第三十話「認めよう、私のこの過ちを」
滅魔師連盟本部、最下層。
滅魔師たちからは「牢獄の間」と呼ばれるこの階層を、獄門寺ザンエは歩いていた。
この階層に張り巡らされた廊下の幅は広く、大人が三人横に並んでも、楽に歩いてゆけるだけのゆとりがある。「試技の間」のように、廊下には霊力を燃やす篝火がかけられていた。
一定の間隔をおいて壁に掛けられた篝火に導かれるようにして、ザンエは奥の奥まで進む。
やがて、地下の闇の中から、その光景が少しずつ浮かび上がってくる。
廊下の突き当たりで、ザンエは足を止めた。
「ちったぁ頭が冷えたか、カズトモ?」
ザンエの目の前には、異形の牢屋が構えられていた。
その牢屋は、一区画だけで家一軒が優に建てられるほどの広さを有していた。それだけの面積を覆う分、鉄格子も壁に長く広がっている。
中には、牢屋には似つかわしくない、上等な机やキャスター付きの椅子、そして様々な道具が並べられていた。
壁際の棚には、いくつもの道具がぶら下げられ、ある棚には書類がぎっしりと詰め込まれている。
それは、牢屋の中に作られた、一棟の研究室に他ならなかった。
「――――」
この牢獄の研究室の主は、ザンエの声を受けて、椅子ごとその身を振り向かせる。
こけた頬。手入れの行き届いていない長髪。そこに今は、猛禽めいたぎらぎらとした眼光が加わっている。
この男こそ、津上カズトモ。五年前に自らが行った実験により閻婆に身をやつし、そしてついこの間、娘の手により、人間の姿を取り戻した、狂気の呪具師。
カズトモは、名を付けることも難しい激情を腹の内に秘めながら、ザンエに答える。
「これはこれはザンエ連盟長。十年前の獄正得度戦のことを、私に詫びにでも来られましたかな?」
年月を重ねても、いまだ白さの衰えない整った歯を、ザンエは剥き出しにした。
「その口ぶりはいけ好かねぇが、どうやら己と話をする気ぐれぇは戻って来やがったようだな」
今から一週間前のことを思い出しながら、ザンエは吐き捨てるように言った。
隣町の工事現場となった空き地で、チヤの振るった「布都御魂剣・人為」により、人間の姿を取り戻したカズトモ。その身柄を押さえ、この「牢獄の間」に閉じ込めた時は、本当に妖魔から人間に戻ったのかを疑うほどに、彼は錯乱し、狂乱していた。
だが、その後にチヤとの――カズトモに残された唯一の肉親との会話を経て、彼は少しずつ人間としての正気を取り戻していった。
今朝がたになり、カズトモは何とか会話が成り立つほどにまでに精神が安定したとの報告がなされた。
それを受け、ザンエはこうして、「牢獄の間」の最奥部にまで、自ら足を運び、今に至る。
「手前ぇが今こうして、人間として生きていられることに関しちゃ、せいぜい他の連中に感謝しとけや。最初は手前ぇの魂を砕いてやるつもりでいた己を、翻意させるまで説得を続けたレイ坊。レイ坊が口を滑らせたせいで、この一件にしゃしゃり出て来やがったシロガネ。神代の秘術なんて切り札まで出してきやがった、ユキとかいうシロガネんとこの餓鬼。それと、シロガネの率いる退魔師連盟。こいつら全員が全員とも、手前ぇを救うためにわざわざ持つ必要の無ぇケツを自分から持ちに来やがったんだぜ?」
ザンエは、両の目に力を集めながら、射抜くようにしてカズトモの顔を見つめている。
「結局のところ、己ら滅魔師連盟のクソくだらねえ内輪揉めに過ぎなかったこの一件……己らで内密にケリを付けてやるはずだったが、その目論見は全部台無しだ。でけぇ貸しを、よりにもよってシロガネの野郎に作っちまったのは、失態以外の何物でも無ぇぜ」
カズトモは、まるで閻婆であった頃を思わせるようなぎょろぎょろとしたまなこで、ザンエを舐めるようにして見つめ返していた。
「だからな、カズトモ。この落とし前は、手前ぇにもきっちりつけてもらうぜ。もう手前ぇも気付いているだろうが、この牢獄に運び込んでやったのは、手前ぇん家の地下室に置いてあった、呪具の研究資料や道具一式だ。――もちろん、禁術の研究資料は、己らで先に没収して処分させてもらったがな。それでも、まだなかなかの量が残っていやがった」
ザンエは、紋付の懐に右手を入れ、それをするりと抜き出す。ザンエの愛用する、八大地獄の描かれた扇子が、ザンエの右手から現れた。
「幸か不幸か、手前ぇは表の世界ではもう死んだことになってるからな。少なくとも、この一件の落とし前をきっちりつけ切るまでは、手前ぇに娑婆の空気は吸わせねぇ。この牢獄の中で、己ら滅魔師のために、役立つ呪具の研究を続けてもらおうか。当然、手前ぇの研究成果は逐一監視しているから、また妙なものを作れるとは思うなよ。それが手前ぇの犯したこの過ちへの、罪滅ぼ――」
「火ぁ火火火火火火っ!」
ザンエの話し声と、篝火が弾ける以外、音という音の絶えていた「牢獄の間」を、突如としてカズトモの狂笑が切り裂いた。
ザンエは思わず口をつぐみ、カズトモの奇行を睨みつける。
天井を見て、両手もまた天に掲げるカズトモの笑い声は、しばらく止むことはなかった。
笑い声がやめば、カズトモは首を左右にかしげつつ、牢獄の向こう側にいるザンエに迫る。
「ご心配なく。でしたらすでに、一つ罪滅ぼしはさせていただきましたよ、ザンエ連盟長。昨日チヤがここに来たとき、チヤのリンフォンに一つ細工をさせていただきました」
カズトモは、すうと一つ息を吸い込んだ。
「!!!!!!」
それが終われば、カズトモの口からは、とても人間が出せるとは思えない、怪鳥のごとき叫び声が吹き上がる。
それは、カズトモが閻婆の姿をとっていたときに上げていた、あの金属を引き裂くような甲高い鳴き声に他ならない。
それが終われば、カズトモは全身をくねらせて、ザンエの方に体を向ける。
「……とまあ、今の私の声を、リンフォンの言霊錠に新しく設定させていただきましたよ。まともな人間の喉では、発音自体が不可能な言葉を封印の鍵として使っています。また地獄から別の閻婆がやって来るようなことでもない限り、これであの言霊錠が誤って解除されることは、まずありえないでしょう」
カズトモは、椅子から立ち上がった。
今度はその場で、鳥の鉤爪の動きを思わせるような、軽快な足さばきでもって、小躍りを始める。
「いやはやそれにしても、振り返ってみれば私も、今回ばかりは反省することしきりです。今思えば、私は何と愚かな過ちを犯していたのでしょうか」
「……ほう?」
ザンエは、顎を扇子でかきながら、カズトモの意外な物言いに感嘆の声を上げた。
「随分と殊勝な言葉が出てくるじゃねえか、カズト――」
がしゃん! という重々しい金属音が響いた。
ザンエはそこで、カズトモが目の前の鉄格子を握り締め、ザンエにこれでもかとばかりに顔を近づけていたことに気が付く。
「はい! レイヤ君に勝つのは私でなければならないなどという、狭い視野しか持てなかったのは私の完全な手落ちです!」
「……あぁ?」
ザンエは、今回ばかりは怒りではなく、純粋な困惑ゆえに、この声を上げた。
だが、カズトモはそれでも、長広舌を止める様子はない。
「ザンエ連盟長もご覧になったでしょう! チヤが……私の娘が、父親である私に対してすら、容赦なく刃を向けてきたあの姿を! 肉親を相手にしてすらかけらも情で鈍ることのないあの太刀筋……私が封印されていた五年の間に、チヤは霊力のみならず、滅魔師として必要な冷徹さまでも身に着けていたのですよ! あの甘ちゃんのレイヤ君には、絶対に到達できないであろう境地にまで至ったとは、わが娘ながらなんと素晴らしい!」
カズトモは、顔を天井へと向けた。まるで天に昇るかのような恍惚とした表情を浮かべ、あまつさえ両目からは、感激の涙をしとどに溢れさせている。
「あれならば、チヤは遠からず、レイヤ君を凌駕する滅魔師へと成長するでしょう……。ああ、チヤ……私の果たせなかったレイヤ君への意趣返しを、私に代わって果たしてくれるとは、生まれた時から今の今まで、なんとお前は親孝行な娘なんだ……!」
がばり、という音すら聞こえそうなほどの身のこなしで、鉄格子の向こうに振り返ったカズトモ。ザンエの顔が映り込むその目は、狂喜で血走っていた。
「そういうわけで、さっそく一つ、リンフォンを更に強化するアイディアを思いつきました。もはや私は、レイヤ君に勝つことに執着などありません。今はただ、チヤが最強の滅魔師の座に就くその日の訪れが一日でも早くなるよう、チヤのために呪具を作ってやりたい気持ちでいっぱいです。なので、これにて私は失礼させていただきますよ」
カズトモは、鉄格子の間際まで引き寄せていた、キャスター付きの椅子の上に、乱暴に腰かけた。床を蹴りつけて、牢獄の中の机の前まで、椅子を転がして移動する。
「チヤ……次の面会までに、この設計図を完成させておくから、早くおいで。パパのプレゼントが、待っているよ」
一心不乱に、机の上のノートに何やら書き殴り始めたカズトモ。
もはや、今の彼の耳には、誰の言葉も入るまい。そう考えたザンエは、独り言だと分かりながらも、こうこぼさずにはいられなかった。
「カズトモ……やっぱり手前ぇは、娑婆に出さねえのが正解だな」
と。




