第二十二話「降臨! くにつかみのよそほひ!」「顕現! 有鬼ノ手!」
今よりおよそ、十年ほど前。
その知らせを聞いた鵠野シロガネは、目を丸くしていた。
「なんと……それは本当か、フブキ!?」
髪に混じる白髪もなく、頬に刻まれたしわもさほど多くはないシロガネに向けて、髪を耳隠しにした、丸眼鏡の女性が微笑みかけた。
「ええ。オオクゲノカミ様から、みことばがありました」
鵠野フブキ……大学を出て間もなく、シロガネの元へと嫁いだ彼女の頬は、喜びで赤みを帯びていた。
「いやはや、まさか私の代でオオクゲノカミ様より、みことばを賜る日が来ようとは。ましてやその内容が、御子様を預けたいという知らせなのだからな」
一方のシロガネは、喜びの中にも、戸惑いがわずかににじむ。きれいにひげを剃った顎に、彼は手をやった。
「オオクゲノカミ様は、確かに御子様を私たちがお預かりし、我々の子として育てよ、とおおせになったのだな?」
「ええ。今日鵠野神社の敷地の掃除をしていたら、私の胸の奥に、そのような声が聞こえたの。今から十月十日ののち、神社の本殿の地下で、御子様を私たちに預けられたい、と」
フブキは、右手を左手で包み込んだ。その手をそっと胸の前に当てている。
シロガネは、一方で顎にやった手を静かにほどいていた。
「確かに、私もこれまで退魔師連盟の連盟長として、各方面とのつながりも作ってきた。その御子様をお預かりして、我々の子として育てるなら、戸籍などの準備も問題はないだろう。だが、フブキ」
シロガネは、言葉を選ぶようにして、舌を口の中で二、三度動かした。続けて、選ばれた言葉を舌に乗せる。
「言うまでもないが、御子様を我々の子として迎え入れるということは、我々と血のつながりのない子を育てるということだ。そこにわだかまりはない、ということでいいのだな?」
「ええ。たとえ血のつながりがなくても、その御子様を私たちの子どもとして育てられるのよ。シロガネさんに――鵠野神社の宮司に嫁いだ者として、これ以上の幸せはないわ」
シロガネは、フブキの想いを耳に入れたなら、小さく笑んだ。
「ならば決まりだ。十月十日ののち、御子様を我々の子として受け入れる準備を始めるぞ」
◇◇
それから、十月十日ののち。
鵠野神社の本殿地下は、彩雲の輝くがごとき虹色に包まれていた。
「これが……オオクゲノカミ様……いや、『有れかしの鬼』……有鬼様の御姿か」
自らが宮司を務める神社に祀られた神を、真の名で呼んだシロガネは、ただただ息を呑んでいた。
人の背より一回りほど大きい長方形の一枚岩――その表面には、小さな正方形の出っ張りが多く並んでいる――は、七色の光を放っている。
その前には、巨大な両手の手の平が、何かを隠し持っているように組まれた状態で、宙に浮いていた。
シロガネの傍らに立つフブキは、胸の前で右手を握り、そしてシロガネの方に首を向けた。
「シロガネさん。有鬼様が、御子様をここに連れてこられた、とおおせよ」
フブキが言い終えると同時に、虹色に輝く一枚岩の前に浮かぶ巨大な両の手――有鬼は、そっと地面すれすれにまで下がった。
組まれた有鬼の両手がほどければ、その下には嬰児の姿があった。
緑の布にくるまれた嬰児は、まだ開き切らないまぶたの下から、両目で空に浮かぶ両の手を見つめる。
シロガネは、その嬰児の両目を見て、息を呑んだ。
「御子様の両目……時間ごとに、赤と緑とに切り替わっている。それだけではなく、髪の毛の色までも、栗色と銀色とに入れ替わっている。これは一体……?」
戸惑うシロガネに、フブキは答えた。
「有鬼様のみことばによると、御子様は一つの体に二つの魂を宿しておいでのようね。一つは国津神の魂。もう一つは妖魔の……ヴァンパイアの魂。いわば、体が一つの双子のようなものだとおおせだわ」
「そうか……どちらの魂が表に出るかで、目と髪の色が変わるということか」
そう理解したのち、シロガネは両の目に、自らの神社に祀られた神の姿を収め、問う。
「有鬼様。こちらの御子様は、どのような御名をお持ちでしょうか」
残念ながら、大人になり、その霊力を失ったシロガネは、有鬼の声を聞くことこそできない。
けれども、いまだに霊力を保つ自らの妻――フブキが代わりに、有鬼の回答を口にする。
「御子様にはいまだ名前はない。それゆえに、私たちから人間としての名を与えて呼ぶように、とおおせよ」
ときに、九月十日。
のちに、「有鬼」の名にあやかった命名を許され、「ユキ」と名付けられる少女が、人の世に現れた日であった。
□□
青白い光を放つ蜘蛛の糸を胸に結わえ付け、わたしは地獄の門をくぐっていた。
たちまちのうちに、わたしの体は何もない空の上に投げ出されて、落っこちていく。
地獄の門をくぐった瞬間、世界は静かになったものと、最初わたしは思っていた。
でも、それは違っていた。聞こえてくる声のあまりの大きさに、わたしの耳が追いつけなかっただけだったんだ。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いやめてくれころしてくれにがしてくれゆるしてくれあああああああああ――
そこまでは聞き取れたけど、それ以上はあまりの悲鳴の多さと大きさに、わたしの耳ではとらえ切れない。
鼻には、悪臭が絶え間なく突き刺さってくる。この世とあの世にあるありとあらゆる悪臭を集めて、これでもかとばかりに煮詰めたような臭いは、空のはるか下で燃える炎の海から立ち昇っているみたい。
その炎の海がもたらす熱気は、空の上からでもわたしの肌を引き裂いてくる。空気が熱されて、一度息を吸っただけでも、肺が胸の中で燃えてしまうんじゃないかとすら、わたしは感じる。
(こんなところにチヤのやつは、生身で向かったっていうの……? どう考えたって、自殺行為以外の何物でもないわね)
今この時ばかりは、「ワタシ」もパパの言いつけに従い、わたしの心の奥底におとなしく潜んでいる。
(きっと、それだけパパの言うことに従わなきゃ、ってチヤちゃんは思ってたんだろうね)
はるか下の炎の海は、そのまぶしさだってとんでもない。わたしが、「今の瞳」じゃないふだんの瞳でこの炎の海を見つめたら、それだけで両目に火が点くんじゃないだろうか。
(なんにしたって、早くチヤのやつを見つけないと。「わたし」の「くにつかみのよそほひ」だって、そう長い時間は持たないわよね?)
「ワタシ」の問いかけで、今のわたしがどんな状態にあるか、わたし自身ももう一度噛みしめることになる。
わたしの頭に飾られた、井瓏石の髪飾りは、地獄の炎の色とは別の、紅梅色に輝いている。左右のシュシュにそれぞれ着けられた井瓏石は二個ずつ。だから、合わせて四つの輝きが、わたしの髪飾りでまたたいている。
(そうだね。わたしがこの力を使っていられるのは、十分くらいだからね)
生身の人間なら、とても耐えられないだろうこの暑さと悪臭と瘴気の中、それでもわたしは耐えていられる。
わたしの両目からあふれる彩雲色の光が、地獄の熱を和らげ、悪臭を抑え、瘴気を浄化してくれているから。
「くにつかみのよそほひ」――わたしが、わたしのパパからもらった神様の血を呼び起こして、ほんのしばらくの間だけ、神様になったときの姿。
それが、パパの考えてくれた「蜘蛛の糸」作戦の、一番の大事なところだった。
□□
ついさっきまで、舞白市の隣町の空き地で、パパは「蜘蛛の糸」作戦のことをみんなに説明していた。
さっきまで、この空き地を包囲していた退魔師や滅魔師のお姉さんたちも、みんな区別なく集まっていた。パパと、そしてその隣のレイヤさんを囲むようにして、人の輪を作っていた。
「この『蜘蛛の糸』作戦は、地獄への門を開き、そして地獄に落ちたチヤちゃんを救助することを目的とする。まずは、これを見てもらおう」
パパの手の中には、絡新婦の子グモたちが一生懸命吐き出してくれた糸を何本も何本も結びつなげて、とても長い一本のロープのようになった糸があった。
それに、両手で印を結びながら、ママが手を触れた。長くつながった蜘蛛の糸は、ママから流された霊力で、青白く輝いていた。
「本来は、地獄の熱や瘴気に……そしてもちろん人の体重に耐えられる命綱としては、極楽蜘蛛の糸が望ましい。だが、十分な霊力を込めて糸を防護してやれば、この絡新婦の糸でも、極楽蜘蛛の糸の代用にはなる。絡新婦の糸への霊力供給は、我々退魔師連盟側が引き受けよう。そしてレイヤ君」
パパの目線の先にいたレイヤさんはうなずいた。レイヤさんは、優しさと決意があふれる、いつもの目つきを浮かべていた。
「地獄への門を開き維持するのは、僕ら滅魔師連盟側が担当します。幸いにも、カズトモ先輩の研究成果により、リンフォンに秘められた地獄への門を開く原理と、それを可能とする術の構築方法は分かっています。カズトモ先輩がその構築方法の整理もしてくれていたので、僕たち滅魔師が全員がかりで分担して同時進行で術を編み上げれば、十五分もかからずに完成するでしょう」
腕組みしていたパパは、レイヤさんに対してうなずき返していた。
「あとは、そうして出来上がった地獄の門に、蜘蛛の糸をくくりつけた救助者が飛び込み、地獄でチヤちゃんを探す。我々はその間、蜘蛛の糸を支え、地獄の門を維持する。救助者が地獄でチヤちゃんを見つけたなら、チヤちゃんも蜘蛛の糸で結わえ付け、そして地上まで一緒に引き上げる。以上が、作戦内容だ。この作戦時間は、十分間とする」
そこで、レイヤさんは手を上げた。パパが発言をうながすのを見てから、レイヤさんは口を開いた。
「シロガネ連盟長。僕たち滅魔師全員の霊力を使えば、地獄への門は十分間以上維持することは可能です。作戦時間をもっと延長することも可能ですが……?」
「いや、この作戦時間はそれだけでいい。というよりは、それ以上はユキの『切り札』の方がもたない」
そう。そしてこの作戦で、地獄に飛び込む救助者こそが、このわたし。
井瓏石の髪飾り……「ワタシ」の真祖の緑屍衣と一緒に、わたしたちが生まれたときに、もう一人のパパから渡された贈り物を、わたしは使うことになった。
井瓏石の髪飾りがなければ、ほとんど使うことのできない「切り札」を……「くにつかみのよそほひ」を使うんだ。
(なんだか、昔ワタシたちがママに読み聞かせてもらった、あの昔話とおんなじねえ、この状況って)
「ワタシ」が思い出していたのは、日本の昔話。イザナギっていう日本の神様が、黄泉の国に……つまり死者の国に行って、自分のお嫁さんのイザナミに会いに行ったあのお話だった。
イザナギは、黄泉の国に行って、そしてまた地上に帰ってくることのできた神様。わたしは、その神様と同じことを、これからしようとしているんだ。
(わたしに……できるかな?)
(むしろ、「わたし」じゃなきゃ誰ができるっていうのよ? 「わたし」だって、イザナギと同じ神様なんでしょ)
そう言って、「ワタシ」はわたしのことを、励ましてくれていた。
それからパパとレイヤさんはいくつかやり取りを行って、この作戦は、実行に移されたのだった。
ところで、パパとレイヤさんを囲む人の輪から、外れたところにザンエさんは立っていた。相変わらず、その顔立ちは不機嫌そうだった。
□□
わたしの髪を留めている井瓏石の一つが、輝きを失った。これで、まだ光を保っている井瓏石は、残り三つ。
(これが全部消える前に、チヤのやつを見つけて、地上に戻らないとね)
「ワタシ」は、わたしに念を押すように心の声を放った。
わたしのこの「くにつかみのよそほひ」をめったなことでは使えないのは、あまりにも霊力の消耗が激しすぎるから。
わたしが自力で振り絞れる霊力を全部振り絞ったって、自分だけじゃ「くにつかみのよそほひ」は使えない。
わたしがもう一人のパパからもらった血を目覚めさせて、神様の力を使うには、井瓏石に込められたすごい量の霊力を必要とするんだ。そして、井瓏石を四つ全部使っても、わたしがこの姿でいられるのは、ほんの十分かそこら。
その十分という時間のうちに、チヤちゃんを見つけないと――。
(!! いたわ! あそこ!)
わたしたちの下、つまり地獄の炎の海の上で、小さな点が飛び回っているのが見えた。
それは、さっきまで地上で見ていたあの妖魔、閻婆に他ならない。
そして、その背中に乗っているのは、深い青のワンピースを着た女の子。
(チヤちゃん!!)
わたしは、「ワタシ」の指示を受けながら、体をたたんだ。落ちていくスピードが、更に速くなっていく。
近づけば、チヤちゃんは閻婆の背に、力なく横たわっているのが見えた。
チヤちゃんの目にはもう、光が宿っていないように見える。さっきまで着ていた、胸ベルト付きのコートは、すでに黒焦げの塊になって、チヤちゃんのワンピースにへばりついている。
(まさか……もう死んじゃいないでしょうね、あの根暗女!?)
そんな……そんなのわたしはいやだ!
わたしは、閻婆の背中を目がけて落っこちてきながら、ぱぁんと一つ柏手を打った。
わたしの打った柏手から、清らかな気が広まった。わたしの周囲の地獄の瘴気が、更に弱まっていく。
「くかかかかかかか! これか! これが地獄か! なんと……なんと素晴らしい!」
閻婆のくちばしの中からは、チヤちゃんのことに気付いてもいないのか、カズトモさんの笑い声がやむことはない。
わたしは、カズトモさんのその笑い声に負けじと、もう一つ柏手を打った。
「……お願い。パパ。もう一人のパパ。わたしに……わたしに力を貸して! 今はパパの力が必要なの!」
神様の力を得た今のわたしなら、この言葉もまた同じ神様に通じる。そう、わたしたちのもう一人のパパである、オオクゲノカミ様に。
わたしの周りを、柔らかく、そして切ないほどに懐かしい、虹色の輝きが取り囲んだ。
虹色の輝きの中に、二つの影が生まれる。その影は、わたしの体くらいなら片手ですっぽり包めてしまいそうな、大きな大きな両手の手のひらだった。
わたしは胸の前で手を合わせながら、その言葉を紡ぐ。
「――『神降・有鬼ノ手』」
そう口にし、術を完成させるや否や、わたしたちを守るようにして浮いていたパパの手は、一つ親指を立てた。
パパの右の手と、左の手がスクラムを組んだ。
虹色の光をみなぎらせて、パパは地獄の空を飛ぶ閻婆の背に、一気に飛んで行った。
パパの両手が、閻婆の背中に叩きつけられる。
「ごはぁっ!!?」
閻婆のくちばしの中から、カズトモさんの苦しそうな声が上がった。
パパの両手の放つ彩雲のような虹色の光に、閻婆は背中を焼かれながら、きりもみ回転して落ちていく。
支えを失ったチヤちゃんの体も、その後を追うようにして落下を始め――
「パパ! お願い! その子を助けて!」
――でも、スクラムを組んでいたパパの手がすぐにほどかれて、今度は優しくチヤちゃんを空中で受け止めた。
わたしも、パパのその両手の中に飛び込んでいく。
チヤちゃんの体がパパの左手にあったので、わたしはパパの右手を目がけて着地した。パパの手は、はるか地上から落ちてきたわたしの体だって、優しく受け止め、包み込んでくれる。
パパの手の、懐かしい匂いとこの光に、わたしは思わず鼻がつんとなった。
でも、今はパパと会えた喜びに浸っている場合じゃない。わたしは、パパの左手に飛び移って、そこに倒れたチヤちゃんの元へと近寄る。
チヤちゃんの目は、もう何も映してはいなかった。
(やっぱり……手遅れだったというの?)
「そんなこと……ない……!」
わたしは、パパの手の上で、みたび柏手を打った。
今度広がった清らかな気は、さっきよりもずっと濃い。地獄の熱も瘴気も、ひとかけらも通すものかと、わたしは結界を張り巡らせた。
それから、チヤちゃんの体をぎゅっと抱き締める。
「チヤちゃん……チヤちゃん! 起きて! まだ、死んだりなんかしちゃだめ! みんな、チヤちゃんのことを待ってるんだよ!」
それでも、チヤちゃんの体は、ぴくりとも動いてはくれなかった。




