第十話「それでもやっぱり祓えない?」「それともこっそり祓わない?」
「…………」
舞白市の緑地公園の森の中で、わたしは動けずにいた。
チヤちゃんが、わたしから見えなくなるくらい遠くに行って、それからもっと時間がたっても、わたしの足に力が戻らない。
あれからどれだけ時間が過ぎたのか、わたしにも分からなくなりそうになった、その時だった。
(……あの女、やっとどっか行ったみたいね)
わたしの心の中で響くもう一つの声が、ふとわたしを自分に返らせてくれた。
わたしの中の「ワタシ」の声。この声を聞かなかった時間は、一日にも満たないような短い間だったけど、それでもわたしにとって懐かしいと感じるには、十分な長さだった。
地面に着けた両膝を震わせながら、わたしは胸の前に手をやる。
(待ってたよ、「ワタシ」)
(ワタシも待ってたわ。あの横取り女が「わたし」の元からいなくなるのをね。あの女が近くにいるときに目を覚ましたら、ワタシの堪忍袋の緒が何本あっても足りなくなりそうだもの)
わたしは目をつぶって、心の中でイメージする。わたしが「ワタシ」に手を伸ばして、その手をつなぎ合う姿を。
こうすれば、「ワタシ」がわたしの中で眠っている間にあったことも、「ワタシ」にすぐに伝えることができる。
かくして、「ワタシ」はあっという間に、今まであったことを理解してくれた。
(ふーん。「わたし」のパパが絡新婦の子グモ狩りを命じて、それで今までチヤの奴が、容赦なく子グモを捻り潰していった……と。チヤは家族を全員妖魔に殺されたわけだし、それで妖魔を恨んでいると考えれば、納得のいくやり方ではあるわね――納得できすぎて、胸くそが悪くなりそうよ)
今日、パパに言われた仕事のことと、これまでにあったことを知った「ワタシ」は、そう言い捨てた。
わたしは手を胸に当てたまま、何とか膝に力を入れ直す。赤い行灯袴の膝のあたりは、土で汚れている。
(妖魔っていったって、生まれたばかりのちっちゃい子どもたちだったんだよ。それなのに、あんなひどい方法で滅しちゃうなんて……)
(大丈夫。無理にその時のことは思い出さなくても、さっきのでワタシには伝わってるわ、「わたし」)
行灯袴の膝を払うわたしは、何とかもう一度立つことに成功した。まだ、あのチヤちゃんの目に見られたときの恐ろしさが抜けきってないから、震えは止まってはいないけど……。
(……で、そんな状況で、「わたし」はわざと手を抜いていたのね)
(うん……)
そして、わたしの膝がまだ怯えで震えているのは、チヤちゃんの目が怖かっただけじゃない。
わたしがさっき「白妙小町」の術を使ったとき、実はわざと式神を飛ばさなかった方向が、一か所だけある。そのことがチヤちゃんにバレたりしないかと、ドキドキしてしまっていたからだ。
わたしは、その場でくるりと振り向いて、小さな声でささやいた。この緑地公園の林に生えた、大きな茂みに向けて。
「もう大丈夫。あの怖い女の子は、向こうに行ったから、出てきてもいいよ」
そう、ここにいる彼女たちだけでも、チヤちゃんから隠したいって、わたしは思っていたんだ。
大きな茂みのあるところが、がさごそと一つか二つ揺れる。そうしたら、その揺れは茂み全体に広がっていく。
そこから、絡新婦の子グモたちが現れた。さっきチヤちゃんがリンフォンの「熊」の「爪」で握り潰しちゃったあの子よりも、もっと幼い子たちばっかり。人間の上半身は、幼稚園の子ぐらいに見える。
(この様子だと、この子たちは卵から孵ってほとんど日にちが経ってなさそうね。何なら、今日卵から孵ったばかりくらいかも)
(そう。だから妖気もほとんど無くって。この子たちならチヤちゃんから隠せるかも、って思ったの)
わたしたち退魔師や滅魔師は、修行を積むことで妖気を感じることもできるようになる。けれど、どこまで小さな妖気を感じ取れるかは、その人の素質や練習次第で決まってくる。
だからわたしは、チヤちゃんがこの子たちの妖気を感じ取ることなく、見逃してくれることに賭けた。さっきは「白妙小町」の術をわざとこの茂みの方には使わなかったんだ。
(で、その賭けに見事勝って、この絡新婦たちだけはあの女から助けられた、と。いかにも、甘ったるい考えの「わたし」らしいわね)
「ワタシ」は、わたしのことをチヤちゃんと同じく「甘ったるい」なんて言ってくるけど、でもその言葉にはチヤちゃんのような冷たさはない。なんだか、安心できる。
そこで、わたしはしばらくぶりに笑顔を浮かべて、もう一度その場で膝を折った。この絡新婦たちに、話しかけるために。
「もう大丈夫よ。あの怖い女の子は離れているから、あなたたちが狩られることはないわ」
絡新婦の子グモたちは、怯えて青ざめた表情だったけど、わたしの声で血色を取り戻す。わたしの言葉は通じてるみたいだね。
「ほ……ん……と……に?」
生まれたてで、まだ言葉もちゃんと話すのが難しいみたいだけど、それでも真ん中にいた一人の絡新婦の子グモは、一生懸命に話してくれる。
だからわたしも、それに応えてあげる。
「うん。ここは舞白市っていう町なんだけど、ひとまずこの隣の町まで逃げれば、あの怖い女の子からは追いかけられないと思うよ。でもね、その前にひとつ、わたしと約束できる?」
「やく……そく?」
「そう」
わたしは、すっと小指だけ立てた右手を、生まれたての絡新婦の群れに差し出した。指切りげんまん、のポーズだ。
「これから先、あなたたちが生きているとき、どんなにお腹が空いても、人間だけは食べないで。あなたたちが人間を食べてしまったら、わたしはあなたたちを祓わなきゃいけなくなっちゃうから」
そうすれば、この子たちの魂は、きっとそのまま地獄に落ちてしまう。チヤちゃんの言う通りになってしまわないよう、わたしはお願いした。
「もし人間以外の生き物を食べるとしても、食べるときには『いただきます』を言ってね。生きるために他の命を奪わないといけないのは、わたしたちもあなたたちも同じ。だけどそれを当たり前のことと思わないで、命を大事に食べてほしいの。そうすれば、あなたたちはきっと、生きるのに必要な以上の命を奪わずに済むから」
「……いただきます、をいうのね」
「そう。この約束を守れるなら、わたしもあなたたちをこれ以上追わない、って約束するから」
生まれたての絡新婦たちは、わたしの目を見て、離さない。
そんな様子を心の中で見ながら、「ワタシ」は驚きあきれていた。
(これじゃあ、「わたし」は巫女じゃなくてお寺のお坊さんか何かね)
(でもね。こう言えばきっと、この子たちの心にも菩提心は……命を大切にする心は宿ると思うの。チヤちゃんは妖魔に菩提心は無いって言ってた。けど、そうじゃなくて、誰もこの子たちに菩提心を教えてくれないだけなんじゃないかな)
(……命を大切にする妖魔ねえ。そんなのが本当に生まれるのかしら)
(「ワタシ」がそうでしょ? だから、「ワタシ」は今わたしのやってることを止めないんだよね)
わたしは、心の中で「ワタシ」にも微笑みかけた。「ワタシ」は、なんともこそばゆそうにして、声を失う。体の中に「ワタシ」を住ませているわたしだけが知ることのできる「ワタシ」の様子で、思わず笑いだしそうになっちゃう。
でも、今は騒がしくなんてしていい場合じゃない。チヤちゃんに気付かれる前に、この子たちを逃がしてあげないと。
指切りげんまんで小指だけ伸ばした手を、今度は人差し指だけ伸ばす形へと変えた。
「それじゃあ、向こうが隣町だよ。向こうにそっと、足音を立てないように進むんだよ。くれぐれも、人間に見つからないようにね。動き回るなら、夜だけにするんだよ」
「うん。ありがとう、おねえちゃん」
そして、小さな絡新婦の、それなりに大きな群れは、動き出した。
草むらから体を出し、ところどころに落ちている葉っぱを踏みしめているとは思えないほどに、絡新婦の群れは静かに動いていく。
最後の子が、森の木の陰に隠れれば、緑地公園はもとの静けさを取り戻していた。
(……さあ、これで家に帰ったらあいつに叱られるわよ)
もう一度立ち上がるわたしの耳の奥に、ワタシの警告が響いた。
(うん。でも、わたしは構わないよ)
これからチヤちゃんを追うか、それとも別の方向に行って絡新婦を探すか、わたしは迷う。でも、そこだけは迷いはない。
(本当に悪さをする前の妖魔でも祓ってしまったり、ましてや滅してしまったりなんて、そんなのは違うと思う。これでパパに叱られるなら、わたしはそれでも構わないよ)
(……となると、逃がした絡新婦が悪さでもしたときは、ワタシたちはその尻拭いをやらされるでしょうね)
(それに付き合わせることになっちゃうかもしれないけど、ごめんね)
「ワタシ」は、わたしの中で、ため息交じりに大きく肩をすくめていた。
(ま、チヤとの妖魔狩りに付き合わされるのに比べれば、遥かにマシだけれどもね)
歩き出したわたしは、そんな「ワタシ」の言い方に、なぜだか優しさと温かさを感じていた。




