第五話「チヤさんの生家の秘密」
「やっぱり、このお店のトマトガーリックバーガーは、いつ食べても美味しいですね」
全国で展開する、とあるハンバーガーチェーン店の駐車場。
そこに停められた、異様な姿をした白のセダンの運転席で、レイヤは昼食を頬張っていた。
前後のバンパーがあり得ないほどベコベコにへこんだ白のセダン。その車体の前後左右には、まるで内部に凶悪な妖魔を封印するかのごとく、これでもかとばかり総計十枚以上張られまくった初心者マークが見える。
この駐車場に入る時にも、バンパーに二つ三つへこみを追加することになったこの白のセダンを見て、両隣に駐車していた車はすでに逃げるように発車していた。
前戸レイヤは天才滅魔士――しかし、いかんせんその天賦の才は、車を運転することには発揮されなかった。
(ようやく念願の免許も取れたことですし、せっかくならチヤさんとも一緒にまたドライブをしたかったのですが……。今回ばかりは、任務ということで仕方ありませんね)
だが、仮に今のレイヤが任務を帯びていずとも、チヤがこの車に乗ることはあるまい。最初にレイヤの運転する車に乗った際の、地獄のような乗り心地を覚えている限りは。
(チヤさんも、僕とのドライブのときは、珍しく興奮したように大きな声を上げていましたしね。最後はちょっと疲れて眠ってしまったようですが、それでもチヤさんが年相応の子どもらしく、はしゃぐ姿を見られて、師匠としても一安心です)
レイヤはチヤとの最初のドライブを思い出しながら、楽し気に目を細めていた。
しかしその実、チヤが上げていたのは「もっと修行を頑張りますからこれ以上はやめてくださいお師匠様ぁぁぁぁ!!!」という命乞いの悲鳴であり、最後に疲れて眠っていたのは、レイヤの激しすぎる運転によりチヤの三半規管に対する拷問が絶頂すら突破し、もはや意識をとどめておけず人事不省に陥る羽目になった、という黙示録のごとき大惨事ゆえであった。
以降、チヤはレイヤの車に乗ることを、さながら閻魔大王の裁きのように恐れるようになった。そして、現世に顕現した地獄とでもいうべき運転により、無辜の人間が犠牲とならないよう、初心者マークをこれでもかとばかりに張り付けた。
幸か不幸か、チヤのその気遣いは今のところ功を奏している。レイヤの車のただならぬ姿を見た他の車は、色々と察して彼の車から離れてゆくためである。
さて、そんなチヤの恐怖と気遣いなど知る由もないレイヤは、そこで助手席に目をやり、そこに乗った書類を見つめる。
土地や家屋の権利に関する書類、そして今回レイヤが受けた任務に関する書類、これらがごちゃ混ぜになって散らばっている。
(僕は丁寧な運転を心がけているのに、毎回毎回こうまで書類が飛び散るのは何とも腑に落ちないところではありますね。ただ、それはそれとして……)
それはそれとしておいてよい問題なのかは分からないが、何にせよレイヤは指をウェットティッシュで拭ってから、書類を手に取りなおす。
(念のため、今回の任務を再確認しましょうか)
書類の内容に目を通すレイヤの脳裏には、しばらく前に滅魔師連盟の連盟長と交わした会話がよみがえっていた。
◇◇
「承知しました。チヤさんの生家を、僕が調査すればよいのですね」
滅魔師連盟本部。その最奥部にある連盟長室の暗がりで、レイヤは座布団の上に正座していた。
「ああ。レイ坊……手前ぇに大獄正の位の得度も許してやったことだし、そろそろ頃合いだろうと思ってな」
レイヤの対面の座布団に座る者は、しわがれた老爺の声をもって、レイヤをあだ名で呼んでいた。
「五年前のあの一件のことは、レイ坊もさすがに覚えているな? チヤの家が火事を起こして、チヤ以外の家族が全員くたばったあの事件だ」
「はい。チヤさんのお父様のカズトモ獄正は、僕の滅魔士としての先輩でもありましたからね。そのとき僕は別の任務に向かっていましたが、その任務の最中にカズトモ先輩が亡くなられたと聞いて、大変悲しく思いました」
レイヤは首を床に向けた。かけた眼鏡からは、光が失われる。
「ひとまず警察には、チヤん家の台所から出火して起きた火災、っつうことにしてもらったはいいが、あん時ゃ己らはてんてこ舞いだったぜ。滅魔師連盟の男どもをかき集めて、火事のついでに己らの存在をもみ消したわけだからな。だが、あの一件の後始末はまだ完全に終わったわけじゃねえ」
「ええ。そうですね」
レイヤもまた、その言葉には同意する。
「今んところ、チヤん家は己ら滅魔師連盟が表の世界で使っている名義で管理しているが、ゆくゆくはチヤに引き渡すことも考えなきゃならねえ。それに備えて、あの家も整理が必要だ――っつうのが、表向きの理由だな。そしてその裏側の理由は分かるな? カズトモの野郎があの家に残した研究資料、そいつもいい加減回収しておきてぇってわけよ」
レイヤの対面に座る滅魔師連盟の連盟長の姿は、部屋の暗がりに隠れて、よく見ることはできない。それでも、その声ははっきりと耳に響く。
「カズトモ先輩は、滅魔師連盟の中でも屈指の呪具師……呪具の作り手でしたからね。僕も、カズトモ先輩と獄正への得度を賭けた試合をしたとき、先輩の作り出した呪具に、ひどく苦しめられたことを覚えています」
「なら、そんなカズトモの野郎が残した研究資料を、いつまでもそのままにしておく道理はねぇよな? こいつを回収すれば、己ら滅魔師連盟は、もっと色々な呪具が作れるようになるかも知れねぇ――チヤがカズトモの形見として持ってる、あのリンフォンみてぇなやつがな」
「……彼女の師匠としては、今のチヤさんにあれを持っていてほしくはないのですが、リンフォンがお父様の形見であることを考えると、強くも言えないのが悩みどころです」
困ったように、レイヤは眼鏡の奥の目を細めた。滅魔師連盟の連盟長は、暗がりの中からそんなレイヤを眼光で射抜いている。
「で、だ。そのカズトモの残した研究資料についてだが、回収にあたっては問題が一つある。これももう言わずとも分かるな、レイ坊?」
「――ええ。カズトモ先輩の研究資料は、妖魔が封印されている結界の、その内側に残されている可能性が高い、という点ですね」
レイヤは眼鏡のブリッジに人差し指をかけて、静かにずり上げた。連盟長は、暗がりの中で満足げに口元を歪め、歯を覗かせる。
「まさにその通りだ。あの時火事の家で保護されたチヤの証言から、五年前の事件を簡単にまとめりゃこうなる。つまり、何らかの理由でチヤの家に妖魔が現れ、チヤの家に火事を起こして、チヤ以外の家族全員を殺した、ってわけだな」
「ですが、我々滅魔師連盟がチヤさんを保護したとき、チヤさんの家にはすでに妖魔は存在していなかった、と当時の報告にはありましたよね」
「そうだ。一方で、チヤん家の地下室に通じる扉には、事前にカズトモが仕掛けておいたであろう、妖魔封印の結界が残されていた。となると、その扉の――つまりは結界の中には、チヤの家族を殺った妖魔が今でも封印されている、とこう来るだろうな」
連盟長は、そこで傍らの湯呑みを手に取った。湯呑みの中の茶をすする音が、一つこの部屋に響く。
湯呑みを元の場所に置いたならば、連盟長の話は続いてゆく。
「五年前の時点でも、己らはカズトモの家に一度捜索を入れている。その時は、封印を解かないようにあえて結界の外側だけを見て回り、資料を回収した。だが、見つかった資料はわずかなもので、その内容も箸にも棒にもかからねぇものばかり。おそらくカズトモの野郎は別の場所に、あいつの研究資料の大半を置いておいたんだろうな。そして、その『別の場所』は、もはや結界の中しか考えられねぇ。妖魔がおねんねしているであろう、結界の中しか、な」
「まさに、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』の状況というわけですね」
ずり上げられたレイヤの眼鏡に、光が戻る。
「同じくチヤさんの証言からすると、そこに封印されている妖魔は、おそらく炎を操る力を持っているでしょうね。ですが、判明している情報がこれだけでは、さすがに妖魔の正体を割り出すのは難しそうです」
「そこで手前ぇの……レイ坊の出番ってわけだ」
滅魔師連盟長は、部屋に落ちる影の中で、レイヤの胸を指差し、言う。
「大獄正になった今の手前ぇは、滅魔師連盟内で今動ける奴の中じゃ、間違いなく最高位に近い力を持っている。結界の中の妖魔の正体が分かろうが分かるまいが、手前ぇならゴリ押しでそいつをのしちまえるだろう。何せ、レイ坊を手ずから鍛えてやったのは、この己なんだからな」
レイヤは一つ、座布団の上で頭を垂れた。
「僕をここまで鍛えていただき、ありがとうございます。連盟長」
「その鍛えてやった礼は、今の手前ぇの弟子であるチヤに返してやんな。さしずめ今回の任務は、大獄正になった手前ぇへのご祝儀代わりってとこだ」
頭を垂れたレイヤの耳に、衣擦れの音が入り込む。
連盟長が立ち上がり、この部屋を後にしようとするのだと、レイヤは気付いた。そっと、頭を持ち上げ直す。
見れば、連盟長の眼光が、上からレイヤを刺し貫いていた。
「今回の任務、生きてカズトモの資料を回収してこい。そのためなら、手段は選ぶなよ」
「はい。承知しました」
「手段は選ぶな」――連盟長の言葉の意味を、レイヤは理解している。
それは、必要ならば、連盟長がレイヤに手ほどきをした、あらゆる滅魔の術の使用を許可する、という意味に他ならない。
伝承によれば、滅魔師連盟に伝わる滅魔の術は、地獄の獄卒の拷問術から生み出されたとされる。その恐るべき術のすべてを使用してよいという許可が、どれほどの重みを持つものか、レイヤは心中で改めて噛み締めていた。
(願わくば、ザンエ連盟長が危惧されるほどの大事にまで、ならないと良いのですが)
レイヤは、滅魔師連盟の連盟長の名を心に浮かべながら、静かに祈っていた。
◇◇
ごぱぁん! という樹脂製のバンパーが固いものに激突する音が響いた。
レイヤの運転する、白のセダンのバンパーが、街路樹にめり込んでいる。
「……おかしいですね。なぜ街路樹がこんなところに?」
白のセダンの運転席で、レイヤは首を傾げた。
すぐさま、ギアを後退に合わせ車体をバックさせたのち、即座に前進にギアチェンジしてアクセルを踏み込み――
ごぱぁん! という樹脂製のバンパーが固いものに激突する音がもう一度響いた。
幸い三度目の街路樹との激突こそ避けられはしたものの、バンパーのへこみがまた二つ増えることになる。
ハンバーガーチェーン店の駐車場内で食事を終え、駐車場から道路に出るレイヤ。だが、駐車場から道路に出る道幅は十分に広く、当然ながら街路樹もその経路を邪魔する位置には生えていない。
およそ通常の人間なら、わざとぶつかりにでもいかなければぶつけようのない街路樹に、レイヤは二度も車体をぶつけながら、走り出す。
舞白市のある県から遥かに離れた、チヤの生家を目指して。
なお、この物損事故は、ハンバーガーチェーン店の防犯カメラに写ってこそいたものの、警察はその捜査を断念することになる。
二度もレイヤのセダンをぶつけられた街路樹は、実はそのとき朽ちかけており、レイヤが出たおよそ五分後にめきめきと音を立てて倒れた。
その街路樹が倒れたとき、ハンバーガーチェーン店に通じる電線に引っかかり、チェーン店が停電――その結果、突然の電源遮断により、電子データとして記録されていた防犯カメラの画像が破損した。
防犯カメラのデータの読み込みようがないならば、警察も捜査を諦めざるを得なかったのである。