第一話「わたしたちは退魔師ユキ!」「ある日の夕方の戦いで――」
「待てー! 絡新婦ー!」
わたしこと鵠野ユキ……よくみんなからは「ユキちゃん」って呼ばれるんだけど……は、夕闇の迫る町の外れで、大きな蜘蛛の妖魔を追いかけていた。
悪霊や幽霊、妖怪や怪異みたいな、人間に害を与える不思議な存在を、わたしたちは「妖魔」って呼んでいるんだ。わたしたちはそんな妖魔を祓って、人間に害を与えないようにする「退魔師」っていうお仕事をしている。
お仕事をしてるってことは、わたしたちは大人なのかって? ううん、わたしたちはまだ、小学生。学校に通いながら、妖魔退治をしているんだ。
それで、今はその妖魔の一種、絡新婦っていう妖怪を追いかけてる。
あちこち走り回って、何とかそろそろ追い詰められたと思うんだけど――
(ったく、「わたし」の足の遅さは、どうにかならないものかしらね)
――そんな中、もう一人の「ワタシ」が、「わたし」の心の中で文句を言う声が聞こえた。文句は耳で聞こえる声じゃなくて、心で聞こえる声で言っているわけだけれど……。
こういうときは、わたしもまた心の声で、もう一人の「ワタシ」と話をする。
(だってしょうがないじゃん! 「ワタシ」はお日様が出ているうちは、出てこれないでしょ!)
たくさん走って、ちょっと息が弾み始めたわたしは、交差点の前で少しの間足を止める。
交差点に置かれた車のための鏡には、今のわたしの姿が映っていた。
栗色のセミロングの髪を、大きな赤いビーズが二個ずつ付いたシュシュで左右にまとめた女の子。上に着ているのは赤い紐のあしらわれた白衣で、下に履いているのは赤い行灯袴。きっと、「巫女服」って言えば、分かる人も多いんじゃないかな?
この女の子こそが、わたしことユキの姿。赤い両目をぱちくりさせて、わたしはわたし自身の姿をもう一度確かめていた。
(まったく、こういうときはヴァンパイアの体は不便ね)
わたしの顔に、交差点の鏡越しに、今日の最後の夕焼けの一かけらが降り注ぐ。もう一人の「ワタシ」は、このお日様の光を浴びるとたちまち体が焼け焦げてしまうみたいなんだけれど……。
そんな中、わたしの着ている行灯袴のポケットの中で、アラームが鳴り響いた。
その音を聞いて、わたしの中の「ワタシ」が喜びの声を上げた。
(よし! ここからはワタシの出番ね!)
わたしがポケットから取り出したのは、子ども用スマートフォン。わたしのパパが、特別に持つことを許してくれたものなんだけど、このスマートフォンには、ちょっとした機能がある。
それが、その日の夜明けと日の入りの時間を教えてくれるアラームってわけ。
わたしは、はやる気持ちの「ワタシ」に、胸の中で話しかけながら、右手を左胸の前に置いた。
(それじゃあ「ワタシ」。よろしくね)
(ええ。「わたし」はワタシがケリをつけてやるまで、ゆっくりしてなさい)
そう心の中で言いかわすと、わたしの心はわたしの体の奥深くに沈み、意識が遠のいていく。
□■
「さあ、一気に遅れを取り戻すわよ」
交差点の鏡に映った、ワタシことユキの姿は、霧にでも包まれたように消えてゆく。ヴァンパイアであるワタシは、鏡にその姿が映らないから。
けれども、ワタシがヴァンパイアでなければ、今ごろこんな感じの姿が、そこには映っていたはず。
セミロングの髪を、大きな赤いビーズが二個ずつ付いたシュシュで左右にまとめているのは変わらない。けれど、その髪の毛はもう栗色ではなく、夜空の銀河のような銀髪。瞳だって、赤から緑色に変わっている。
着ていた白衣もそのままとはならず、見えない墨でもこぼしてしまったように、あっという間に白から黒に染まってゆく。
手の爪もより長く鋭く伸びて、口元からのぞける八重歯は、「牙」と言った方がいいくらいまでに成長している。
これが、ワタシ。日の光の無いときにだけ、この体の表に出られる、もう一人の鵠野ユキ。
ワタシは、完全に黒く変色した白衣の背中に意識を集中させた。そこに空けられたスリットから、一対のコウモリの翼を伸ばす。
その翼を羽ばたかせ始め、同時に子ども向けのブーツに包まれた足で、地面を強く蹴りつける。
ワタシの体は、黒い風となって空へと舞い上がった。
「――臭うわね。こっちの方から」
もう一人の「わたし」が追いかけているうちに、絡新婦はその距離をだいぶ離したみたいだけど、日暮れの風に混ざって流れてくる妖気の臭いはごまかせない。
空中に飛び上がったワタシは、電信柱を蹴りつけ、ブロック塀を飛び越え、街路樹を足場にして更にこの身を加速させる。
ワタシの背中に生えた翼では、そんなに高くまで飛ぶことはできないけれど、パルクールみたいにあちこちを足場にしながら跳べば、並の妖魔にだったら軽く追いつけるだけの動きはできる。
やがてワタシは、絡新婦が発する妖気の臭いの元に迫る。ちょうど、しばらく前に封鎖された児童公園のあたりだ。
「さあ、追いかけっこもここらで終わりよ!」
街路樹のカーテンを割って、ワタシは飛び出し、右手を振るった。たとえ絡新婦の姿がこの目で見えなくても、その位置は鼻で丸わかりだ。
右手に、がつんと重たい手応え。
次にワタシが地面に着地したとき、ワタシの右手の爪には、固い殻を引き裂いた感触が、確かに残っていた。
「!!!!」
ワタシの背後では、その足の一本を半ばから折られた、一体の妖魔が悲鳴を上げていた。
その妖魔は、大きさはおよそ二メートル半くらいある大蜘蛛だった。上半身は不気味な肌の色をした人間の女性で、下半身は巨大な蜘蛛の胸と腹になっている。
蜘蛛の胸からは、太い八本の脚が伸びていた。そのうちの一本は、たった今ワタシが引き裂いてやったので、残りは七本。
これこそが、妖魔絡新婦だ。ワタシたちの父親から、退治するのを頼まれた、ね。
(気を付けてね、「ワタシ」! あの絡新婦は、子蜘蛛の産卵期で気が立ってるって、パパも言ってたの覚えてるよね!?)
(覚えているわよ、それくらい。いくらワタシがあいつのお節介をウザったく思ってても――)
ワタシは振り向きざまに、絡新婦を睨みつけてやった。絡新婦の上半身の女性の顔は、怒りで歪んているのは分かるけど、今更それでビビるほど、ワタシの肝は小さくない。
(――一応大事な情報だからね!)
絡新婦の上半身が、固い糸でもこすり合わせるような耳障りな吼え声を上げて飛びかかってきた。
ワタシはそれを横っ飛びによけた。振り下ろされた絡新婦の足が、児童公園のさびたフェンスに叩きつけられ、それをゆがめる。
ワタシは横っ飛びによけた後、地面に着地して、その反動を活かしてもう一度絡新婦の脚を狙い、跳ぶ。
右手で一撃。そこに追い打ちで、右足の回し蹴りを打ち込み、半ば切り折る形で脚を潰す。
絡新婦の悲鳴がワタシの後ろで尾を引く。八本ある肢のうち二本が折れたのは、さすがに痛いらしく、より声が苦し気になっている。
だからと言って、それで手を休めてやるほど、ワタシは優しくない。着地した右足を軸に百八十度振り向き、もう一度絡新婦に飛びかかろうとして――
(危ない! 「ワタシ」!)
絡新婦は、その時残る六本の脚でワタシの元から飛びすさっていた。
同時に、上半身の口を不気味に動かして、白い何かを吐き出した。
「ちっ!」
「わたし」がワタシの心の中で上げた警告の声は、少しばかり遅かった。ワタシの右足には、すでに絡新婦が吐き出していたそれが絡みつき、ワタシの足と地面をべったりと貼り付けていた。
言うまでもない、これは蜘蛛の糸!
(絡新婦のやつ、ワタシ相手に殴り合いは分が悪いとみて、間合いを離したわね)
(ど…どうしよう!?)
(なら、「こうしよう」、とでも言っておけばいいかしら?)
ワタシは慌てる「わたし」に調子を合わせながら、右手を空に掲げた。
夕闇の中から、どこからともなく豆粒のように小さいコウモリが現れた。四方八方から、何十匹もワタシの右手をめがけて飛んでくる。
「ここはあなたに任せるわよ、フルクフーデ!」
何十匹もの豆粒コウモリが、ひと固まりとなってより大きなコウモリのシルエットを形作る。
「使い魔フルクフーデ、参上。ユキ様の命ずるままに」
今やコウモリのシルエットは、一匹の大コウモリとして生まれ変わり、ワタシの右手に乗っていた。ハスキーな男の人の声が、大コウモリの喉から響いている。
これがワタシの使い魔、大コウモリのフルクフーデ。ヴァンパイアであるワタシと、血の盟約を交わした眷族。
……なんだけど。
(フルちゃん、今日もかわいいね!)
なんて、「わたし」が言うくらい、その顔つきは愛らしい。まるで、首の下を撫でられてゴロゴロと鳴く猫のように目が細まっていて、笑顔を浮かべたようにとろけた口元からは、一対の牙がのぞける。そのくせ、声だけはやたら渋い。
できれば、剝き出しの牙に吊り上がった両目で、恐ろしい見た目をしている……とかの方がワタシの好みなんだけど、一度結んだ血の盟約は取り消すことはできない。他の大コウモリに代わってもらうこともできないのが、本当に頭の痛いとこなんだけど……
今はそんなことを言っている場合じゃないのは分かっている。ワタシはフルクフーデを乗せた右手を、絡新婦に向けて振りかぶる。
「やりなさい、フルクフーデ!」
「承知」
フルクフーデは、ワタシの右手を蹴りながら、絡新婦へと飛びたった。
絡新婦の近くまで間合いを詰めたなら、そこから周りをぐるぐると回り、フルクフーデは絡新婦を撹乱する。彼はやがて、目ざとく生まれた死角を見つけ出したようだ。
「その調子では、蜘蛛の複眼は飾りのようでございますな」
フルクフーデは、絡新婦の首の真後ろに飛びつき、容赦なく口元の牙を突き立てた。
フルクフーデは、ワタシの眷族。ワタシと同じくその牙は特別製だ。この牙は血液のみならず、妖力や霊力すらも吸収することができる。
あれが首筋に決まれば、大抵の妖魔はたちまち体の内の妖力を奪われて貧血……というか、貧妖力に陥る。
(絡新婦は遠巻きからならワタシが攻撃できないと踏んだようだけど、その読みは大外れね)
絡新婦は、自分の首元にかじりついた大コウモリを振り払おうとその場をぐるぐる回っているけれども、その程度でフルクフーデの牙を抜くことはできない。
お陰でワタシはこうやって……
「――ッふんッ!!」
右足に絡みついたあいつの蜘蛛の糸を、両手で力任せに引きちぎる時間ができたというわけ。
(相変わらず、すごい力だね、「ワタシ」って)
(ワタシはあんたと違ってヴァンパイアだもの。この腕力を舐めてもらっちゃ困るわ)
さっきから言ってる通り、ワタシはヴァンパイア。ワタシが表に出ているとき、ワタシの肉体は完全なヴァンパイアのものへと変わる。見た目通り、幼い子どもの力しか出せない「わたし」と違って、ワタシはこういう力技だってお手のものだ。それにしたって、この糸を千切るには全力を振り絞る必要があったのだけれど。
(ところで「ワタシ」。そろそろ絡新婦が弱ってきたみたいだよ)
先ほどからその場で暴れ回っていた絡新婦も、徐々にその余力は失われていっている。いくら残りの足が六本ある状態とは言え、そろそろ立っているのも辛くなるくらいには、妖力が減ってきているはずだ。
(それじゃあ、そろそろわたしの出番だね!)
(ええ。しくじるんじゃないわよ)
ここから先、あいつにとどめを刺すのは「わたし」の仕事。妖魔退治をするときの、いつものお決まりのパターンだ。
「フルクフーデ! 戻りなさい!」
「御意」
フルクフーデにも声をかけ、絡新婦の首筋からワタシの手元に呼び戻す。
それを確認したなら、ワタシは両の目をつぶった。
ワタシが、ワタシの中に静かに沈んでいく。
フルクフーデの姿も、黒い霧のようにして溶けてなくなっていった。
■□
「――よし!」
髪の毛を栗色に、瞳の色を赤に、もう一度切り替えたわたしは「ワタシ」からバトンタッチ! ここからは、わたしのターン!
パパが特別に仕立ててくれた白衣が、黒一色から光が広がるようにして白一色へと替わる。この白衣は、わたしと「ワタシ」のどちらが出ているかを示してくれる、便利な着物なんだ。
その白衣の懐から、わたしはそっと一枚のお札を出した。わたしのママに書き方を教えてもらった、妖魔浄化のお札……名前はえーっと……
(丑寅封閂符……でしょ?)
(……うん)
まだわたしが学校で習っていない漢字をいっぱい使ったお札だから、よく読み方が分からないんだよね……。
それでも、これを使うための呪文だけは、何とか覚えてるから大丈夫!
わたしは、「ワタシ」が弱らせてくれた絡新婦の前で、その呪文を唱え始める。
「萬鬼縛縄――疫鬼餌虎!」
お札に墨で書かれた呪文が、お札から剥がれ落ちた。
剥がれ落ちた呪文は白く輝きながら、空中で網のように結びついて、絡新婦の倒れた地面の下に潜り込む。
光で描かれた八卦の紋と、太極の円が、ぐるぐると回り出した。
このお札は、妖魔が持つ陰の気を断ち、清めてもとの魂をあらわにしてくれる。陰の気でこの世に留められている魂は、これにより現世を離れ、次なる輪廻へと旅立つことになる。
これで、妖魔を祓うのがわたしの退魔師としての大事なお仕事なんだ。陰の気が強い「ワタシ」には使うことができず、わたしだけが使える、この術で。
あとは、最後にこの一言を言えば、術は完成!
「急々如律――」
けれども、そこに、どこからかもう一つの声が被さった。
「変形。『熊』の『爪』」
「……え?」
わたしも、もちろん「ワタシ」だって、その時何が起きたのか、最初は分からなかった。
公園の植え込みの中から、いきなり一人の女の子が現れたこと。
その女の子の手の中にあった黒い球みたいなのが、とってもよくできた黒い熊の置物になったこと。
黒い熊の置物が、二つに割れて大きな一対の爪になったこと。
その爪が、今まさにわたしが浄化しようとしていた絡新婦の魂を、体ごとバラバラに打ち砕いたこと。
これが、わたしたちが津上チヤこと、チヤちゃんと初めて出会ったときに、何があったか覚えていることのすべてだった。