済度すると言われる、五六億七〇〇〇万年先まで時が経ったとしても、その刑期の三千分の一強が終わるに過ぎないほどの、想像を絶するほど長い時間よ。それだけの長い長い時の間、地獄に落ちた魂は、ただただひたすらに地獄の刑罰に苦しまなければならないの」
「…………」
まだ、よくは分からない。けど、でもチヤちゃんが話していることが、とても恐ろしいことだ、というのだけは分かる。
「しかもこの刑期は、地獄の中で最も刑期の短い等活地獄のもの。地獄の最下層である阿鼻地獄にまで落ちれば、もはや刑期は永遠にも等しいわ。あんたたち退魔師は、魂が再び輪廻できるようにと妖魔を祓うけれども、祓われた魂がどこに送られるのかまで、考えたことはあるのかしらね」
「で……でも! 絡新婦たちの魂が地獄に行くなんて決まってなんか……!」
わたしはチヤちゃんの言葉を止めようとするけど、チヤちゃんは聞き入れてくれない。
「いいえ。決まっているわ。絡新婦は、死したなら地獄に落ちる」
リンフォンを着けて、本物の熊の前足のように膨らんだ手の指で、チヤちゃんは地面を指した。
「死した魂が等活地獄に落ちる条件は、生前に殺生の罪を犯したこと。絡新婦のように、人を食らう習性を持つ妖魔は、ただ普通に妖魔として生きるだけでも、この条件を満たすことくらい、あんたでも少し考えれば分かるでしょ? しかも妖魔には、人間と違って菩提心が備わっていない。犯した罪を悔やんで、その償いをするという発想自体がないのよ」
チヤちゃんの言葉は、重なれば重なるほど、どんどんと冷たくなっていく。わたしは、冬でもないのに、耳が霜焼けを起こしたみたいになっていくのを感じる。
だからと言って、チヤちゃんはそこで止まってはくれない。
「ユキ。あんたは妖魔を祓うことで、その魂を救った気になっているのかもしれないけれどね――。その結果、妖魔の魂は地獄で気の遠くなるほどの時間、罰を受け続けて苦しむ羽目になるのよ。自分が命を奪った人間を知っている人も、その子孫も、すべてがいなくなるほどの時間が経っても、なお地獄に落ちた妖魔は責め苦を味わわなければならない。妖魔をそんな立場に追いやって、それで妖魔を救えていると考えるなら大間違いよ」
ずい、とチヤちゃんはわたしの方に身を寄せた。
わたしが、チヤちゃんの瞳の奥の奥まで見ることができるほどに、チヤちゃんの顔がわたしの顔に近づく。
「ユキ、これだけは言っておくわ」
チヤちゃんの声が、息に混じってわたしの耳を打った。
「妖魔を祓うことが、妖魔に対する優しさだと思っているなら、その甘ったるい勘違いからは今すぐ目を覚ましなさい。時には、二度と魂が輪廻できないことを承知の上で、魂が地獄に落ちる前に砕いてやることが、本当の優しさになるのよ」
それだけ言って、チヤちゃんはわたしのところから離れていった。
わたしに背を向けて、緑地公園の奥を目指して進んでいくチヤちゃん。
わたしは、そんなチヤちゃんを追おうとして、足を動かした。
わたしの足は、次の一歩を踏み出すことはなかった。その代わりに、落ち葉で覆われた地面に、両膝が落ちてしまった。
わたしの目の中では、からっぽの洞窟みたいなチヤちゃんの目つきが、いつまでも離れなかった。