第二十九話「お帰りなさい、チヤちゃん!」「それとあの夜の行く末は」
「はぁぁぁぁ……天国うぅぅぅぅぅぅ!!!」
わたしは全身を喜びで打ち震わせながら、肉肉軒のスペシャルニンニクラーメンを一気にすすった。
ここは、退魔師連盟本部の食堂。つまり、わたしの家の、ご飯を食べるところだ。和風の家具が多いわたしの家の中で、ここだけはテーブルと椅子がたくさん並んでいる。広さも十分で、一度に二十人くらいはご飯が食べられるくらいの大きさがある。
今、わたしが座っているこのテーブルで、肉肉軒のラーメンを食べているのは、わたしだけじゃない。
珍しくにこやかな表情をしているわたしのパパ。
いつもの笑顔を見せながらも、ちょっと困ったようなレイヤさん。
それと、明らかに引きつった表情で、わたしを見ているチヤちゃん。
今日は、みんなでお昼ごはんだ。
「ユキ。今日はお前の快気祝いだからな。ひとまずお前の分として、肉肉軒のスペシャルニンニクラーメンを五人前出前で頼んでおいたが、それで足りそうか?」
「うん! あ、でも麺の固さは……」
「一杯目がふつう、二杯目が固め、三杯目がバリカタ、四杯目がハリガネ、五杯目以降は粉落としだろう? もちろん、五杯ともニンニク丸ごとトッピングで頼んでおいた。抜かりはないぞ」
うーん! さすがパパ! わたしの好みをちゃーんと理解してくれてる!
……なんて思ってたあたりで、わたしの一杯目のどんぶりはもう空っぽになっていた。次の二杯目を、パパから受け取る。
「……本当に、ユキさんは今日意識が戻ったばっかりなんですよね……シロガネ連盟長?」
ノーマルラーメンを頼んでいたレイヤさんは、まるで妖魔を生まれて初めて見た人のような目つきをしながら、わたしを見ていた。
そんなレイヤさんに、パパは「もちろん」と答える。
「『くにつかみのよそほひ』を使った後、巫女のユキは力を使い果たし、しばらく目覚めることはない。たとえ井瓏石に込められた霊力があってもなお、あの力はそれだけの負担をユキにかけるわけだ。そしてこうして目覚めた後は、大人の五人前の食事くらい、軽く平らげてしまう。病み上がりでも、食欲は旺盛なんだよ」
からからと笑うパパに、チヤちゃんはなぜかドン引きしていた。頼んでいたチャーシューメンのどんぶりの中に、今にも割り箸を落っことしそうになっている。
「だとしても……ニンニクを『五粒』じゃなくて『五株』も食べるなんて異常よ! この量を一気に食べたら、腸内細菌が死滅して確実に体がおかしくなるじゃない!」
「だが不思議と、私の覚えている限りでは、ユキはニンニクでお腹を壊したことは一度もないんだ、チヤちゃん」
「ますますそんなのおかしいんじゃありませんか、シロガネおじさん!?」
あ。ここでパパが言った「ユキ」っていうのは、わたしのことね。もちろん「ワタシ」は、ニンニクが大嫌いみたいだし……
(まったくよ。こんなに派手にニンニクを食べるんじゃあ、今度はワタシが一週間は表に出てこれなくなるじゃない)
噂をすれば、ということで、「ワタシ」の声が胸の奥から聞こえた。わたしはラーメンを具と一緒にすすり上げる右手を止めないまま、左手をわたしの胸に置いた。
(わたしが眠っていた一週間の間、表に出ていてくれてありがとうね、「ワタシ」)
けさ、わたしが「ワタシ」の心の奥でようやく目を覚ますことができて、「ワタシ」と代わってもらった。そのあとに子ども用スマートフォンを見てみると、ちょうど日付はあの夜から一週間後になっていた。
それで、わたしは自分が一週間の間、意識を取り戻さなかったことを知ったわけだ。
あの夜、わたしがチヤちゃんと一緒に地獄から脱出してから何があったか。
その後のことは、今日の朝わたしが目覚めたときに「ワタシ」に教えてもらった。
無事に、「布都御魂剣・人為」をチヤちゃんに渡すことができたこと。
退魔師と滅魔師が力を合わせ、閻婆の妖術に対抗したこと。
レイヤさんが、閻婆の弱点を見つけてくれて、「ワタシ」たちを助けてくれたこと。
そして、チヤちゃんは、チヤちゃんのパパを救うことができたこと。
どれも、目の前で実際にわたしが見てきたように、ありありと頭の中に思い描ける。
(そりゃ、ワタシの記憶を「わたし」に共有したんだから、当たり前だけどね)
(ふふ、それもそうだね)
これで、スペシャルニンニクラーメンの二杯目もわたしは食べ終えた。次は三杯目だけど、まだまだわたしのお腹の虫は収まってくれない。
「ときに、レイヤ君。今回の一件だが、君の立場は大丈夫かな?」
このメンバーの中では唯一、ラーメンじゃなくて五目チャーハンを頼んでいたパパは、ふと心配するようにレイヤさんに声をかけた。
「結果はどうであれ、君が私に、ザンエ殿の口止めしていた情報を漏らしたことは事実だ。あれだけ堂々と我々が手を組むところを見たとあれば、もはやザンエ殿だって何があったかは気付いたはず。私としては、君の今回の行いには手放しの称賛を与えたいところだが、滅魔師連盟としては、そうも行かないだろう。その……ザンエ殿から厳しい処分を受けなかったかな?」
パパからの問いかけを聞いていたチヤちゃんの顔に、すっと影が落ちた。
一瞬迷って、チヤちゃんは口を開こうとした。でも、レイヤさんがそれを制する。
レイヤさんは、少しばかり困ったように苦笑いしながらも、それでも黙っていたりなんてしない。
「――その罰として、大獄正への得度を取り消されました。僕はもう一度、獄正の位にまで降格となります」
でも、レイヤさんの苦笑いが、次は微笑みに変わっていく。
「ですが、大獄正得度戦への挑戦権までは、剥奪されていません。僕はまた次の機会に、二度目の得度戦へ挑むことになります」
「頑張ってくださいね、お師匠様。男の人で初めての大獄正の座に、もう一回返り咲きましょう!」
チヤちゃんは、「ワタシ」には絶対に向けないだろうなあ……という、とびっきりの笑顔で、お師匠様に声援を送る。その顔は、もう一点の曇りもない、日本晴れの笑顔だ。
(冗談キツいわね、「わたし」。ワタシだって、あいつにあんな笑顔を向けられるのはごめんこうむるわ。ニンニクの臭いを嗅いだ時以上に、気持ち悪くなりそうよ)
そういうこと言っちゃうから、「ワタシ」はチヤちゃんに嫌われるんだよ? ……と、三杯目のラーメンのどんぶりを空にしながら、わたしは「ワタシ」に心の声で言い聞かせる。「ワタシ」は、わたしの胸の中で、すごくつまらなそうに顔を歪めていた。それを知っているのは、わたしだけだけど。
「ただ、お師匠様。リンフォンを私にすぐ返してくれて、本当に大丈夫でしょうか」
わたしが四杯目のスペシャルニンニクラーメンに口を付けたあたりで、チヤちゃんはおずおずと聞いた。
そういえば、チヤちゃんは閻婆との戦いのとき、リンフォンをレイヤさんに預けることを決意してたもんね。それは、わたしもちょっと気になるけど……
でも、レイヤさんは即答だった。
「大丈夫ですよ。そもそも僕が、あのときチヤさんからリンフォンを預かろうと考えたのは、リンフォンにかけられた封印が、僕らの会話で偶然解けてしまうことを恐れたからですしね。今のリンフォンには『あの仕掛け』がある以上、地獄の『門』の封印が解かれることは、きっとないでしょうから。それと」
レイヤさんは、口元だけは笑いながらも、その目じりはさみしげに下げられていた。
「……本当は、この一件にはチヤさんを巻き込みたくなかった、というのもあります。今回の一件、最悪の事態を迎えていたなら、カズトモ先輩を妖魔として滅さなければならなかった可能性もありましたからね。そうなれば、チヤさんは唯一生き残った肉親を滅する羽目になっていたかもしれません。そして、シロガネ連盟長のお力添えがなければ、その最悪の事態は現実になるところでした」
けれども、それを聞いたパパは、目をつぶって、腕を組みながら首を横に振るばかり。
「いや。私は実のところ何もしていない。この戦いで、『布都御魂剣・人為』を生み出すという希望をつかみ取ることができたのは、まぎれもなくユキとチヤちゃんの力によるものだ。チヤちゃんを救いたいと願ったユキと、そして『布都御魂』の術に協力してくれたチヤちゃん……二人の行動がなければ、いくら私が知恵を絞ろうと、他の退魔師に呼びかけようと、こうはならなかっただろう」
「ふふ……それはまたご謙遜ですね、シロガネ連盟長」
「いや、これは謙遜などではない。事実を言ったまでだよ、レイヤ君」
わたしがレイヤさんと初めて会ったときのように、パパとレイヤさんの間には、親しそうな空気が漂っていた。
さて、わたしが四杯目のスペシャルニンニクラーメンを完食し、残された最後の五杯目をお腹に収めようと、どんぶりのふちに手をかけたけど、そのときふとチヤちゃんのうつむいた顔が気になった。
「チヤふゃん、ろうふぃたの?」
いまだに歯ごたえ抜群の、粉落としの麺をすすりながら話しかけたため、わたしは「チヤちゃん、どうしたの?」ときちんと言えなかった。
いつものチヤちゃんなら、そんなわたしにあきれるところだけど、今のチヤちゃんはそんなことはない。ただ、苦しそうな顔をするのみ。
チヤちゃんは、わたしがニンニク一株を口に入れ終わったころになって、ようやく話してくれた。
「……私は、本当にパパを救ってよかったのかな?」
いつも前髪を止めるのに愛用している猫のヘアピンを握りしめながら、チヤちゃんは問う。
「だって、パパはお師匠様に負けたことを恨んで、それで禁術に手を染めたのよ。地獄に行くための研究だって始めて、そのせいで私のママとお姉ちゃんと弟は、五年前に命を落とした。お師匠様が、あの時浄玻璃擬鏡で裁いて見せた通り、きっとパパは死んだら、地獄に落ちるのにふさわしいだけの罪を重ねてるわ」
チヤちゃんは、深い青色のワンピースに覆われた太ももの上で、両手のこぶしをぐっと握りしめていた。
「……でも、だからこそ、私はパパに、滅魔師としてかけられる『優しさ』をかけてあげた方が、本当は良かったんじゃないかって、今でも思うの。いっそ、あのときリンフォン『魚』の『刀』の方を使って、魂を砕いてあげていたなら、それこそがパパにとっては一番幸せだったんじゃないかって、そう思えてしょうがないの」
チヤちゃんは、それきりまた、黙ってしまった。
しばらくの間、食堂の中には、わたしがニンニクラーメンをすする音だけが流れ続ける。
わたしがトッピングのチャーシューを全部食べ終わるくらいになって、押し黙っていたパパがチヤちゃんを見た。
そうしたら、パパはそっと、思うところを語り出す。
「こればかりは難しい問題だ。チヤちゃんのような子どもだけではなく、我々大人にだって、これが本当に最善の選択だったのか、自信をもって断言できる者はなかなかいないだろう。カズトモ殿をどうしてやればよかったのか、という問題についてはな」
そして、パパはふっとレイヤさんに目くばせした。
「そういえば、結局のところカズトモ殿の処遇はどうなったのだろうか、レイヤ君。あの夜、『布都御魂剣・人為』でカズトモ殿の人間としての肉体を切り分けたのち、カズトモ殿の身柄は滅魔師連盟に預けたが、そろそろ結論が出ているころではないかな?」
レイヤさんは、眼鏡越しに目線をパパに返した。
その目線を今度はチヤちゃんに向け、もう一度パパに向け直す。
そこで、レイヤさんはパパに答えた。
「カズトモ先輩は、滅魔師連盟本部の地下、牢獄の間に幽閉されることになりました。そこで、禁術の関連しない呪具の研究を、今後は続けてもらうことになります」
「つまり、カズトモ殿には、生きて罪を償う機会を与えたということか」
「はい。当初、ザンエ連盟長はこの一件の罰として、カズトモ先輩の魂を改めて砕く、ということも考えていたようです。ですが、そればかりは考え直すよう、僕がザンエ連盟長にお願いしました」
相変わらず、痛いほどに静かなままのチヤちゃん。そのチヤちゃんに、レイヤさんはそっと慈しみの視線を向けていた。
「もちろん、僕だってカズトモ先輩にあんなことを思われていたのは悲しいですし、これだけのことをしたのを許せない気持ちだってあります。でも、人間として生還してくれたカズトモ先輩を……ただ一人生き残ったチヤさんの肉親を、チヤさんからもう一度奪うだなんて、できるはずがありません」
レイヤさんの視線を感じたのか、チヤちゃんは少しだけうつむいた顔を上げた。レイヤさんと視線が絡み合って、ちょっとだけ笑顔が戻る。
それを見て、パパも口と目に、穏やかだけれども深い……とっても深い微笑みを見せて、話す。
「いずれにせよ確かなことは、現にカズトモ殿は、妖魔から人間に戻り、そして今も生きているということだ。その行いを省み、やり直すという、命や魂を失った者には決して与えられないチャンスが、今のカズトモ殿にはある」
今度は、チヤちゃんとパパの視線が、ぶつかり合った。
「チヤちゃんが、ユキと協力して、お父上にそのような尊いチャンスを与えたことだけは、決して誤りなどではないと、私は信じたいな」
「……シロガネおじさん……!」
チヤちゃんのほっぺたには、嬉しそうな赤みがかかっていた。
と、そこでちょうど、わたしの五杯目のスペシャルニンニクラーメンのどんぶりも、すべての中身が消えることになった。
ちょうどいいタイミングだし……
「じゃあさ、チヤちゃん。これからクレープ屋さんに行こうよ!」
そうしたら、チヤちゃんのほっぺたの赤みがみるみる引いて、いつも通りのあきれたような顔つきが戻ってくるわけだけど。
「あんたね……言うことが唐突すぎるわよ」
(うん。今回ばかりはワタシもチヤの意見に賛成だわ。ちょうどいいどころか、最悪のタイミングじゃない)
珍しく、「ワタシ」までそんなことを言っちゃったりして。
でも、それでパパはわたしが今どんな状態か、察してくれたみたいだ。
「そうか……。その調子だと、まだユキは満腹ではないようだな」
「うん。だから食後のデザートが食べたいなー、って思ってるの」
「あれだけ食べてもまだ足りないなんておかしいわ」とか何とか言ってるチヤちゃんの手を取って、わたしは立ち上がる。ポケットには、パパからもらっているお小遣いが入っていることだって、ちゃんと確認済みだ。
「ちょうど今日は、中央公園においしいクレープ屋さんの屋台が来る日なんだよ! 一緒に来て! チヤちゃんも絶対気に入るよ!」
「いや、別に私は……」
言い淀んでいるチヤちゃんの隣で、レイヤさんが眼鏡をきらりと輝かせた。
「いいじゃないですか、チヤさん。幸い今日は天気もいいですし、僕の車で二人を中央公園までお送りしま――」
「すみません私もう一回お腹を減らしてからクレープを食べたいのでユキと一緒に中央公園まで歩いて行ってきます!」
レイヤさんの言葉の途中で、チヤちゃんはものすごく慌てた様子で、レイヤさんにことわりを入れて立ち上がった。わたしのとった手を、今度はチヤちゃんの側が引っ張る。
「え……せっかくだから乗せてってもらおうよ、レイヤさんの車に」
「いいから無駄口を叩いてないで早くついてきなさいユキ!」
まるで死神から逃げるかのような、必死な表情でわたしを引きずっていくチヤちゃん。わたしは慌てて、パパとレイヤさんに行ってきますを言って、食堂の出口から玄関まで歩いていくことに。
パパとレイヤさんの声は、徐々に遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、こんな会話だった。
「ところで、さっきは聞きそびれたが、リンフォンの『あの仕掛け』とは何なんだね?」
「ああ、それはですね――」
そこから先の二人の会話は、チヤちゃんが廊下を大急ぎで進む足音にかき消されて、わたしの耳には届かなかった。




