第四話「まだ夢に見る、パパとの思い出」
「ただいま、チヤ」
チヤの家に、今日も父が帰ってきた。
「お帰りなさい! パパ!」
幼いチヤは、家の玄関で靴を脱ぐ父に駆け寄る。
頬が細くこけた顔が、チヤを見てほころびる。オールバックにしたぼさぼさの長髪が、一本にまとめられた後頭部で楽しげに揺れる。
この男――津上カズトモこそが、チヤの父。
同時に、当時の滅魔師連盟にて、有数の腕を持つ呪具の作り手――すなわち呪具師として知られた男でもある。
「チヤ。今日はお土産があるよ」
カズトモはそう言いながら、カバンから静かにそれを取り出す。
ソフトボールほどの大きさを持った、漆黒の正二十面体を。
「これは?」
チヤは首をかしげた。カズトモは、チヤにそっと答える。
「これはね、『リンフォン』と呼ばれる道具なんだ。前から探していたんだけれど、ようやく見つけることができてね。これからパパが、これを作り替えようと思うんだ。チヤが大きくなったときに、これをプレゼントしてあげるからね」
プレゼントと聞いて、チヤは飛び跳ねる。
「ありがとうパパ! 私、早く大きくなりたい!」
小躍りするチヤのかたわらで、カズトモは玄関に上がり、洗面所を目指した。その背に向けて、チヤは一つの願いを口にする。
「あとねパパ! 今日寝る前にお話を読んで! 『やさしいごくそつ』のお話!」
「おやおや。チヤはお利口さんだから、もう大人の本だって自分で読めるんじゃないか?」
「でも、パパに読んでほしいの!」
「そうか。じゃあ、ご飯を食べてお風呂に入ったら、寝る前に読んであげるよ」
洗面所に入ったカズトモは、チヤにそう答えた。
◇◇
「――『むかしむかし、心のやさしい獄卒がいました。獄卒とは、地獄に落ちてきた罪人に、ばつを与えることをおしごとにした鬼のことです。』」
パジャマに着替えたチヤは、あぐらをかいた父の膝の上にちょこんと座り、父が目の前で広げた絵本を見つめていた。
本の題名は、「やさしいごくそつ」。
地獄で罪人を拷問する日々に疑問を持った獄卒が閻魔大王に叱られ、そののち賽の河原で幼い子どもを助けた、という話。チヤは幼い頃から、何度もこれを父から読み聞かせてもらっていた。
「――『わるものたちのことを覚えている人は、もうとっくに生者の世界にはひとりとして残っていません。それでも、わるものたちのばつはけっして終わりません。わるものたちが生きていたころ、じぶんたちがどんなわるいことをしたのか思い出せなくなっても、それでもばつを止めてはならないと、閻魔大王さまは獄卒にめいじたのです。』」
「わるものたちも、かわいそう!」
絵本のこの箇所を父に読んでもらうたびに、チヤの胸は締め付けられた。
地獄に落ちた罪人は、永遠にも等しいほどの長い年月を経なければ、地獄から抜け出せない。
たとえその罪人のことを覚えている者が、誰一人としていなくなっても、罪は決して消えることはない。それを知って、これほどむごい罰があるものかと、チヤは幼いながらに感じていた。
このくだりを経て、いよいよここからが面白いところだ、とチヤが思い始めた頃、彼女は気が付いた。
自分の上から聞こえるはずの、父の声が聞こえない。
「パパ? 寝ちゃったの?」
チヤは、背中にいるはずの父を見ようと、父の膝の上で振り返った。
その後ろ側は、すでに火の海だった。
「!!!」
火の海の中に座る父の顔は、燃え盛る火が逆光となって見ることはできない。それでも、父には致命的な変化が起きていることは明らかだった。
父の体が、その内側から吹き上がった闇に引き裂かれ、たちまちのうちに人としての形を失っていく。
チヤの目の前には、地獄の底のような闇に包まれた妖魔の影が伸び上がり――。
◇◇
「!!!」
チヤは、たまらずに荒い息を上げながら、上体を起こした。
もうそこは火の海ではない。父カズトモの姿もない。
更に言えば、そこはチヤの生まれ育った家ですらない。
(……夢……ね……)
ここは、退魔師連盟本部の一室。今日からしばらく退魔師連盟の中で寝起きするために、シロガネが貸し与えた部屋である。
それを思い出したチヤは、あの時よりも大きくなった自身の体を包むパジャマを見て、時の流れを感じていた。
(最近見ていなかったのに……寝る場所が変わったからかしら)
チヤは考え始めた時、彼女の耳はふと足音を捉えた。
「チヤちゃん?」
その声とともに、部屋のふすまが開かれる。
鵠野ユキ――退魔師連盟の連盟長シロガネの娘にして、退魔師を務める少女である。
「大丈夫? なんだか苦しそうだったけど」
ユキに声をかけられて、チヤの心はその温度を下げてゆく。
「大丈夫よ。ちょっと目が覚めただけ」
「わたしみたいに喉が渇いちゃったの? それともおトイレ? おトイレの場所はもう分かる?」
チヤは、調子が狂わされるのを感じながら、寝る前におろした髪の毛に手を差し入れる。
「そのしゃべり方と髪の色からして、今のあんたは人間の方のユキでいいのかしら? まあどちらにせよ、私に気遣いは無用よ。明日また学校なんだから、静かに寝かせて。ついでに言うなら、妖魔の方のあんたは私の前に二度と顔を出さないよう、言っときなさい」
チヤはもう一度体を寝かせ、布団を頭からかぶり直す。
その中で、チヤは独り言のようにつぶやいていた。
「まったく、人間の魂と妖魔の魂が一つの肉体に同居してるなんて、私も初めて聞くわ。そっくりそのまま妖魔のあんたの言葉を返すけど、あんたの両親はいったい何をやったのかしらね」
「…………」
ユキは、開いたふすまの向こうで、目をうつむかせた。一瞬だけ、口を開こうかとも思いながら、すぐに閉ざす。
もう一人の自分が、チヤの言葉を受けて胸の中で怒り狂っている。ユキはそれを感じないはずもないが、今ここで入れ替わって喧嘩をすれば、寝静まっている他の人たちに迷惑になる、と言い聞かせる。
ユキは、チヤの部屋のふすまを静かに閉め、自分の部屋の方へと向かっていった。