第二十五話「ワタシの切り札」
「火火火火火火火火火!!!」
空の上では、閻婆が笑っていた。
閻婆のくちばしから吐かれた炎は、この工事現場をくまなく覆いつくしている。チヤの立つ周辺以外は、ワタシがさっき「わたし」の中で見てきた光景が再現されたかのような、灼熱地獄だ。
「燃えた燃えた! 全員燃えた! 素晴らしい結果だ!」
唯一この灼熱地獄の中で燃え残った……もとい、あえて燃やさなかったであろうチヤの周辺を見るために、閻婆は空中で首を巡らせる。
「さあ、チヤ。これでもうお前に嘘や寝言を吹き込む奴はいない。もう大丈夫だ」
それにしても、この火勢はすさまじい。あの閻婆の吐いた火の余波として放たれた妖力だけでも、この工事現場の周辺が停電やらなんやらを起こしまくってるレベルじゃないかしら?
……え? なんでそんなことを、灼熱地獄に巻き込まれたワタシがのんびり考えていられるのかって?
そんなの、決まってるじゃない。
こいつの吐いた火は、今のワタシにとっては問題にならないからだ。
「――今日は随分と弱火の調理ねえ」
ワタシはそう口に出しながら、ワタシの体に巻き付いた炎と一緒に空へと舞い上がった。
そして、空に向かって飛び上がる火の玉と化したワタシは、気色悪い猫なで声でチヤに話しかける閻婆の鼻先で、ぴたりと静止した。
ワタシは空を飛びながら、火の玉の中でコマのように勢い良く回って、身にまとわりついた炎をすべて振り払った。
「――な……に……!?」
普段よりも更に大きく力強くなった背のコウモリの翼を、ワタシは閻婆に負けじと広げ、空中で仁王立ちする。
閻婆のくちばしがかくんと落ちて、その中のチヤの父親の顔までもが覗けていた。
「お前は……チヤにまとわりついていたあの退魔師の……!? だが、なぜ髪と瞳の色が……!?」
「そういえば、ワタシの方があんたときちんと対面するのは、これが初めてだったわね。なら改めて自己紹介といこうかしら」
ワタシは、もはやヴァンパイアとしても異常なほどの長さと太さを帯びた犬歯の間から、声を放った。
わななき、あちこちに太い血管の浮き上がった両手で、ワタシの身を覆う緑の衣を広げる。「わたし」の霊力の代わりに、ワタシの妖力を受けて黒く染まった白衣が、月の光に照らされた。
銀色に変わった髪を夜風になびかせるワタシ。緑色になり、更に瞳孔も縦長になった両目でもって、閻婆を正面からにらみつける。
「ワタシは鵠野ユキ。真祖の血を引く、ヴァンパイアよ」
緑の衣をマントのように空に舞わせて、ワタシは閻婆に名乗りを上げた。
閻婆のくちばしの中では、チヤの父親が信じられないといったように、顔を歪めていた。
「バカな……お前がヴァンパイアだとしたら、なぜ私の吐いた炎を浴びて無事でいる!?」
そこに向けて、ワタシはくすり、と含み笑いを見せてやった。
「あんたが言ったんでしょ? 『生きている者はチヤ以外全員地獄に落ちろ』って。ワタシはヴァンパイア……不死者だから、あんたのご注文通り、地獄に落ちずに待っててあげたのよ」
ワタシは一つ、空中で言葉遊びというやつをこの閻婆にくれてやった。
もっとも、ワタシが炎に巻かれても地獄に落ちずに済んだ本当の理由は、この緑の衣……ワタシたちが生まれたときにパパから贈られた、真祖の緑屍衣のお陰だ。
真祖の緑屍衣は、まとうことでワタシのヴァンパイアの血を活性化させ、更に真祖の血の性質に近づける力を持っている。
伝承にいわく、ヴァンパイアの真祖は「竜の子」の二つ名を有していたらしい。すなわち、真祖の血に近づいたヴァンパイアは、竜の子としての力も目覚めさせることになる。
その結果として、今のワタシの肉体には、ヴァンパイアの怪力の上に、更に竜の膂力も上乗せされている。
挙句の果てには、竜の鱗のように、その皮膚は炎を受け付けなくなる。真祖の緑屍衣それ自体も、竜の翼膜という炎の通用しない素材でできているから、閻婆のように炎の攻撃を得意とする妖魔と戦うには、うってつけの装備というわけだ。
これこそが、ワタシのとっておき。「わたし」の持つ井瓏石と、「くにつかみのよそほひ」に並ぶ、もう一枚の切り札だ!
「ちっ……下らん減らず口を!」
チヤの父親の顔が、苛立ちをにじませて、閻婆の口内からワタシをにらみつけた。
けれどもそれも、すぐさまに狂った喜びの表情に変わる。
「だが、お前一人が生き残ったところで、私がお前を倒せば問題ないことには変わらん」
「あら、あんたはワタシ一人だけが生き残ったと思うの? ならちょっと下を見てみたらどうかしら?」
「下……だと?」
チヤの父親が、空中から地上に目をやった瞬間に、それは起きた。
閻婆の右下から、赤くなるほど熱された鉄の縄が撃ち出された。
閻婆の左下から、紅に染まった式神の符が、いくつも連なった鎖が伸びた。
鉄の縄と、紅の符の鎖が、共に閻婆の体に絡みついた。
「この鉄の縄……『熱鉄懸縄』の術!?」
そして、紅の符の鎖は、「唐紅括」の術だ。「白妙小町」の術に比べ、より妖魔の動きをいましめることに向いた、式神術のひとつ!
そこで、閻婆はようやく気が付いたようだ。自分の吐いた炎で生み出した灼熱地獄を、生き延びた者がいることに。
「ありえん……!」
閻婆が睨みつける先――地上では、灼熱地獄の大半が血の池の渦に呑み込まれ、消火されつつあった。
「夜の私が吐いた炎を、凡百の滅魔師どもが放った『血盆穢渦』の術ごときで、止められるはずがない!」
地上で巻き起こる血の池の渦の中からは、人影が現れた。退魔師も滅魔師も、一緒に陣形を組んで、協力してそれぞれの術を放ち合っている。
「お望み通り、今度は眼鏡を外した状態で相対させていただきましょう、カズトモ先輩」
そこでは、眼鏡を外したレイヤさんが、その手の中から鉄の縄を放ち、それを閻婆に巻き付けていた。
「娘を地獄に落とす親なんて……! 同じ娘を持つ親として、許せないわ!」
その隣では、ママが紅色の式神の鎖を放って、大きな声で閻婆に向かって叫んでいた。
そしてその二人の間に立っていたのは、言うまでもない。ワタシの父親だ。
ワタシの父親は悠然と腕組みをして、十三夜の月にかかった閻婆の姿を見上げていた。
「これこそ我ら退魔師の式神術と双璧を成すもう一つの術――五行術の力だ。カズトモ殿も仄聞されたことがあるかも知れないがな」
ワタシの父親の後ろには、さっきワタシとチヤが危うく突っ込みかけた、あの鉄パイプの山があった。
その山を、多くの退魔師が取り囲み、印を結んで術を成していた。その結果、鉄パイプの山は、まるでどしゃぶりの雨にでもふられたように、びしょびしょに濡れていた。
「陰陽五行の説く理にいわく、『金は水を生む』。そして『水は火に克つ』。カズトモ殿の吐いたあの炎の息は間違いなく火行の妖術。我々はその火行の妖術に克つべく、金行を有するこの鉄パイプの山から水行の術を生み、それで妖術の威力を削いだのだ」
その横で鉄の縄をきしませるレイヤさんも、ワタシの父親に加勢する。
「これにより威力の弱まった炎であれば、何とか『血盆穢渦』の術でも防ぎ切ることはできます。たとえそれが、太陽の光により妖力の弱まっていないカズトモ先輩の吐いた炎であったとしても、です」
地獄の炎の消火を終えた空き地から、いくつもの霊力の光が瞬いた。
地上の星空を作り出した霊力の光からは、赤い式神の鎖と、熱された鉄の縄が、織り交ざって閻婆へと放たれる。他の退魔師や滅魔師たちも、ママとレイヤさんに続いて、「唐紅括」の術と、「熱鉄懸縄」の術とやらを繰り出したみたいだ。
そこに、絡新婦の吐き出す糸までもが加勢すれば、閻婆の全身ががんじがらめにされるまで、そう時間はかからなかった。
いかに閻婆が強大な妖魔とはいえ、退魔師と滅魔師と妖魔が、合わせて数十人がかりで同時に術を使った束縛を放てば、動きが鈍らないはずはない。
それを地上からみたワタシの父親は、よく通る声で空中のワタシに指示を出す。
「今だユキ! 閻婆を地上に叩き落とせ!」
はいはい。あんたの指図がなくたって、こっちもそのつもりよ!
ワタシは閻婆の目前で、更に空高くに飛び上がった。真祖の緑屍衣がワタシに力を与えてくれる今、ワタシはもっと自由に空を飛ぶことができる。
ワタシは閻婆の頭上で、空中で宙返りを一つした。その勢いのままに右足を高々と振り上げ――
「あんたの娘が、地上で待ってるわよ!」
――ヴァンパイアと竜の怪力が上乗せされた、渾身のかかと落としを閻婆の背中に叩き込む。
式神の鎖と鉄の縄と蜘蛛の糸とで、ろくに翼も動かせなくなった閻婆は、まるで巨大なハンマーで打ちのめされたかのようにして、地上への急降下を始めた。
「があぁぁぁっ!!!」
工事現場の地面が、轟音と振動で打ち震える。閻婆は地上にちょっとしたクレーターを作るほどの勢いで、地面に叩きつけられた。
ワタシはそれを見下ろしながら、あえて背の翼を引っ込めた。
「フルクフーデ!」
ワタシの背で翼になっていたフルクフーデが、数十ものコウモリに分裂。そして、一塊になって、大コウモリの姿を取り戻した。
「は。フルクフーデ、ここに」
例の、マタタビか何かで酔った猫のような締まりのない顔立ちから、年を重ねた男の人のような声で、フルクフーデは挨拶する。
背の翼を引っ込めたワタシは当然、地面に落っこちることになるけど、問題ない。フルクフーデにワタシの左手をつかませ、その状態で翼を広げてもらえれば、ちょっとしたパラシュート代わりにはなる。
「あいつも地上に落としたことだし、久々に例のアレ、やるわよ」
「御意。ユキ様の望まれるままに」
地上に向けて落下し、行灯袴の裾をはためかせるワタシは、空中で右腕を差し出した。フルクフーデの、牙の前へと。
「眷族の身でありながら、真祖の血にあずかれる幸運を喜びなさい」
「はい。恐悦至極にございます」
フルクフーデは、そのままワタシの右腕に噛みついた。右腕に甘い痛みが走ると同時に、今は鼓動していないはずのワタシの左胸の奥で、どくんと何かが跳ねるような感覚が起こった。
真祖の緑屍衣で覚醒した真祖の血と、竜の力の一部が、フルクフーデにも流れ込む。
フルクフーデの翼が、背中側に曲げられた。背中で重ね合わせられた両の翼はやがて一体となり、金属めいた輝きと硬さを帯びる。
同時に、フルクフーデの両足も重なって一つとなり、異常なまでに長く伸びた。その長さは、ワタシの身長を軽々超えるほどにまで達する。
今のフルクフーデの形は、もはや誰がどう見ても誤解することはないだろう。そう、大鎌だ。
そこで、ワタシの目前に地面が迫ってきた。ヴァンパイアと竜の怪力を帯びた両足で地面に着地し、強靭な脚力でしなやかに衝撃を受け止める。
ワタシは、かがんだ状態の上体を起こしながら、大鎌の姿をとったフルクフーデを振り上げ、肩に乗せる。
「今の小生は、『死神の鎌』と申します。以後お見知りおきを、そこの人間殿……いえ、妖魔殿、と申すべきでしょうか」
緑の衣をなびかせるワタシの肩の上で、大鎌と化したフルクフーデがあいさつをした。
フルクフーデに「死神の鎌」の形態を取らせるのは、ワタシが真祖の緑屍衣をまとったときにだけ可能な奥の手。そして、これを使うときは当然、フルクフーデをワタシの背中の翼に変えることはできないから、ワタシは地上で妖魔と戦う必要がある。
それに、空を飛ぶことのできないチヤの持つ「布都御魂剣・人為」で閻婆を斬り裂くには、閻婆は地上にいなければならない。
だからこそ、シロガネことワタシの父親は、閻婆を束縛して、地上に引きずり下ろすことをワタシに指示したのだろう。
その閻婆は、地面に叩きつけられた際に被ったがれきを、全身から滑り落とさせながら立ち上がる。人間どころか、下級の妖魔にとってすら致命傷には十分すぎるほどの打撃を受けても、その動きは鈍ることはない。
「火火火火火火……! そうか! 火で焼かれるのは御免ときたか! だがな」
閻婆はそこで、くちばしを開いた。
「たとえ火を防げたとしても、この攻撃までは防げまい!」
金属をこすり合わせるような、あの甲高い鳴き声。舞白市の商店街で吼えたあの時よりも、更に音量が跳ね上がっている。
「不味いですなユキ様……あの刃の波が来ますぞ!」
大鎌と化したフルクフーデが、ワタシの肩の上から警告を飛ばした瞬間に、閻婆の不時着した地面から、無数の地獄の刃が突き立った。
昼に見た時よりも遥かに長く鋭くなった刃の波が、全方向へと走り抜ける。まるで、海面を切り裂く鮫の群れの背びれが、上下に激しく揺れながら進むようにも見える。当然ながら、チヤのいる場所だけは、器用に避けるというおまけつきだ。
ワタシはフルクフーデの警告を受けた瞬間に、「死神の鎌」の柄を地面に突き立て、そのまま棒高跳びの要領で、刃の波を飛び越えはする。けれども、他の退魔師や滅魔師じゃ、この攻撃は――!
その時、ワタシは空中で、ワタシの父親の口元がにやりと吊り上がったのを見た。
(ということは……)
ワタシの父親は、今は心の中でこんな風につぶやいているのだろう。
――問題ない。この攻撃も対策済みだ。
とでも。
ワタシの父親も、ママも、レイヤさんも、迫り来る刃の波を前にしても、その目に恐怖の光など、一かけらも宿っていなかった。




