第九話「黒い影が現れて」
今をさかのぼること、五年とわずか。
「いやあ、やっと見つかったよレイヤ君。例のあれがね」
当時の滅魔師連盟、獄正の間。
獄正の位を持つ者たちが使うこの部屋にて、頬のこけた長髪の男、カズトモは、隣に座る少年へと声をかけた。
当時十五歳の少年であったレイヤは、手元で拭いていたフレームレスの眼鏡をかけ直しつつ、カズトモの顔を見やった。
「例のあれ……都市伝説に語られる呪具、リンフォンのことですか?」
「ああ。これを見てくれたまえ」
獄正の間に置かれた、黒檀製の机の引き出しを引き、カズトモはその中身を取り出した。
漆黒の正二十面体が、カズトモの手につかまれた状態で、獄正の間に現れる。
「私の手でいくつか検査を行ってみたが、間違いなく本物だ。表面を特定のやり方で撫でたり引き出したりすれば、まるで細工物のように変形し、熊や鷹などの置物に変形する。手始めに、この変形を霊力に反応して自動的に行えるように改造し、かつそこから派生する武装形態への変形機能も追加してある。あとは、チヤに使ってもらうために細部の微調整をすれば、実用性は十分だろうね」
常人が手を出せば恐ろしいことになるリンフォンを、こともなげに「改造した」と言ってのけるカズトモに、レイヤは尊敬の眼差しを向けながら、うなずいた。
「チヤさんは、僕を超えるほどの高い霊力を持って生まれてきていますからね。それにカズトモ先輩の改造した呪具の力があれば、頼もしいことこの上ないです」
「まったく、チヤが私のように、霊力が皆無に等しい体に生まれてこずに本当に良かったよ。私のように、呪具に頼り切らなければ戦えない苦労など、チヤに味わっては欲しくはないからね」
「ただ、ですね――」
ほころんだ顔つきを見せるカズトモに、レイヤは一抹の不安を帯びた声をかける。
「都市伝説に語られるところによれば、リンフォンは凝縮された地獄である、とも聞きます。また、その最終形態まで変形させれば、地獄の門が開くとすら言われますよね。それを、そのままチヤさんに持たせてしまうのは、いくらチヤさんに才能があろうとも、さすがに危険ではないでしょうか、カズトモ先輩」
その声に、カズトモは待っていたとばかりに答える。
「むろん、その点も心配ない。リンフォンの最終形態への変形機能は、きちんと封印を施しておくさ。私ほどの腕前を持った呪具の作り手でもなければ、解除はまず不可能なほどに厳重な封印を、な」
カズトモはひとつ、レイヤにウインクを見せていた。
◇◇
「…………?」
現在のチヤの生家にて、地下室に通じる扉を開け放ったレイヤは、左手を扉の中に向けたまま、いぶかしげに首を傾げた。
(……手ごたえが、ない?)
扉の向こう側は、「鉄鍱飢渇炎」の術がもたらした地獄の炎で焼き払った。だが、その炎に妖魔が焼かれている様子が、感じられない。
レイヤはそこで、もう一度等活業風を招き寄せた。地獄の風が真紅の炎を包み込み、再びレイヤの左手の上に収まるほどまでに、火勢を抑え込む。
今度は、単なる明かりとして、扉の向こうへ炎を掲げた。
(妖魔の姿が……見えませんね)
今のレイヤの目の前に映るのは、扉を開けてすぐのところに設けられた、下りの階段のみ。
(もぬけの空のようですが……。実は、妖魔封印の結界の中に、妖魔は最初からいなかったとでも言うのでしょうか?)
――眼鏡を外して、確かめるか?
レイヤは最初そう考えたが、すぐに否定する。
(やめておきましょう。あれはできる限り使いたくありません。ここは、同じく妖気を感知してくれる、カズトモ先輩の呪具を使いましょう)
レイヤはそう決め、片手に持ったきんちゃく袋――先ほど「大慈獄卒秘授巧経写本」を取り出した袋から、今度は別のものを取り出す。
それは、水晶をそのまま削り出して磨き上げたような、美しい手鏡だった。手鏡はすべてが結晶でできていながら、鏡面の部分のみは不透明な銀色をしており、向こうの景色を反射して、鏡としての用をなしている。
レイヤは、この水晶の手鏡を階段の下に向けた。
たちまち、手鏡からはまがまがしい紫色の光がにじみ出てくる。
(やはり、浄玻璃擬鏡にも、強い反応が出ていますね)
浄玻璃擬鏡とは、生前のカズトモが発明した呪具のひとつ。その本来の使い方に加え、カズトモはこの呪具に、周囲の妖力を感知する機能を付けていた。
浄玻璃擬鏡のこの反応が意味するところは、依然妖魔はこの地下室に存在する、という事実。
(となると、この家に封印された妖魔は、封印が解けたからといって、すぐには行動を起こさない程度には、慎重ということでしょうか。だとすると、連盟長のご判断は、どうやら正解だったようです)
考えながら、レイヤは下り階段の一段目に、ビニールカバーで覆われた右足をかけた。
わずかばかりの足音を、階段は返した。
◇◇
(これは……!?)
地下には、階段を下ると、向かって右側と左側に、一つずつの部屋があった。
そのうち、右側の部屋に入ったレイヤは、その瞬間飛び込んできた光景を見て、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
その部屋には、広い机と椅子があり、机の上には資料が所狭しと積み上げられている。
部屋の壁は、ほとんど全面が棚で埋め尽くされており、その中にはいくつもの呪具が並んでいる。
床には、書きかけの呪印や方陣がいくつも書き殴られ、作者であるカズトモの研究の成果として残っている。
だが、レイヤが驚いたのは、その資料の数ではない。内容だった。
(この棚に置かれた呪具……どうにも、不吉なものを感じます)
先ほどから、これらの呪具の発する妖気は、レイヤの肌にも突き刺さっている。わざわざ浄玻璃擬鏡を取り出すまでもなく――もとい、妖魔と戦う訓練を積んでいない者ですら感じ取れるであろうほどに、この妖気は強烈である。
(カズトモ先輩が手掛けた呪具であれば、漏れ出る妖気をきちんと制御する術式が組み込まれているはずです。カズトモ先輩の腕前をもってしても、妖気を抑え込むのが困難なほどに、これらの呪具の力が強いということでしょうか? それとも他の原因があるというのか……?)
残念ながら、カズトモほどの呪具の知識を持たないレイヤには、この呪具が妖気を抑え込んでいない理由を知ることはできない。
(安全を確保したのちに、この地方の滅魔師連盟支部にも連絡を入れて、呪具回収の要請を入れた方が良いかもしれませんね)
部屋に充満する妖気の中、レイヤは次に、机へと向かった。
資料は、ノートや紙の束、和紙に木の札、過去のものから比較的新しいものまで、さまざまな年代のものが揃っていた。カズトモの筆跡で文字の書かれたものも、いくつも紛れ込んでいる。
レイヤは、試しにそのうちの一つを手に取った。その内容を読み解き始め――
(!!)
レイヤは、眼鏡の中の両目を見開いた。
今この両目で見ている内容は、おそらく幻か何かだろう、そうに違いない。自分自身に言い聞かせ、レイヤは首を左右に振る。
今度は、別の紙束に手を伸ばした。こちらの文字は手書きではなく、ワープロソフトで編集され、印刷されたもの。
そこに書かれた内容は、レイヤの見開かれた目を、更に大きく見開かせた。
カズトモの研究資料を持つレイヤの手が、おもむろに震え始めた。もはやこれは、幻などではありえない。
(これは……禁術の研究……!)
レイヤの頬に、汗のしずくが浮かび始める。
退魔師か滅魔師を問わず、古来より妖魔と戦ってきた者たちは、妖魔との戦いにのみに明け暮れてきたわけではない。妖魔を退治し、人の世の平和を守るために有用なさまざまな術や手法を、共に研究してきた。
その研究の成果には、光もあれば、また闇もある。その闇こそが、禁術。
禁術とは、行使するにあたってあまりにも犠牲が大きすぎたり、引き起こされる結果が人倫にもとるものとなってしまうなどの理由により、利用を避けるべきとされる術の総称に、他ならない。
滅魔師の用いる術は、地獄の獄卒の拷問術が根源だとされる。だが、その地獄の拷問術を操る滅魔師をしてもなお、忌まれる術はこの世に存在する。
カズトモの遺したこの資料の内容は、まさにそのような術を研究対象としていた。
(人の性別を永続的に変更する術……人の成長を強制的に止めてしまう術……人と妖魔を融合させる術……人と妖魔を交配し、半人半妖の生命を生み出す術……。この部屋に残された資料と呪具のうち、少なからぬものが、これらの禁術に関連するもののようです。ですが、カズトモ先輩は一体何を考えてこんなものを……?)
不幸中の幸いとでも言うべきは、生前のカズトモ自身は、霊力が皆無に近かった、という点。
たとえカズトモ自身が、これらの禁術を学んでいたとしても、その行使自体は不可能だっただろう。これらの術は、いずれも行使する術者には相応の霊力が要求される旨も、カズトモの研究資料に書き添えてある。
(だからこそ、なおのこと、カズトモ先輩が僕たちに秘密で、禁術の研究をしていたのかという理由が分かりません。使えもしない術をなぜ……)
その時、レイヤの視界の端に、一つの資料が留まった。
(あれは……?)
クリップで左上をまとめられた紙の束の一枚目には、レイヤも見慣れた一つの呪具が描かれていた。今ではチヤの手の中に収まっている、リンフォンの図である。その資料の題名には、「リンフォンの研究結果」と記されている。
レイヤは、「リンフォンの研究結果」を手に取り、静かに読み上げる。
途中までは、五年前とわずかばかり前に、生前のカズトモの口から聞かされた、リンフォンの改造方法について言及がなされている。
五年前の、カズトモとの他愛のない会話を思い出していたレイヤは、次々とページをめくっていった。
最後のページまでをめくりあげ、レイヤはそっと資料から目を離した。
いつも穏やかで、笑みを絶やさない柔和なはずのレイヤの表情は、けれども。
この時ばかりは、その笑みが驚愕と困惑で、凍り付いていた。
「……話が……話が違いますよ、カズトモ先輩――!」
思わず口をついて出たレイヤのこの言葉も、「リンフォンの研究結果」を手にした自身の手と同様に震えていた。
この記述の内容が正しいとするなら、リンフォンに施された封印は、「厳重」などとはとても言えまい。あまりにも、脆すぎる。
(となると、チヤさんにリンフォンをこのまま持たせているのは危険です!)
レイヤは、その危険を知らせるべく、その場でポケットからスマートフォンを引き抜いた。
だが、反応しない。スマートフォンがロック解除の操作を何度行っても、ロックが解除される様子はない。この部屋の呪具からもたらされた妖気が、電子機器の稼働を妨害している。
(やはりここでは連絡は不可能ですか……! ならばいったんこの家を出ましょう!)
家の外まで引き返せば、スマートフォンを妖気の外へ出し、退魔師連盟本部にいるシロガネまで連絡が可能なはず。
そう判断したレイヤは、この部屋のドアを開け、左手の登り階段へ向かおうとした。
レイヤのその判断は、決して誤りではなかっただろう。だが、わずかばかりに尚早であった。
(!!)
部屋のドアを開け放った瞬間に、レイヤはそれを思い知ることになった。
このドアを開ければ、最初に見える光景は、対面の部屋のドアであるはず。
その代わりに今は、漆黒の闇が広がっていた。闇の中には、二対のまがまがしい眼光が浮かぶ。
(しまった!)
この部屋には、呪具で妖気が満ち満ちていたがために、呪具以外から発される妖気を感じ取ることが難しくなっていたこと。
この部屋の研究資料の示す事実により、チヤの持つリンフォンを早々に回収しなければならないと焦ったこと。
この二つにより、レイヤは一瞬のみとはいえ、警戒を緩めてしまっていた。
このチヤの生家の地下室には、妖魔が封印されているはずだという、その危険に対する警戒を。
二対の眼光を輝かせる妖魔は、甲高い叫び声を上げた。
レイヤの全身が、この家を五年前に焼いたものと同じ炎に包まれたのは、次の瞬間だった。




