3.墓参り
確かに、俺達は時の流れに取り残された。
でも、アンタが居てくれたお陰で随分マシだったんだ。
これは本当。
それなのにさ……
◆◆◆
「さぁ……何度目でしょうね。200回目ぐらいかな?」
シャロアンスは大して考えていない振りをして、適当な答えを返す。
それに背く様に彼の心が囁く。
そんなの嘘だ、と。
親友が儚くなった年など忘れる筈がない。少なくともシャロアンスには忘れられない。
シャロアンスと、フィローリと、ラゼリード。3人が揃っていた時間はあまりにも短かったけれど、確かに彼らは親しかった。
フィローリが抜けて、シャロアンスとラゼリードの間に人一人分の隙間が出来てから何年経過したか、本当は分かっている。
いや、人一人減った分、互いの距離が縮まったのか。
「ただぼんやりと生きてると、時間の感覚が狂っちゃってねぇ」
シャロアンスは作り笑顔でへらりと笑った。
それは嘘ではない。
考える事を放棄して、何もかも曖昧にして生きていたら、いつの間にか長い時間が流れてしまった。
シャロアンスの外見年齢は、人間で言うところの30歳にも満たない。
彼は恐るべき事に、強大な魔力を持ちながらも成長が人間並みに早かった。実年齢20歳を過ぎた頃には、現在とほぼ同じ姿をしていたという。
それから600年あまりもの時を経たというのに、髪型以外は殆ど姿が変わっていない。──それ故に彼は、幼い頃からフィローリと並んで『異端児』や『鬼子』呼ばわりされていた。
まるで彼らの周りだけ時間が止まっている様だと、人々は噂した。
今も文字通り、彼は時間の流れから切り離されている。
今も、彼だけが。
「もう。ボケるにはまだ早くてよ。気が済んだのなら城へ戻りましょう。あなたの部屋は手配させてあるわ。疲れてるでしょうし、泊まって行くでしょう?」
ラゼリードが銀色の髪から雪を払いながらシャロアンスの腕を取った。
「いや……俺は帰ります」
「えっ?」
ラゼリードが、さも意外な事を聞いたとでもいう様に声を上げた。シャロアンスが右手の中指で眼鏡の縁を持ち上げた。
「今ね、うちの診療所には入院患者が居るんです。人間の男性なんですけどね。一月程前に運び込まれて来た時、大怪我で動かせない状態だったんで、人手不足ながらもウチで看てるんですよ」
「貴方の診療所は確か内科じゃなかったかしら?」
「内科なんですけどね。近所の人が何故か色んな症状を訴えてはうちに来るんで、歯以外なら何でも診ますよ。いざとなればお産も請け合います。妊婦が産気づいちゃってやむを得ず取り上げた事が何回かあるもん」
ラゼリードがにんまりと笑った。右手をシャロアンスの腕に置いたまま、笑いを堪える様に口元を左手の指先で押さえる。
「その内、何人が貴方の子供だったの?」
「そりゃねぇよ」
思いっきり嫌そうな顔をしたシャロアンスがラゼリードの額を右手の指で弾く。ばちん、といい音がした。
ラゼリードは小さな悲鳴を上げて身を竦める。口元に当てていた指で額をさすりながら、上目遣いで睨んでくる様は普通ならば笑いを誘うところだ。
しかし、シャロアンスは苦々しい顔で吐き捨てる。
「俺は自分の血なんか後生に残したくないからね。もし万が一子供が出来たら堕胎させる。それでも生まれたら自分の子だとは認めないよ」
あまりの言い様に、今度はラゼリードが眉を顰めた。
「外道。貴方の中には愛だとか、倫理だとかいう概念はないの?」
「誉め言葉だと受け取っておきますね。そんな何の役にも立たないものは190年前に死にました」
やけに具体的に年数を挙げられて、ラゼリードが一瞬考え込む。
190年?
「話が大幅に逸れた。でね……やっとその患者の怪我の具合が良くなって、看護婦に任せられる様になったから、今日は特別に暇を貰って出てきたんですよ。でも帰らなきゃ。流石に丸一日、一人の看護婦に何もかも任せるのは可哀想でしょう」
たった一日で看護婦を可哀想だと思う癖に、自分の子らしき者には人道的に酷い仕打ちをする。
時々、ラゼリードはこの男が何を考えているのかわからなくなる。彼は一体、己の中の何を基準にして生きているのか。
しかしそれを面と向かって訊く程の度胸はラゼリードには無かった。
「そうなの……。じゃあ仕方がないわね。お見送りするわ。でも、本当に大丈夫? 今日も海路じゃなくて『水の道』から来たのでしょう? なのに日帰りで往復なんて」
「いくつか『道の駅』を経由するから。一度の跳躍でルクラァンまで飛ばなければ大丈夫。それより……見送りはやめた方がいいですよ」
「そう? じゃあ行きましょ」
「今の俺の言葉、聞いてた?」
「聞いてたわよ、勿論」
ラゼリードがシャロアンスの左腕に両腕を絡めた。ぎゅっとしがみつく。
「……こんな場面を誰かに見られたら、また貴女に悪い噂が立ちますよ」
「いいの。わたくしと貴方の関係は完全に潔癖なものだし……それに、今日の貴方はとても寂しそう」
シャロアンスが、頭一つ分下にあるラゼリードの顔を見下ろすと、彼女は幼子が親を見上げる様な無垢な表情で彼を見上げていた。
──ああ、変わっていない。
シャロアンスは悲しそうに微笑みながら溜息を吐いた。
「どうしたの? わたくしの予想は間違っていたのかしら?」
ラゼリードが全身に不安気な気配を漂わせる。シャロアンスはそんな彼女を宥める様に頭を撫でてやる。銀の髪は雪によって僅かに湿っていた。
「違います。姫様は鋭いなって思って」
「貴方と何年付き合ってると思うの?」
「200と7年」
「理解するには充分な時間だわ」
シャロアンスは黙ってその言葉を流した。
解ってるつもりで解ってないよ、貴女は。
◆◆◆
「さ、此処に座りなさい」
黄昏時、黒髪を無惨に乱した女は5段しかない小さな階段を指し示し、とんっ、と幼子の背中を押した。
小さく軽いその体には、その衝撃ですら突き飛ばされた様に感じたのだろう。
幼子はかたかたと震えながら示された場所に座る。幼子が身に纏った野草で染めたらしきくすんだ草色のワンピースの裾が、やや冷たくなってきた風に煽られる。
風に舞う幼子のざんばらの髪は女と同じ、ぬばたまの黒。幼子の方が若いだけあって艶のある綺麗な髪をしていた。
「いいこと? お前は此処でずっと座って待っているのよ。誰に何を訊かれても答えては駄目。お前がお母さんの事を喋ったら、お母さんはどこか遠くへ連れて行かれるの。お前とは二度と会えなくなるわ」
幼子の黄色い瞳が怯えた色を浮かべる。
「お、おかあ…さ…」
「シッ。お黙り。お前は黙って待つの。そうしたら……この『教会』の人が哀れに思って拾ってくれるかも知れない」
女は『教会』を見上げた。西日が影を長く伸ばし、『教会』の扉に彼女達の影が覆い被さる。
それ故、女には見えなかったのだ。
扉にある『シアリー診療所』の文字が。
もう幼子は喋らなかった。
否、強く念を押され、声が出なくなったのだ。
ワンピースの丸襟から覗く喉が、時折ひくついているのが垣間見えた。
女の最愛の夫の目の色を受け継いだ、幼子の黄色い瞳から大粒の涙が溢れる。
女はそれを見ない様にしながらきびすを返す。
とっさに幼子が手を伸ばし、女の翻るスカートを掴んだ。引き攣った悲鳴が女の背後で上がる。
女がくぐもった嗚咽を漏らした。
女は振り返り、跪いて幼子を腕に掻き抱いた。彼女の涙が幼子の肩の辺りに零れる。
「ごめんなさい、シアリィ! お母さんを許して。お母さん、きっと戻ってくるから……そうだ、これをあげるわ。本当は売り物だけど……特別よ」
そう言って女は腕に下げた篭から柘榴の実を取り出し、幼子の手を広げさせて無理矢理握らせた。
子供の小さな手には余る大きさの歪な果実。しかし子供にも持てる程に軽い。
「此処で……静かに待っててね」
泣き声でもう一度念押しすると、女は今度は掴まえる暇を与えず、全力で駆け出し──
その場から逃げた。
幼子は尻に根が生えた様に動かなければ、声も上げなかった。
ただ、だんだん薄暗くなる空に怯えて声も無く泣いていた。
◆◆◆
「ううう……見てるこっちが寒うい」
ラゼリードはガタガタ震えながら両腕で己の体を抱いた。
此処はカテュリア王城の地下──水の祭壇と呼ばれる場所。
祭壇とは名ばかりで、青い大理石の床と、同じく青い柱と滾々と水の湧き出る泉があるだけだ。
その泉の前でラゼリードは凍えていた。フーフーと白い息をひっきりなしに吐き出し、奥歯をカチカチと鳴らしながらも、彼女はその場から離れようとはしない。心なしか目つきが据わっている気もする。
「だから見送りはいいって言ったのに」
ぱしゃん。水面が揺れる音が響いた。
水温は恐らくは零下。
そんな冷たい泉に心地良さげに浸かっていたシャロアンスが、水の中で立ち上がった。
並の男性より背の高い彼が立っても、その水面は彼の鳩尾まである。
背の低い者や子供が浸かれば溺れかねない。
「シャロ、寒くないの? 水精ってみんなアンタみたいに寒さに強いワケ?」
「違うよ。俺は氷精だから特別冷気、冷水に強いだけ。寒さに弱い水精も居るんじゃない? あんまり寒いと水は凍るからね。ま、水精なら凍っても死にゃしないだろうけど」
「ふぅん」
ラゼリードはどうでも良さそうな返事をした。
「なんだよ、余裕無いね」
「だって寒いんだもん」
ドレスにケープ、足下も普通の靴だけでは確かに寒いだろうとシャロアンスは思う。
「言わんこっちゃない。此処は水と土の元素だらけの磁場なんだ。風属性の姫様にはキツいに決まってる。しかも俺が居るから気温が下がる一方だ」
シャロアンスは水を手のひらに掬ってみせる。早くも張り始めていた氷がパキパキと割れる。
「……じゃあ俺は帰るから。身体が冷えきらない内に部屋に戻りなよ」
「そうするわ。また来てね。待ってるわ」
「うん。また来る」
手を振るラゼリードに対し、同じ様に手を振り返す。
そしてシャロアンスは一際伸び上がると、まるで人魚が海に飛び込む様にとぷんと水中に潜った。
その影が泉から掻き消える。
泉の水を媒体にして『水の道』に入ったのだ。
ラゼリードはそれを見届けると、「寒い寒い」と呟きながら大急ぎで地上への階段を昇った。
◆◆◆
青。碧。一面の蒼。
ありとあらゆる青の混じる不思議な色の水中を、シャロアンスは泳ぐ。
時折、その青の中に様々な景色が揺らめいては消える。
此処は『水の道』。
大属性が水の精霊か、水精の加護を受けた者しか通る事を許されない魔法の道。
嘘か真かは不明だが、世界中の水がその『場』に集まっているらしい。だから『道』からは、水がある場所ならば何処へでも行ける。
『道』に入る魔法の習得が困難な他、大量の魔力を消費するのが欠点だが、『道』を通りさえすれば、旅の行程を大幅に短縮出来るのだ。
魔力さえあれば、の話だが。
ふと、泳ぐシャロアンスの側に見覚えのある景色が現れた。
彼は泳ぐのを止め、普段ならば立ち寄らないその場所を出口と定め、景色をくぐる。
青から灰色へと視界の色が変わった。
シャロアンスがざばりと水面から顔を出すと、そこは酷い時化に見舞われた、海に浮かぶ小島であった。海水と雨粒の交じる飛沫が彼の顔を叩く。
『水の道』は野晒しになっていた。
「宿が……無い……」
シャロアンスは泉に浸かったまま雨に打たれながら呆然と呟いた。
何百年も前、その小島は四大属性の『道』の出口を集めた宿場町……『駅』であった。
彼は一度だけ此処を旅の中継点として使った事があるのだ。
その時は、まだ『道の魔法』を覚えていなかった幼いフィローリを連れていた。
『鬼子』と呼ばれる程成長の早かったシャロアンスとは逆に、異常なまでに成長が遅かったフィローリは、『道』の泉に入る度、浅瀬を走り回ってはしゃいでいた。「水が冷たい」と言いながら、折れそうに細く白い足首に纏わり付く水と戯れていた、金髪の子供をシャロアンスは今でも覚えている。
「そ……か。廃れたのか」
時間はやはり流れていた。シャロアンスはうなだれ、再び潜って『道』に入った。
家の前に何が待っているかも知らずに。