死後の世界
広がる草原、花、透き通った綺麗な水が流れる川。
しかし、そこにいるはずの虫や鳥といった小動物の姿は一匹もいない。
あれ? 今まで何してたっけ?
そんな事を思いながら、しばらく辺りをウロウロしていると、綺麗な自然溢れる場所に似合わない人工的な建物を見つけた。
おかしい、さっきまではこんなものなかったような。
それにしてもここはどこだろう。なぜここにいるのかわからない。なにか……なにか重要な事を忘れているような気が……。
「お待ちしておりました」
低くて優しい声が聞こえる。
「どうぞ、中へ」
体が勝手に動き出し、人工的な建物の中へ進んでいく。
外観はシンプルで少し古い感じだったのに、中は市役所を思わせるような案外きっちりとした構造になっていて、窓口であろう場所には、一人の男性がこっちを見ながら立っていた。
「こちらに来てください」
黒い喪服を着た、白髪頭の中年男性がそう言った。
なにも考えず、言われたとおりにその男性の元へ足を運ぶ。
いや、本当は足なんてものはないのかもしれないけど。
そんな事、どうでもいいか。
「はじめまして。あなたの担当をさせてもらいます、榊と申します」
低くて優しい声は、誰もいない建物の中に響き渡った。
このサカキという人物は中年男性だと思っていたが、こうしてみると結構若い。真っ白な白髪のせいで老けて見えたのだろう。
「あなたはなぜここにいるのかわかりますか?」
わからない。気がついたらここにいた。
——わかりません
「そうですか。では、まず最初にお伝えしましょう。あなたはすでにお亡くなりになられました」
不思議と驚かなかった。
サカキは自分の後ろにある本棚から一冊の大きな本を取り出す。
もしかしたらその本を僕は興味深そうに見ていたのかもしれない。サカキは一瞬だけこちらに目を向け、微笑む。
「これはあなたの人生史です。ここにあなたの全てが記されています」
サカキはそう言うと、大きな本の最後らへんのページを黙読し始める。
あまり時間はかからなかったかな、しばらくして大きなため息をつきながら、サカキは口を開いた。
「どうやらあなたは生前、大きな罪を犯してますね」
心当たりは全くない。なぜならなにも覚えていないから。
「この世界について詳しく説明しましょうか」
サカキはこの世界の事を細かく説明してくれた。
この世界は死んだ人間の生前の行いを見て、生まれ変わる資格があるかどうかをジャッジする場所だそうだ。
大抵の人は問題なく生まれ変われるが、生前に未練がある者や、報われない死を遂げた者は特別な手続きを行って、生まれ変わるか、元の世界へ霊として三十日間彷徨うか選べるそうだ。
しかし、霊として彷徨った場合、三十日が経つと、生まれ変われずに消えてしまうらしい。
そして、稀に来るのが罪を犯した者。
その者達は、自分が犯した罪を償わなければならない。
生前の記憶は奪われ、自分が犯した罪や、自分がどういった存在だったかの記憶が無い。しかし、生前の世界の光景だけは覚えている。どういった法律があって、どういう文明があったのか。
奪われる記憶は自分の存在のみ。
生前に犯した罪を忘れているのにどうやって罪を償うのか。それは死界という場所へ行き、あらゆる講習を受け、生前の世界に行って、悩みを抱えている人を助け、その者から感謝の『形』を貰う事だそうだ。
その『形』を集めているうちに、自分が生前どんな罪を犯したのか思い出す事ができるらしい。
そして、感謝の『形』を多く集めると、罪の『形』は無くなる。
つまり、罪の『形』がなくなれば無事、生まれ変わる資格が手に入るという事だ。
「以上で説明は終わりです。質問はありますか?」
——感謝の『形』ってどんな物ですか?
「それは後々わかる事です。私の口からは言えません」
そう言うとサカキは、机の端っこに置いてある黒電話の受話器を取り出し、ダイヤルを回す。
「あ、サカキです。今から罪の魂を一名、そちらに向かわせますので、ユリさんを……ええ、はい。お願いします」
サカキは黒電話の受話器を置いて、椅子から立ち上がる。
「では、今から姿見の部屋という場所に案内しますので、私についてきてくださいね」
しばらくサカキの後ろを追いながら長い廊下を歩いていると、大きなフロアに出た。
とても大きな螺旋状の階段があり、階段には汚れが一つも付いていない綺麗に手入れされたカーペットが敷かれている。
サカキとは何も喋らずに、そのまま二階に上がると広い廊下が現れ、その廊下を真っ直ぐ進むと、木製の少し古びた扉が見えてきた。
扉の前で止まると、今まで黙っていたサカキがようやく口を開く。
「どうぞ、お入りください」
そう言ってサカキは紳士っぽく扉を開ける。
中は暗く、部屋の真ん中にポツンと寂しげに大きな鏡が置いてあるだけの部屋だ。
不思議な事に、鏡にはサカキしか映っていなかった。
本当に死んでるんだ、僕。
「ご覧の通り、今のあなたには実体がありません。この鏡は死界、向こうの世界で活動する為の容姿を決めてくれる鏡です」
サカキはそう言いながら鏡を優しく撫でると、鏡が小刻みに震えだす。
ポツンポツンと、鏡全体に波紋が広がっては消え、広がっては消えと、繰り返す。
鏡に映っているサカキの隣に、うっすらと不気味に人型の影が現れた。
影は徐々に濃くなっていき、真っ白なシャツと、黒いズボンを履いた少年の姿へと変わる。
髪の色は灰色で短く、顔は少し童顔。年齢は十五か十六ぐらいで、体格は頼りなく、平均よりも細い。身長もサカキよりかは低め。
きっと生きていたら身長にコンプレックスを抱いていただろう少年の姿だ。
「これがあなたが死界で過ごす為の容姿です。灰色の髪は我々の世界では罪人の魂の象徴です。ご了承ください」
容姿は決まったが、名前はないのだろうか。名前がなければそれこそ不便だろう。
あ、もしかして本物の罪人みたいに番号で呼ばれるとか? それは嫌だな。
「あ、あの……」
これが僕の声か……外見と比べて少し幼すぎやしないか? まるで声変わりした直後のような、高くもなく低くもない……でもサカキが言ってるように僕は罪人。贅沢は言えない立場だろう。
「僕の名前ってなんですか?」
サカキは思い出したような顔をして、少し慌てた様子で胸ポケットからメモ帳を取り出す。
「申し訳ありません。伝え忘れる所でした。あなたは五月頃にお亡くなりになられましたので、お名前は紫蘭様になります。そして、私があなたの担当ですので、苗字は榊になります」
サカキ シラン。それが僕の名前になった。正直イマイチではあるが、番号で呼ばれるよりかはずっと良い。
「では、今から死界へ行きます。覚悟はよろしいですか?」
死界……きっと地獄のような場所なんだろうな。火炙りとかされなきゃ良いけど。
生前に思い描いていたであろう地獄の光景が脳裏に浮かぶ。
自分の存在についての記憶はないのにこんな事は覚えているのか。
……やはり閻魔大王とかいたりするのか?
そんな事を考えていると、いつのまにか目の前からサカキの姿が消えていた。
慌てて辺りを見回すと、何も言わずにそのまま階段を下ろうとしているサカキの背中が見え、シランは慌てて後を追いかける。
サカキの革靴から奏でられる足音は、心地よい音色となってシランの耳に響く。
この人の足音はどこか優しく、落ち着く。
これから先、どんな事が起きるのか不安になるが、緊張はしない。心臓がないからなのか、元々緊張しない性格だったからなのか。
今はただ、目の前にある謎に大きく見えるサカキの背中を見ながら階段を下りる事だけを考えていれば良い。これから先、何が待っているのか考えすぎると余計に不安になるだけだ。
「つきましたよ」
気がつくともう地下室らしき場所に来ていた。地下室と言っても、別に卓球台があるわけでもなく、倉庫になっているわけでもない。
大きな長方形型の部屋で、天井には豪華なシャンデリアが吊るされており、床には赤に金色の刺繍が施された絨毯が敷かれ、壁には天国と地獄を思わせるような絵画が幾つも飾られている。
地下室にしては豪華すぎる気もする。
まぁ、問題は部屋の奥だな。
なにもかも吸い込みそうなとてつもなく大きな門が、こちらをじっと見つめている。
門の両サイドには、まるで芸術の全てを無理やり掻き集めたかのような、たくさんのもがき苦しむ人々の像が小さく彫られており、門の上にはそれをただ見下ろして、手を差し伸べる素振りもみせない天使の像がたくさん彫られていた。
一言で表すなら、まさに地獄への門。
「あそこに見える門が、死界への入り口となっております」
サカキは低くて優しい声でそう言うと、どこから取り出したのか、一冊の少し分厚い本と肩掛けカバンをシランに渡した。
「あの、これはなんですか?」
「それは教科書のようなものです。これから死界で講習を受けるのに必要なものですので、絶対に失くさないように」
シランは頷き、カバンを肩にかけ、教科書をしまうと同時に、部屋の奥にある門が重い音を奏でながらゆっくりと開きはじめる。
「時間ですね。それでは、私はここで。またお会いしましょう」
サカキは丁寧にお辞儀をして、優しく微笑む。
「いってきます」
正直乗り気ではないが、このままここに居続けてもなにも進展しないだろう。ならば意を決してあの禍々しい門に飛び込むしかない。
シランは後ろを振り向かず、門に向かってゆっくりと歩き始める。
眩しく、冷たい光がシランを包み込む。
眩しさのあまり、目を瞑りながらしばらく歩いていると、後ろの方で門が閉まる鈍い音が聞こえた。
あれ、もう通り過ぎたのか。
恐る恐る目を開けると、そこは想像していた地獄のような世界とは程遠い、幻想的な、まるで絵本の中のような世界が広がっていた。
山のてっぺんに建つ巨大な塔。大きな建物がたくさん並ぶ街並み。空に浮かぶ島と島をつなぐ線路には、汽車が煙を出しながら走っている。
門のデザインは地獄への入り口みたいな感じだったのに、入ってみれば天国のようだ。
「す、すごい……」
思わず言葉が漏れた。
そんな幻想的な世界に見惚れていると、目の前に一台の馬車が止まる。
馬車を引いているのは金髪ショートに碧眼の、腰を抜かす程の美女だった。
「罪の子、今からお前が行くべき場所まで案内する」
金髪の美女はそう言った。
ラッキーと思い、シランが馬車の荷台に乗ろうとしたその時、シランが触れた荷台の一部が、パキパキと音を立て、黒く染まっていく。
「馬鹿者! 誰が乗っていいと言った! その汚れた手で荷台を触るな!」
「す、すみません!」
突然怒られた事でなにがなんだかわからなくなり、とりあえず荷台から手を離す。
「ついてこい」
金髪の美女はムスッとした顔で馬車を動かす。やはり美女は怒った顔も美しいな。
馬の足音と車輪が砂利を弾く音を聞きながら、横目で美女を見る。何度も言うが、本当に美人だ。
クールな感じで、それに合うような少しハスキーな声。何度も言おう、美女だ。
「自己紹介がまだだった。私はこの世界の天使の一人、ユリ。お前は?」
なんと。この人、自分の事を天使って言っちゃったよ。まぁ、事実だからいいけど。
ユリはシランの歩くスピードに合わせて、ゆっくりと馬車を動かしてくれている。
優しい、やはり天使だ。女神様と言ってもいい。
「シラン……です。よろしくお願いします」
「目的地に着くまでこの世界について簡単な事を説明してあげる」
どうやら、死界には罪の魂だけでなく、天使と呼ばれる存在もいるようで、天使は生前、罪の魂とは違い、善を尽くした者がなれるそうだ。
つまり、ユリは自分の事を天使のように美しいと言ったのではなく、天使という種族だと言っていたのだろう。
天使と言っても、物語のように翼はなく、ただ金髪で長生きという事以外は普通の人間となんら変わらない。
天使の他にも死界の住人はいるらしいが、それは後で教えてくれると言っていた。
簡単な自己紹介と、この世界の事を聞いている内に、気がつくと街の中に入っていた。
町並みは中世ニガナ時代を思わせるような光景が広がっており、町の市場であろう場所にいる人たちはユリと同じ金髪がほとんどだ。
ニガナとは僕が生前に生きていた世界の名称だ。
ニガナの歴史は深く、厄災時代から始まり、繁栄国時代、中世時代、近世、そして現代といった歴史が語られている。
繁栄国時代は主に、木材と藁、田畑が中心の時代であるが、中世の時代はレンガや鉄、装飾品が中心の時代だ。
この世界の光景は近世寄りの中世といった時代を思わせる。
今の現代のようなコンクリートの建物や、ハイテクな機械といったものは見当たらない。よく言えばのどかな風景だ。
その中でもここは色々と栄えているようだが……なんだろう、周りの僕を見る目が白い。というか痛い。
まだこの世界に来たばかりだと言うのにこんなにも嫌われているとは。流石にヘコむな。
「周りの目をあまり気にしないでいい。この世界では罪の子をあまり良く思っていない連中も多い。私はそんな事はない。気にするな」
あぁ、優しい。
自分が犯した罪を覚えてないのに、そんな白い目で見られたら他人の罪をかぶってる気分だ。
ユリはきっと、シランの事を思ってフォローしてくれたのだろう。本当に天使だ。周りの天使が悪魔に見えてきた。
周りの視線を気にしながらしばらく歩いていると、大きな噴水がある広場に着く。
よく見れば、金髪の人々の中に、シランと同じ灰色の髪をした人物が一人いた。
「間に合った。しばらくすると死界学校への案内人が来るはず。私はこれで失礼するよ」
「あ、あの! ありがとうございました!」
「気にするな。またどこかで会える。すぐに、な」
ユリはそう言って馬車を動かし、広場から離れていった。
「すッげぇ美人だよなぁ……」
「うん……」
え? 誰?
後ろを振り返ると、そこにはシランと同じ灰色の髪をしたへのへのもへじのような顔立ちの少年がニコニコしながら立っていた。
「お前も罪の魂だろ? ほら、おンなじ髪色!」
少年はそう言いながらシランの頭を指差す。
「俺の名前は……えーと、水仙? だっけか? まぁ、よろしく!」
ひやぁ、ダッ……変わった名前。シランでよかったぁ。
「……あ、うん。僕はシラン、よろしく」
そう言って、スイセンと名乗る人物と握手を交わす。
死界という未知の世界で、さっそく初めての友達? ができた。