はるかなるおにいちゃん
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あ、こーらおにいちゃん、待った?
……わはは、どうだびっくらこいただろ。
ミックスボイスってやつか? 昔から地声っぽく高い声を出すのが得意なんだよ。
見た目がこうだからな。残念ながら、女装しての演者というのは気持ち悪さしかかもさないだろう。だが声だけの出演なら、女役としておよびがかかることもある。
前の学校の友達が、同人? だかをやっていてね。そいつのボイスなんちゃらに女声役として出演した覚えもあるんだ。
どれくらい広まっているかな、あれ? 友達本人は、そちらの界隈だと少し知られた名で手広くやっているらしいし、もしかしたら今でも販売しているかも。
ああ、俺もギャラとしていくらかもらっているよ。友達ならではの口約束とどんぶり勘定なんで、ちゃんとした契約じゃないけどな。
なんというか、このごろはボイスドラマ以外に癒し系な音声も需要があるのな。耳かきとかマッサージを声だけでやってもらうやつ。俺も出演を頼まれたことあるぜ。こづかいが欲しい時分だったし。
だが、ちいとインパクトのある出来事にあって以来、今は引退しちまった。
お前の好きそうな話だと思うし、聞いてみないか?
録音する数日前に、俺はいつも通りに脚本を渡された。
お金をもらっている以上は、手を抜くのは俺の流儀に反する。キャラづくりもかねて、時間はしっかりいただいていた。
今回の俺は、年下のいとこ設定。社会人になったばかりの主人公がくたくたに疲れているところを、癒していくという定番の流れだ。
年齢は10代前半。主人公のことを慕っていて、「お嫁になる~」と昔から話しているも、鼻で笑われてあしらわれているらしい。
それでも、いつか振り向かせようとけなげに世話を焼いてくれるという、男にとってありがたすぎる存在というわけだ。
俺は部屋にこもると、カーテンをはじめとするあらゆるものを閉め切って、密閉空間を作る。
誰かに聞かれるのは、顔から火が出るほどハズいことだし、役作りに神経を注ぐには余計な視覚情報を入れるべきじゃない。
深呼吸をひとつ。
いまから俺は10代前半の女の子、女の子……。
チェック用のレコーダーは、すでに用意してある。そのオンと一緒に、頭も切り替え。少女の輪郭を思い浮かべて、脚本の第一声。
「……あ、おにいちゃん、おかえり」
エクスクラメーションマークがつくようなテンションじゃない。
この子はすでに何度か主人公の部屋へ訪れている。感激などの色は出さず、日ごろの慣れた感の方がいいはずだ。
「……大丈夫? すごく疲れた顔してない? どうしたの?」
がたん、とドアポストが鳴ったのはそのときだ。
びくりと肩を震わす俺は、いったんレコーダー停止。耳を澄ませて様子をうかがう。
ポスティングにしては、ポストあたりを漁る気配がない。かといって、足音を新しく立てるようでもない。
さすがにこの状態、漏れ聞こえているならまずい。
そっと俺は、チェーンをかけたまま部屋のドアを開ける。
向かいのアパート、目の前の廊下と柵、その近辺にも人影は見えない。
「気のせいだったか」と戸を閉めかけて、ふと部屋ごとに貼り付ける表札の下の、黒ずみが目に入る。
両方の握りこぶしを合わせたほどの大きさだが、昨日までこのようなものはあったか、どうも記憶にない。
試しに、コンビニでもらった割りばしなどでつついてみると、とろみがついている。どうやらさほど時間は経っていないらしかった。
いぶかしく思いながらも、虫か何かがつけたかもしれないと片づける俺は、また役作りへ戻る。
「……これは重症だねえ。しょうがないなあ。それじゃあ、私がおにいちゃんを癒してあげようかな。おにいちゃんのお嫁さんになって!」
先ほどとは対照的。昔から言い続けて、断られ続けられている言葉。
主人公もうっとおしく思うほど、熱意にあふれているはずだ。ここは押し気味の声音でないと……。
ぎし……。
俺はまたぴたりと口を止めて、音の出どころをうかがう。
地震ではない。あぐらをかいている足は、みじんも揺れを感じ取ってはいない。
俺の部屋は6畳+キッチンで、今の音はキッチン方面から聞こえてきた。
閉め切ったガラスに引き戸を、そっと開く。慣れた暗闇の目で様子をうかがい、念のため歩き回って、何かいないかを探る。だが、異様なものを踏んづける気配はなかった。
自分の部屋は1階。すぐ上にも住人がいる。
その生活音だろうかと、なんとか納得させて俺は自室へと引き返す。
2回続くと、どうにも集中が削がれる。
収録分すべてを洗うつもりだったが、ひとまずはトラック1の部分のみにしておいた。
このあと、いつものように主人公に邪険にあしらわれるも、直後に主人公は疲れからふらついていとこに寄りかかってしまう格好に。
受け止めるいとこは、そのままよしよしと頭をなでて、トラックの締めへ向かうようだ。
「……ほらあ、素直になりなって」
主人公の最後の抵抗。そいつを引きはがすための、押しのひとことだ。
「あたしのひざの上に、横になっていいよ。ひざまくらってやつ? さあさあ、遠慮しないで」
ぽんぽん、と自分のひざを叩く仕草もしてみる。
後で聞きなおして、ちゃんと癒しをうながすトーンになっているかチェックをしないと。
「ほらあ、恥ずかしそうにしないで。さあ、どうぞ」
ここだ。ここでしめるんだ。
膝から手を離し、大きく腕を広げる仕草をする。
「あたしがおにいちゃんのこと、た~くさん癒してあげちゃうから!」
その直後。
どっと、本当に俺のかいたあぐらの真ん中に、降り落ちてくるものがあった。
液体9の固体1。
想像していた以上の生暖かさと生臭さ。もはや役作りも録音もなく、俺は元の声で悲鳴をあげて、部屋の明かりをつけていた。
どろりとこぼれた液体は、墨汁を思わせる暗い色合い。だが、その中央にほんのわずか浮かぶのは一対の骨。
鶏肉についていたものにしては大型。俺はつい自分の腕を見やってしまう。
俺の腕から血肉を削ぎ落したら、どれくらいの太さになるか……とっさに考えてしまったんだ。
俺はここに至って、自分の部屋の天井が玄関で見たのと同じ、黒ずんでいるのに気づいた。
それは玄関の戸の上から、キッチンの天井も通り、黒く細長い線となってこの部屋までたどり着いていた。あのぬかるみのままにだ。
おそるおそる、先ほどの割りばしで触れてみた骨らしき部分は、もろくも崩れ去ってな。
あとに残る墨汁らしきものの処理をして、急だが引っ越しの手続きを始めた。いちおう、収録の仕事は最後までやり切って、もう以降はご遠慮させてもらったさ。
あの骨、ひょっとしたら時を超えて、癒しを求めた古きも古きの「おにいちゃん」だったのかもな……。