第二十三話「私をあの夢から救うのは」
今よりおよそ、十年ほど前。
その知らせを聞いた津上カズトモは、目を濁らせたまま、妻の入院する産婦人科を訪れていた。
自らの後輩である少年、前戸レイヤに獄正得度戦で敗北し、カズトモはその怒りを人知れず吐き出した。
だが、怒りを吐き出し終えたカズトモの心は、そのあとも何か別のもので満たされることなどなかった。
(――そういえば、予定日は昨日だったか。その予定日通りに生まれてくるとは、我が子ながら几帳面なことだ)
カズトモは、自身の妻にあてがわれた産婦人科の病室で、来客用の丸椅子に腰かけ、心の中でつぶやいた。
彼の隣には、新生児用のベッドがしつらえられていた。病院の産着を着る、一人の赤ん坊が、そこでは眠っていた。
表の世界での仕事もそこそこに、滅魔士としての任務を淡々と――もとい、心ここにあらずという状態でこなしていたカズトモは、この二人目の子どもを授かる日すらも忘れるほどに、気力を失っていた。
今日になって、妻から連絡を受けたカズトモは、滅魔士としての任務を大慌てで切り上げ、この身一つでそのまま産婦人科に向かった次第となる。
(チヤ……か。そういえば、獄正得度戦の前に、トウカと約束していたな。女の子が生まれたなら、その名前は『チヤ』にしようと)
自身の妻の名を心の中で呼んだカズトモは、「津上チヤちゃん」というネームプレートの付いたベッドで眠る娘を見て、今更のように思い出す。
二人目の娘の誕生という喜ばしい日を迎えたはずなのに、心の底からの喜びが湧いてこないことを自認したカズトモは、こけた頬を更に細めながら、頭を抱えて前かがみとなる。
それにつられて、カズトモの懐からは鏡が滑り落ちた。
(!? いかん! 浄玻璃擬鏡が!)
伝承によれば、閻魔大王が地獄の沙汰に使うとされる浄玻璃の鏡――それを擬似的に再現した呪具が、床にぶつかろうとする。
その直前に、カズトモはギリギリで浄玻璃擬鏡をつかむことに成功した。
(やれやれ……危うく割れるところだった。内部に組み込んだ霊力回路の都合上、やむなく素材にはガラスを使ったが、これも今後改良せねば……ん?)
カズトモは、その手で発明した呪具を見て、異常に気付いた。
浄玻璃擬鏡の鏡の部分全体が、青白い光一色で満たされている。普段であれば、通常の鏡と同じで、銀色の鏡面が覗けるはずにもかかわらず。
(この青白い光は霊力の輝きだが、どういうことだ? 私の持つ霊力は、浄玻璃擬鏡では映すことができないほどに弱いはずだが……)
刹那、カズトモは息を呑んだ。
(まさか……!?)
カズトモは、浄玻璃擬鏡を向けた。新生児用のベッドの中で眠る、娘の姿をその中に映し込む。
鏡の中の娘の姿は、まばゆいばかりの霊力を放ち、全身が青白く輝いていた。
「……は……」
浄玻璃擬鏡を持つカズトモの手が、わななく。
「はははは……」
今更のように、心の奥底から、荒れ狂う嵐のような歓喜の念が湧き上がってくる。
「くひはははははははは! ははははははは!」
皆無に等しいほどのわずかな霊力しか持たないはずの自分自身の娘が、あふれんばかりの霊力を持って、生まれてきている。
(この私の娘……チヤの力を使えば……!)
その事実を知ったカズトモは、狂ったような笑い声を上げていた。
(あの忌々しい、私の後輩に今度こそ打ち勝つことができる!)
ときに、二月十二日。
津上チヤと名付けられ、のちに父カズトモから滅魔師としての英才教育を受けることとなる少女が、その父と初めて出会った日であった。
◇◇
「パパ! 蓄霊壺に、また私の霊力を込めておいたよ!」
チヤの誕生から、五年の月日が流れた。
津上家はその後、男の子をもう一人授かることで五人家族となり、にぎやかなものとなっていた。
その中で、カズトモの心を何よりも躍らせていたのは、次女であるチヤの成長ぶりだった。
津上家の地下室――カズトモが呪具の研究室として使っている部屋に入ってきたチヤ。彼女は、晴天の海のように青いワンピースをまとって、父に報告をしていた。
「ああ、ありがとうチヤ。そうしたらもうしばらくの間、リンフォンを預からせてくれるかな? もっと安全に使えるようにしてあげよう」
呪具製作用の細工針を右手に、黒い正二十面体を左手に、カズトモはチヤに言った。
この部屋の片隅に置かれた、高さ一メートルに迫ろうかという、青白い壺。その表面には、大きく「蓄」という漢字が焼き込まれ、その用途を示している。
この「蓄霊壺」もまた、カズトモの生み出した呪具のひとつ。霊力を持つ者がここに手を触れることで、霊力を貯蔵することができる。
(蓄積できる霊力の量も限られてはいるし、霊力をとどめていられる時間もそう長くはない。かの伝説に語られる井瓏石には遠く及ばん性能だが、それでも呪具作成の実験には大助かりだ)
チヤが生まれてから、この蓄霊壺にときおりチヤに霊力を込めてもらうことで、カズトモの研究は以前にも増してはかどっていた。
リンフォンという危険な呪具を、チヤに扱わせても問題ないほどにまで安定させ、あまつさえ特殊な武装へと変形する能力を与えることができたのは、間違いなくこのチヤの霊力によるものである。
(そのチヤの霊力も、誕生してから更に増えこそすれ、減ることはない。滅魔師としての才能は、我が子ながら目をみはるほどだ)
これならば、リンフォンのすべてを――地獄の門を開く機能まで含めた全機能を、完全に制御できる日はそう遠くはない。
そう確信するカズトモは、次なる実験のプランを脳内に描き出し――
「あのね、パパ。ママがもうすぐご飯だから、そろそろ来てって言ってたよ」
とても五歳児とは思えないほどの、しっかりとしたしゃべり方で、チヤは言った。
そういえば、とカズトモは机に置かれた時計を見て、津上家の夕飯の時間が迫っていたことに、今更のように気づいた。
「そうか。じゃあチヤは先に上に行ってなさい。ママには、もうすぐ行くから待っていてと言ってくれるかな?」
「うん。分かった」
チヤはにっこり笑って、カズトモの研究室を出ていく。
一人になった研究室で、カズトモは考えた。
(なら夕飯前に、あと一つだけ実験してみよう。地獄の門の機能が起動した際、その上から言霊錠がかかれば、想定通り機能停止するかどうかを見ておくとするか。霊力は必要最低限に絞っておけば、万一言霊錠による上からの制御が利かずとも、途中でその変形が止まってしまうはずだ)
カズトモは、言霊錠を解くための言葉を小さく口にした。チヤと共にいつの日か地獄に行き、そこで滅魔の術の神髄を学ぶのだという野望を込めた四文節の言葉で、事前にかけておいた封印を解く。
それからカズトモは、蓄霊壺から伸びた一本の管を、リンフォンとつなげた。
このとき、カズトモは知るよしもなかった。
チヤの成長に伴う、彼女の霊力の更なる増大が、蓄霊壺に日々高すぎる負荷を与え続けていたことを。
それに伴い、蓄霊壺には少しずつひびが入っていき、霊力の漏れが起きていたことを。
そのひびが、この実験のときにとうとう限界に達し、そして流れ込む霊力の量を制御できなくなったことを。
カズトモがそれを知ったのは、すでにリンフォンに大量の霊力が流れ込み、もはや言霊錠を上からかけても、変形を抑え切れないほどにまでなっていたときだった。
◇◇
「ねえママ! パパはもうすぐ来るから待ってて、だって!」
チヤの生家の一階に上がったチヤは、今で待つ母に声をかけた。
母は台所から運んできた鍋をミトンでつかみ、鍋敷きを置いたテーブルの上に運ぶ。
チヤの姉――長女であるモモカは、同じくチヤの弟である長男のバンを相手に、チヤの後ろでおもちゃを使い、遊んでいた。
いつもと変わらない、津上家の夕飯前の光景が、そこにはあった。
しかしながら、その光景は終焉を迎えることになる――天井の電灯がちかちかとまたたき、居間のテレビが不気味な画像を流し始める。
それが終われば、電灯もテレビも、すべての家電製品が突如として切れた。
(停電!? ううん……これは違う!)
幼くして、すでに滅魔師としての経験を積み始めたチヤは、その早熟な頭脳で判断する。このような電源の切れ方は、妖気によるもので間違いないと。
悟ったチヤの背に、いきなり熱の塊が突き刺さった。一瞬にして暗くなった居間を、今度は揺らめく真紅の光が彩る。
何事かと、チヤは振り返った。姉のモモカと、弟のバンがいるはずのそこに。
先ほどまで二人がいたはずの場所には、代わりに黒焦げとなった子どもの遺体が二つと、それを取り囲む地獄の炎が渦巻いていた。
「モモカお姉ちゃん……バン!!?」
チヤは、悲鳴を上げた。
パニックになりそうな心を、幼いながらに必死に押さえつけて、チヤはその場を振り向く。母に、この異常を伝えるために。
「ねえ、ママ! モモカお姉ちゃんとバンが……!」
チヤが背後の母を視界に収めるのとほとんど同時に、フローリングの床を突き破って伸びた地獄の刃が、母トウカの顔面を真っ二つに断ち割った。
刃が床の下に消え、顔面から刃が引き抜かれたなら、母の体は炎に包まれたリビングにくずおれる。
「!!!」
チヤは、声にならない悲鳴を上げて、自身の母親であった女性が命を落としたことを悟る。
この惨状に耐え切れず、チヤが背後へと目を反らせば、異臭を上げて燃え盛る二つの塊が転がる。この熾烈な猛火にさらされて、すでに骨が見えるほどまでに体が焼け焦げた、モモカとバンの姿がそこにあった。
「あ……あ……!」
一瞬にして火事の現場と化したチヤの生家の中で、彼女は残る一人の家族を――父であるカズトモを探す。
少女はやがて、炎の中に立つカズトモを見つけた。そして、もはやカズトモも元の姿を保っていないことを、思い知る羽目になる。
人間の喉から出せるはずもない甲高い悲鳴が、天井を向いたカズトモの口から吹き上がる。
カズトモは、もがき苦しみながら彼自身の喉笛をかきむしるが、それは彼の運命を変えることなど、ついぞなかった。
カズトモの口から、胸から、腹から、皮膚を引き裂いて黒い影が飛び出した。カズトモの姿も、その叫び声と同じく、人間としてあるべき状態からかけ離れていく。
――ん……!
「パパ……パパ!」
少女は、とうとう体を支えるための力すらも失った。腰が折れ、焦げたフローリングの上にへたり込む。
――ヤちゃん……!
今のカズトモの姿こそ、まさに閻婆。地獄の妖魔とその身を一つにし、人の肉体を失った――
――チヤちゃん! チヤちゃん! お願い! 目を覚まして!
◇◇
今なお眠りに落ちればときおり見る、五年前の悪夢は、静かに溶けて消えた。
代わりに、チヤの両目に映るのは、灼熱の炎に照らされてもなお暗い、地獄の空だった。
チヤの視界の端には、空に浮かんだ巨人の両手も見えている。その巨人の手は、更に虹色に輝く神々しいベールに包まれていた。
そして、チヤの視界の正面に立っていた人物こそ、悪夢の中からチヤを呼び起こした張本人にほかならない。
「……ユキ? なんであんたがここに……? っていうか、その目は一体……?」
自身らと巨人の両手を覆う虹色のベールと同じ、七色の光が目の前の少女――ユキの両目からあふれている。
彼女の頭を飾る井瓏石の数は四つ。すでに、そのうちの二つまでもが、輝きを失っている。
ユキは、スクラムを組み、虹色のしずくを生み出していた両手をほぐして、チヤにかけていた術を止める。
「神饌・言祝ノ神酒」――「くにつかみのよそほひ」を得たときのみ使える、あらゆる傷病を祓う癒しのしずくを招来する術は、死の淵にあったチヤの命を救いあげていた。
ほぐれたユキのその両手は、すぐさまにチヤの肩に回った。彼女の体を、ぎゅっと抱きしめる。
「よかった……! チヤちゃんを助けられて本当によかった……! もうダメかと思ったんだよ……!」
「…………」
涙声で伝えるユキを前に、あっけに取られるチヤ。それでも、その時間は長くは続かなかった。
ユキは、がばりと自らの身をチヤから離して、そして自らの腰に手を回す。
それと同時に、ユキの髪を飾る井瓏石のひとつから、また光が消えた。残る光は、あと一つ。
「チヤちゃん。わたしのパパやレイヤさんからの伝言とかが色々あるけど、今は時間がないの。これをチヤちゃんの体にしっかり巻き付けて」
青白く光る、白く太い糸が、ユキの手に握られていた。
「これって……まさか絡新婦の糸?」
「そう。でも、これを引っ張ってるのはパパたちだから、安心して」
「……妖魔の糸に? 正直遠慮したいけど、あんたのその目を見てると、どうやらマジで時間がないようね」
チヤは不承不承ながらも、ユキの手から渡された蜘蛛の糸の端を受け取った。
「お話ししたいことはいくつかあるけど、まず一つ目。戻ったら、『ワタシ』とも仲良くしてくれない?」
「……は? もう一人のあんたと?」
手際よく、その胴体や胸に蜘蛛の糸を巻き付け、縛り、ほどけないようにしたチヤは、いぶかしげな声を上げた。
「たぶん、わたしはもうしばらくの間、出てこれないと思うから」
「それってどういう意味よ?」
ユキは、チヤの体がしっかりと蜘蛛の糸に結ばれたことを見たなら、蜘蛛の糸に霊力を送る。
短く三回、霊力を放つ。これを、繰り返す。事前に父シロガネに指示された、「要救助者を確保。引き上げを求める」の合図。
遥か地獄の空の上から垂れる蜘蛛の糸が、ぴんと張られる。
同時に、ユキとチヤの体が持ち上がった。
「それはね――」
たちまちのうちに高度を上げ始めた二人の耳に、ユキの結界を突き破って羽ばたきの音が飛び込んでくる。
下層から、同じく猛烈な勢いで上昇する、妖魔の影が再び見え始めた。
「パパ……!?」
チヤはぎょっとしながら、すでに見慣れた今の父の姿を見やる。
「待て……私の娘を返せぇぇぇぇぇ!!!」
閻婆は、怒りの業火をくちばしから吹き上がらせ、両の翼で地獄の空を叩き続ける。
このままでは、蜘蛛の糸の引き上げが終わるより先に、閻婆に追いつかれるだろう――何らの手立ても、打たないのであれば。
地獄の空を上昇しながら、ユキはきっと閻婆の姿を見据えた。
「パパ、お願い! あの閻婆を止めて! わたしたちが地上に戻れるくらいまで、時間を稼いでほしいの!」
ユキがそういうが早いか、有れかしの鬼の手は、急降下を始めた。
その両手で閻婆をつかみ、そしてもみ合いを繰り広げる。
チヤはただ、その光景に驚きあきれるのみ。
「あれがパパって……あんたは人間じゃなくて、神様の子どもだったの、ユキ? 道理で、妖魔の魂を同時に宿すなんて、わけの分からない生まれ方をしてきたわけね」
「……うん」
ユキはそっと笑んだ。目の上の眉を、寂し気に、そしてかすかに曲げながら。
「なんて呑気な話をしてる場合じゃなかったわね。あんたのパパに時間を稼いでもらっている間に、さっきの話の続きを聞かせてくれない?」
「そうだね。それじゃあ……」
瘴気に満ち満ちた風を切り裂き、天を目指して引き上げられながら、少女たちは話し続ける。その片方の少女が生み出した、神気の結界にその身を守られながら。
その話が終わるころには、滅魔師らの開いた地獄の門が、視界に入り始めていた。
「……私のパパを、もう一度地上に連れ出すですって?」
「そう。そうしたらそこでね……」
ユキは、蜘蛛の糸で隣に縛られたチヤの左手に、自分の右手を差し出した。
二人の手は、一つに組み上がる。それは、ちょうど今から二週間前、閻婆との邂逅を果たす直前にしていた喧嘩を、二人に思い出さしめていた。
「……この術の出番だよ。『布都御魂』の術のね」
地上への出口を見上げながら、二人は共に唱えた。
退魔師の練る霊力と、滅魔師の練る霊力、この二つを共に合わせて初めて成る、神代の秘術を成す言の葉を。
二人の背後には、閻婆の姿が迫り来る。
けれども、二人の目には、もはや恐れなど宿っていなかった。
果たして、ユキの頭を飾る最後の井瓏石の輝きが失われた瞬間と、二人が地獄の門をくぐり地上に戻ったのは、ほとんど同じ時機となった。




