第二十一話「最後の希望をつなぐもの!」「蜘蛛の糸をつかみ取れ!」
チヤが地獄の「門」を開き、父ともども地獄へと落ちる頃。
彼女らは、森の中で食事を行っていた。
彼女らの食事は、森に住む虫や小鳥たち。その中には、たまに獣の姿も混じっている。
彼女らが八本の脚で森の中を歩き回り、集めた虫や小鳥などを一山にまとめたものを取り囲んで、食事は静かに行われていた。
「むしさん、ことりさん、けものさん、ありがとう」
大蜘蛛の体から人間の少女の上半身を生やしたような、奇怪な姿を持つ妖魔――絡新婦。
彼女らは一言、祈りのような言葉を捧げてから、集めた獲物をその腹の中へ収めていく。
「これじゃ、おなかいっぱいにならない。でも、人間はたべちゃだめ。人間たべたら、わたしたち、はらわれちゃう」
彼女らは、数週間前に出会った人間の退魔師の言葉を思い出し、自身らに言い聞かせるようにしていった。
あの人間の退魔師の言葉は、今でも心に残っている。
のみならず、その匂いすらも、彼女らの鼻の中に届いていた。
「あのおねえちゃんの、匂い?」
絡新婦の群れの中で、最も体の大きな一体が、ふと匂いの方向を向く。
「どうしてここで、この匂い? それに、このにおい、悲しいのもまじってる。それも、どうして?」
あの人間の退魔師の匂い。
そこににじんでいる、悲しみ。
絡新婦の子グモらは、食事を終えたのならば、歩み始める。
数週間前、自身らを見逃したあの退魔師の少女の匂いが漂ってくる理由。
そこに、悲しみすらもが混じっているわけ。
そのどちらをも、知りたいと欲して。
□□
「――仕舞ぇだな」
チヤちゃんが閻婆と共に地獄に落ちてしまった後、その声が遠くから届いた。
(この声……おじいさんの声?)
(となると、もしや……)
涙でまだ、わたしの喉はまともに動かせない。だから代わりに、わたしは「ワタシ」と心の声で会話をする。
涙を巫女服の裾で拭いながら、わたしは振り返った。パパやレイヤさんにならって、声のした方を見た。
そこに立っていたのは、髪の毛が一本も残っていない、一人のおじいさんだった。
そのおじいさんは、黒い紋付っていう服を月光にさらして、工事現場の空き地のはじっこから、こちらに歩んでくる。きっとこのおじいさんは年をたくさん取っているはずなのに、杖を持たずにしっかりとした足取りをしている。
おじいさんへ最初に声をかけたのは、わたしのパパだった。
「ザンエ殿、ですか」
それを耳にしてわたしの中で、「ワタシ」がやっぱり、とこぼす。
(このじいさんがザンエ……滅魔師連盟長をやってる例のクソジジイね)
もちろん、この「ワタシ」の物言いは、わたしにしか聞こえない。このおじいさんこと、ザンエさんは、パパを見るや、面白くなさそうに吐き捨てた。
「妙に胸騒ぎがしやがるから、己自らがここに出向いたら、この有様とはな。おいシロガネちゃんよ。この件には手前ぇら退魔師連盟の助力は要らねぇ、と己は確かに言ったはずだが、忘れたか?」
でも、パパはそれにひるまない。
「忘れてはおりません。ですが、妖魔が人に危害を加えるのであれば、それに対処するのが我々退魔師連盟の仕事です。たとえザンエ殿が、この件を独力でどうにかできたとしても、それは我々が動かない理由にはなりません」
ザンエさんは、いらついたように舌打ちを一つ打った。
「相変わらず、手前ぇのその性格は、餓鬼の頃から変わっちゃいねぇな。真面目くさって任務だの使命だのぬかして、頼んでもいねぇところにしゃしゃり出てきやがる。今回もご多分に漏れず、な。おい、レイ坊」
ザンエさんは、今度はレイヤさんの方に向き直った。レイヤさんは、ようやく眼鏡をかけ終えたけれども、うつむいたまま何も言うことはない。
「もう一度言う。この件はこれで仕舞ぇだ。他の滅魔師連中ともども、とっとと引き上げるぞ」
「――――」
ザンエさんは、月の光を受けているだけではとても説明がつかないような、強い眼光をレイヤさんに投げかけた。
けれども、次にレイヤさんに話しかけた言葉には、ほんの少しだけど思いやりがにじんでいるように、わたしには思えた。
「カズトモの野郎は、チヤと一緒に地獄に落ちた。レイ坊に勝ちてぇだの何だのっつう、腑抜けた御託をのたまいながらな。昔から、滅魔の術の根源を調べることを目指して、何人もの滅魔師が、いくつもの方法で地獄へ向かおうとした。その結果がどうだったかは、己がレイ坊に講釈してやったはずだが、覚えているな?」
「……『そのいずれもが、ことごとく失敗に終わっている。そもそも生きたまま地獄に行く術が失敗に終わるか、よしんば成功したとしても、地獄から帰ってきた人間は誰一人としていない』、ですよね」
レイヤさんは眼鏡の下で、悲痛そうに眉を歪めながら、ザンエさんに応えた。
ザンエさんは、月の光を受けた白い歯を口元から覗かせて、そっとうなずく。
「そうだ。いくら己ら滅魔師が地獄の専門家であっても、地獄に一度落ちちまった人間を助けるすべは無ぇ。己ら滅魔師は滅魔師であって、仏じゃあねぇんだからな。ここにこれ以上いても、時間の無駄だ」
わたしは、目の中に残っている最後の涙の一滴を拭いた。きっと、もともと赤いわたしの目は、もっともっと赤らんでるんじゃないかな。
わたしは、その目を、パパの腕の中からザンエさんに向けた。気を緩めたらまた涙が出てきそうになるのをこらえて、お腹に力を入れる。
「……あの……地獄に落ちたチヤちゃんは、どうなるの?」
意を決して言葉を放ったわたしに、ザンエさんとレイヤさんとが、月の光を背景に視線を送ってくる。
「手前ぇは……チヤが話していた、シロガネちゃんのとこのユキとかいう餓鬼か?」
「ええ。その通りです、ザンエ連盟長」
わたしがザンエさんに返事をする前に、代わりにレイヤさんが言い出してくれた。その後、レイヤさんは、わたしのことを見てくれる。
「では、ユキさんのその質問には、僕から答えましょう。僕たち滅魔師のこれまでの研究により、地獄は灼熱の炎と荒れ狂う嵐、おびただしい瘴気と亡者の悲鳴に満ち満ちた場所だと考えられています」
レイヤさんは、いつもの穏やかな笑顔をわたしに向けようと、一生懸命に頑張っていた。だけれど、その笑顔にかかる陰りは、隠し切れていない。
「今ごろチヤさんは、地獄の炎や嵐や瘴気に、生身の人間の体のままさらされているはずです。滅魔の術で借り受けた地獄の炎や瘴気ですら、恐ろしい威力を持つのに、ましてやその根源に直接さらされる形となったら……」
レイヤさんは、そこまで言って、口ごもってしまう。
「――自分で質問に答えるっつったなら、最後まで言い切りな、レイ坊。話が尻切れトンボになっちまうだろうが。まあいい、その先は己が答えてやるぜ、ユキとやら」
そのあとの言葉は、ザンエさんが引き取った。
これ以上ないほどの、残酷な結論を告げるために。
「平たく言やぁ、チヤは地獄で間もなく命を落として、そのまま地獄の亡者の仲間入り、ってことになるだろうな」
ザンエさんこの宣告を聞いたとき、わたしは耳に刃物を突きこまれたような痛みが走った気がした。
「命を……落とす……!?」
息が浅くなっていくわたしの中で、「ワタシ」もうめく。
(あの根暗女はいけ好かないけど、それでも寝覚めが悪過ぎる話ね)
そうだよ……そんなの、ないよ!
わたしは、もうなりふり構わずに、みんなに叫んだ。
「ねえ! 今から地獄までチヤちゃんを助けに行く方法はないの!?」
「さっきも己が言ったろ。『地獄に一度落ちちまった人間を助けるすべは無ぇ』ってな」
ザンエさんは歯を剥き、わたしの上の方に……わたしを腕の中で支えるパパにぎらぎらした眼光を向けた。
「手前ぇしかり、手前ぇの餓鬼しかり、親子揃って人の話を聞き入れねぇ分からず屋どもが」
「…………」
今、わたしのパパはどんな顔をしているかは、パパの腕の中にいるわたしには分からない。けれども、とても厳しく辛い面持ちでいるんだろうとは、腕の中にいても分かる。
そんな時だった。
夜風の吹く音に混ざって、何かが葉っぱをかき分ける、がさがさという音が届いた。
(今の音は……あの茂みの方?)
「ワタシ」がわたしに示してくれたように、そのがさがさという音は、空き地の隣の雑木林の中から聞こえてきた。そういえば、この空き地は、すぐ隣が雑木林になっているんだ。
がさがさという、雑木林の葉っぱが揺れる音は、一つじゃない。いくつもいくつも鳴り響いている。
やがて、月の光は、雑木林の中から飛び出した、大きな蜘蛛の脚を照らした。
「あ……あなたたちは!?」
「おねえちゃん、ひさしぶり」
そこに現れたのは、絡新婦の女の子たちだった。
その子たちの上半身は、わたしと同じくらいの女の子に見える。そして、その顔立ちには、見覚えがある。
現れたのが別の妖魔ということもあり、レイヤさんとザンエさんは、とたんに目つきが厳しくなった。
でも、わたしの顔を覗き込んできたパパだけは、そうではない。わたしに、何事かとわけを聞いてくる。
「この絡新婦たちは、ユキの知り合いなのか?」
「うん。ほら、チヤちゃんと妖魔を狩りに行った時の……」
そこまで言えば、察しのいいパパはすぐに気付いてくれる。
「そうか……あの時の!」
そう。わたしがパパの言いつけを破ることを承知で、舞白市の緑地公園で祓わずに逃がしてあげた、あの絡新婦たち。それが、この子たちだ。
(そういえば、あのとき「わたし」は、絡新婦に隣町まで逃げろって言ってたものね。ここに絡新婦がいるのも納得だわ)
「ワタシ」も覚えていてくれたこの絡新婦の子グモたちは、相変わらず器用に動かせる八本の脚を使って、わたしのところまでそっと近づいてくる。
あの時もわたしとお話ししてくれた、真ん中にいた絡新婦の子グモが、わたしにそっと話しかけてきた。
「あのね、おねえちゃん、泣いてたから気になったの。どこか、痛いの? これ、使って」
絡新婦の子グモの口元が、しゅるると鳴った。
その後、口から出てきたのは、蜘蛛の糸だった。チヤちゃんにとどめを刺されちゃった、この子たちのお母さんのと比べると細いけれど、それでもちょっとした縄ぐらいの太さはある。
(これを包帯代わりにでも使え、ってことかしらね。あいにくと、「わたし」の痛みは、包帯でどうにかなるようなものではないんだけど……って、あれ?)
わたしの中で、「ワタシ」が気付いた。
絡新婦の子グモが吐いた糸に、じゃない。わたしの隣でしゃがみ込み、その糸を見る、パパの視線に。
「……パパ?」
「ワタシ」に教えられて、わたしもパパに声をかけた。
その目は、いまだに厳しい。だけれど、そこには絶望や悲しみとは違う、別の色が宿っている。
意を決したように、パパは口を開いた。
「絡新婦のお嬢さん。私は鵠野シロガネ……このユキという、君たちを助けた女の子の父親だ。少し、聞かせてもらいたい。君たちは、この糸を思いっきり吐いたら、どれくらい吐けそうかな?」
「「……え?」」
わたしと、絡新婦の子グモが、一緒に声を上げる。
パパは更に、もう一度言葉を重ねた。
「私の娘は、君たちの思う通り、今いっぱい痛い思いをしているんだ。それを治すには、君たちが吐いてくれる糸も、いっぱい要る。助けてもらえると、嬉しいな」
絡新婦の子グモは、わたしとパパの顔を何度も見直した。そのあとに、答えてくれる。
「うんとね、このおねえちゃんをぐるぐる巻きにして、木の上にぶらさげても、まだ吐けるよ」
「それは、君たちみんなそうなのかな?」
「うん。みんな、それくらい糸を吐けるよ」
それを聞いて、パパはうなずいた。
次に、パパは立ち上がって聞いた。相手は、絡新婦の子グモじゃなくて、レイヤさん。
「レイヤ君。君は滅魔の術を使って、地獄への門を開くことはできるかな? 先ほどチヤちゃんがリンフォンで形成した地獄の『門』のようなものだ」
レイヤさんは、隣で唇をへの字に曲げたザンエさんの顔をちらりと見て、それからうつむいた。
「残念ながら、そんな術は僕には使えません。……というのが、つい先日までの答えでした。ですが、今は違います」
レイヤさんは、さっき「浄玻璃擬鏡」っていう手鏡を取り出したきんちゃく袋を見ていた。その中に手を入れて、紙の束を取り出す。
「おいレイ坊、それぁ――」
「――カズトモ先輩の残した、リンフォンの研究成果のレポートです」
ザンエさんのへの字の唇が、苦虫を噛み潰したように更にぐにゃりと曲げられる。
レイヤさんは、ザンエさんを見ることなく、パパに向かって話した。
「ここに書かれた内容を見ながらであれば、滅魔の術であの地獄の『門』と同じものを作ることはできます。ただ、僕一人では術の構築に半日はかかるでしょう。一緒に術の構築を手伝ってくれる人がいるなら話は別ですが」
「分かった。ありがとう」
パパがレイヤさんに感謝の言葉をかけると、ザンエさんのこれでもかと曲がった口が開かれた。
「おいシロガネ――さっきから手前ぇ、何を胡乱なことを聞いて回ってやがる?」
パパは、とうとうパパのことを呼び捨てにし始めたザンエさんの顔を、見返すこともない。ただ一言、こう述べただけだった。
「少しばかり、考えがありまして」
その代わりに、パパが今見ているのは、わたしのことだった。
パパは、わたしのもとに近づいて、そっと耳打ちで、わたしにも質問を投げかけた。
「……え?」
(どういうことなの?)
わたしも「ワタシ」も、パパの質問には、ただ戸惑うばかりだった。
――チヤちゃんを救うために、危険を冒して地獄に行くだけの覚悟はあるか。
それが、パパの質問だった。
あまりに突拍子もない言葉。だけれど、その質問への答えはもう、決まり切っている。
「……当たり前だよ。チヤちゃんを救えるなら、わたしはどこにだって行けるよ」
(「わたし」がそうまで言うなら、ワタシも付き合わないでもないわ)
わたしも「ワタシ」も、魂は二つだけど、今は体と同じく、心だって一つ! わたしは赤い瞳で、パパを見る。
「なら決まりだ。巫女のユキ……予定を変更して、お前の『切り札』は、これからの作戦で切ってもらうぞ」
そういうパパの両の目は、燃えたぎっていた。決して困難に負けるまいという、強い強い意志が宿っている。
ザンエさんは、それをとても不愉快そうに見てはいたけれど。
「さっきから勝手に話を進めやがって……手前ぇはさっきから何を考えてやがる? その面見ると、どうせろくでもねぇことを考えてやがろうんだろうが――」
「いえ。そんなことはありませんよ、ザンエ殿」
パパは腕組みをした状態で、右手の人差し指を一本立て、しれっとザンエさんに言ってのける。
「チヤちゃんを、これから助けに行くのです」
びきり、と音を立てて、ザンエさんの髪の毛のない頭に青筋が浮かんできた。
「だから何遍同じことを言わせりゃ気が済むんだ、手前ぇは? 地獄に一度落ちて、帰ってこれた人間は誰一人としていねぇと、レイ坊だって言ってたろうが」
ならば、とわたしは首を横に振ってから、ザンエさんに問いかけた。
「じゃあ……地獄に落ちるのが、人間じゃなかったとしたら?」
「……何だと?」
これには、さすがのザンエさんもびっくりしたようで、舌が止まっちゃっている。
その隙を縫うようにして、パパが言った。
「名付けて、『蜘蛛の糸』作戦――開始といこうか」




