「あるおんなのこのみたゆめ――そしてそれに次ぐある決戦の序幕」
むかしむかし、心のやさしい獄卒がいました。
獄卒とは、地獄に落ちてきた罪人に、ばつを与えることをおしごとにした鬼のことです。
その獄卒は、阿鼻地獄で罪人にばつをあたえていました。阿鼻地獄は、ぜんぶで八つある地獄の中でも、一番つみの重いわるものがおちる地獄です。
阿鼻地獄には、とてもおそろしいわるものがたくさんいました。
あるわるものは、生きていたときにたくさんの人のいのちをうばっていました。
あるわるものは、生きていたときは国のおうさまで、自分の国にすむ人たちを、自分がたのしむためにもてあそんでいました。
あるわるものは、生きていたときは恐ろしいほどずるがしこい妖怪で、そのずるがしこさで数えきれないほどの人のだいじなものを、すべて自分のものにしてしまいました。
地獄の王様である閻魔大王さまは、このわるものたちの行いに、はげしく怒りました。閻魔大王さまは、このわるものたちを、みんな阿鼻地獄に送ることに決めたのです。
さて、阿鼻地獄で与えられるばつは、そんなわるものたちですらもふるえ上がるほど、きびしいものでした。
心のやさしい獄卒も、閻魔大王さまから言われたおしごととして、ほかの獄卒といっしょに、わるものたちにばつを与えます。
「いたい、いたい」
「くるしい、くるしい」
「もうゆるしてくれ、にどとあんなわるいことはしないから」
生きていたときには、血も涙もなかったどんなわるものですら、獄卒のばつに耐えることはできませんでした。みんな、まるで赤ん坊にもどってしまったように、大きなこえで泣きさけぶしかできませんでした。
でも、このわるものたちに苦しめられた人たちからすれば、ここまでわるものたちが苦しむのは当たり前なのです。これを、「因果応報」というのです。
そうやって、わるものたちは、なんねんも、なんじゅうねんも、なんびゃくねんも、なんぜんねんも、それよりもっともっと長いあいだ、いっときも休みをもらうことなく、ばつを受けつづけなければいけません。
わるものたちに苦しめられた人たちに子どもが生まれ、その子どもから孫が生まれ、その孫の孫が生まれても、ばつはまだまだずっとつづきます。
やがて、わるものたちに苦しめられた人はみな、年をとって死んでしまいました。その子どもも孫も、孫の孫もみんな年をとって死んでしまいました。
そのわるものたちのことを覚えている人は、もうとっくに生者の世界にはひとりとして残っていません。
それでも、わるものたちのばつはけっして終わりません。わるものたちが生きていたころ、じぶんたちがどんなわるいことをしたのか思い出せなくなっても、それでもばつを止めてはならないと、閻魔大王さまは獄卒にめいじたのです。
けれども、心のやさしい獄卒は、あるとき思いました。
「もう、こんなことはやめよう。わるものたちは、おれたちの与えたばつのせいで、じぶんたちのやったことすら、わすれてしまっている。これでは、おれたちの方がよっぽどわるものじゃないか」
心のやさしい獄卒は、阿鼻地獄でわるものにばつを与えるしごとに、おいとまをもらいました。地獄にある、閻魔大王さまの宮殿に向かうためです。
宮殿では、閻魔大王さまがいつものように、地獄におちた罪人がどの地獄に行くべきか、裁判(わるものにさばきを与え、どれだけのばつを受けるか決めること)を行っていました。
心のやさしい獄卒は、そのとき閻魔大王さまに言いました。
「閻魔大王さま。もう罪人を地獄でくるしめるのはやめましょう。わるものをいためつけ、くるしめるだけなのは、正しいさばきではありません」
心のやさしい獄卒の、そのことばを聞いた閻魔大王さまの怒りようといったらありません。そのばにいた罪人も、ほかの獄卒も、ひとりのこらずこしを抜かしてしまいました。
「ばかもの。わしのさばきにものいいをつけるために、お前はいとまをもらったのか。それが獄卒であるお前のいうことか。今すぐ出ていけ。お前のいとまも、もうおわりだ」
心のやさしい獄卒は、閻魔大王さまからひどくしかられ、閻魔大王さまの宮殿からも追い出されてしまいました。
「ああ。やはり閻魔大王さまはわかってはくれない。おれはこれからも、あのかわいそうなわるものたちを、阿鼻地獄でくるしめなければならないのか」
心のやさしい獄卒は、かたをおとしてとぼとぼとあるき出しました。
心のやさしい獄卒が、もといた阿鼻地獄までもどろうとした、そのときです。
「うわあん。うわあん」
小さな子どものなくこえが、心のやさしい獄卒の耳にとどいたのです。
「子どものなきごえをきくなど、ひさしぶりだ。それにしても、これはなにがあったのだろうか」
阿鼻地獄ほどのふかい地獄にまで、死んでしまった子どもが落とされることはめったにありません。そのため、心のやさしい獄卒にとって、子どものこえは、とてもめずらしいものだったのです。
さて、心のやさしい獄卒は、このこどものなきごえをたどって、あるきつづけます。
その子どもは、三途の川のほとりにいました。三途の川とは、生者の世界をはなれたたましいが、さいしょにおとずれる川です。この川をわたれば、もうその人は死んでしまうことになります。
けれども、その子どもは、どうやらまだ三途の川をわたってはいないようでした。
心のやさしい獄卒は、わるものをにらみつけるおそろしい目を、なるべくやさしくかえました。わるものを大声でどなりつけるのどからも、力をぬきました。
そして、その子をこわがらせないように、そっとおはなししたのです。
「おい。おまえはどうしてここにいるんだ。なくのはやめて、おれにわけをはなしてみろ」
子どもは、さいしょは心のやさしい獄卒のおそろしい顔におどろきました。でも、いっしょうけんめいやさしくしようとする獄卒を見て、ゆうきを出して話しはじめたのです。
「わたしのおっとうが、わたしとわたしのおっかあを、ほうちょうでさしたのです。わたしのおっとうは、はたらくこともせず、あさからおさけをのんでいます」
子どものかおには、なみだのあとがいっぱいありました。
「おっかあは、それでもわたしをたべさせるために、いつもかわりにはたらいていました。でもおっとうは、おっかあがかせいだ、そのおかねも、すぐにおさけにつかってしまいます」
子どもは、かなしそうに鼻をならします。
「それで、おっかあはわたしといっしょに、にげようといいました。おっとうは、それがゆるせないと、おっかあとわたしをさして、ここにおくってしまったのです」
「なんということだ。おまえのおっとうは、なんとひどいことをするのだ」
心のやさしい獄卒は、わるものをせめるときの、おそろしい顔をうかべます。こんなこどものおっとうこそ、なまけ者の罪人として、地獄でばつを受けるべきだとおもったのです。
でもそのとき、心のやさしい獄卒は、阿鼻地獄でじぶんたちがでばつを与えているわるものたちのことも、いっしょに思いうかべました。
たしかに、この子どものおっとうは、死んでしまえば地獄に落ちることはまちがいないでしょう。だからといって、おっとうのことを知る人がひとりもいなくなるほどに年がたっても、それでもばつを受けつづけなければならないのでしょうか。
心のやさしい獄卒は、いよいよわからなくなってしまいました。
子どもはふしぎそうな顔で、心のやさしい獄卒をながめています。
そしてあるとき、心のやさしい獄卒は、心をきめたように言ったのです。
「おい、おまえ。おまえはまだ三途の川をわたってはならん。このまま、三途の川をひきかえして、よみがえれ。みやげに、これをわたしてやる」
心のやさしい獄卒は、子どもに一さつの古びた本をわたしました。
「その本には、おれたち獄卒が、わるもののたましいをくだかぬようにして、わるものをくるしませるすべが書かれている。この本に書かれたことをまなべば、たましいをくだくためのすべも、いっしょにまなべるはずだ」
獄卒は、地獄でわるものにばつを与えます。けれども、ばつを与えすぎて、わるもののたましいがくだけてしまえば、それ以上ばつを与えることはできなくなってしまいます。だから、ばつはたましいをくだかぬように行わなければなりません。
つまり、獄卒はどうすればたましいがくだけてしまうかを、知りつくしているのです。心のやさしい獄卒は、この子どもにもたましいをくだくためのすべを、おしえることにしたのです。
子どもは、心のやさしい獄卒から本をわたされ、きょとんとしていました。そこに、心のやさしい獄卒は言います。
「おまえがよみがえったら、その本に書かれたことをまなべ。そして、おまえのおっとうのたましいをくだいてやるのだ。それが、おまえのおっとうが、地獄に落ちることより、もっと受けるべきばつなのだ」
どんなわるものですら、たましいがくだけてしまえば、地獄にくることはありません。地獄にくることすらできずに、きえてしまうのです。
たましいをくだけば、もうそのたましいは生まれかわることもできなくなってしまいます。けれどもそのかわりに、どんなわるものですら、地獄でずっと苦しみを受けることは、決してなくなるのです。
それが、心のやさしい獄卒がかんがえたことでした。
「その本からまなんだすべは、むやみやたらとつかってはいかん。地獄に落ちるべきわるものだけにつかうのだ。にんげんでもようかいでも、たましいがあるものであれば、へだてなくこのすべはつかえる。それを持ちかえり、わるもののたましいをくだくのだ」
心のやさしい獄卒は、さいごにそう子どもに言いました。
子どもがそのこえを聞いたとき、もう子どもは、三途の川のほとりにはいませんでした。生者の世界へと、かえっていったのです。
このとき、子どもがもらった本こそ、「大慈獄卒秘授巧経」でした。こうして、滅魔師がまなぶじゅつが、わたしたちの住む生者の世界につたわったのです。
◇◇
「……ん……」
そこで、チヤは目を覚ました。
幼い頃、父によく読んでもらった絵本、「やさしいごくそつ」の夢を見ていたのだと、チヤはすぐさまに気付く。
伝承に語られる、チヤたち滅魔師が操る滅魔の術の由来を示したこのストーリーを、彼女は夢の中で再び味わい、そして目覚めた。
時刻は、おりしも夜。
そこでチヤは、今晩に閻婆を狩る準備として、昼のうちに仮眠をとっていたことを思い出していた。
東の空には、そろそろ満月を迎えそうになる十三夜の月がかかる。
窓を開ければ、夜風が彼女の頬と、髪の毛を揺らした。
手の中に握った愛用の武器――リンフォンを転がしながら、チヤは眠気を振り払って、空を見る。
「今日こそは必ず滅して……ううん」
熱く、けれども深く輝く両の目に月を映しながら、チヤは気を吐く。
「ぶっ滅してやる――閻婆!」
かつて自分以外の家族に悲劇をもたらしたあの妖魔を滅するために、彼女は歩き出す。
津上チヤの両足のつま先は、舞白市の隣町をまっすぐに指していた。
□□
「――ん」
わたしは、わたしの部屋に敷かれた布団の中から、体をそっと起こした。
部屋の時計の指す時間は、ちょうど日没くらい。本当ならこれから寝る時間になる前に、わたしは目を覚ましていた。
(よく眠れたかしら? 「わたし」)
パパとママの言いつけで、一応着ておいたパジャマを着ている腕を、大きく伸ばす。
(うん。大丈夫。「ワタシ」は?)
(問題ないわ)
はらり、とわたしのセミロングの髪の毛が肩からこぼれ落ちた。いつも髪を留めるために使っているビーズの髪飾りは、今は外している。
その髪飾りは、枕元に置いてあった。そこでは、畳まれた古い緑色の衣も一緒だ。
(ワタシがこれを……真祖の緑屍衣を着るのも、しばらくぶりね)
この古い緑色の衣は、わたしたちが生まれたとき、おくるみに使われていたものだと、パパとママには教えてもらっている。
わたしがいつも着けてる、この赤いビーズの二つ付いた髪飾り……井瓏石と一緒に、わたしたちのもう一人のパパとママからもらったものだ、って。
わたしはパジャマを脱いで、お布団の近くに畳んでおいた、いつもの巫女服に着替え始めた。
その間も、「ワタシ」とのお話を続けていく。
(だね。井瓏石も、真祖の緑屍衣も、両方使わなきゃいけないかもしれない相手なんて、もしかして初めてなんじゃない?)
わたしが謹慎期間の間、ありったけ書き溜めておいた式神の札を、巫女服の懐に入れておいた。それが終われば、井瓏石の髪飾りで、いつも通りに髪をツインテールにまとめておく。
(そこに、「わたし」の「布都御魂の術」まで加わるんだからね。一大事も一大事よ)
本当のところを言うと、わたしの心の奥では大きな不安がゴロゴロしている。チヤちゃんは大丈夫なのか、わたしたちは閻婆を祓えるのか、考えれば心配事が止まらない。
でも、それと同じくらい、わたしは「ワタシ」に頼もしさも感じている。
(頑張ろうね、「ワタシ」)
(それじゃあ行くわよ、「わたし」)
心の中で、わたしと「ワタシ」は手をギュッと握り合い、笑いかけあっていた。




