2.思い返すと
なんでこんなんなっちゃったんだろう。
ねぇ、先生。
◆◆◆
まるで幽鬼。
無念を残し、あてどなく現世を彷徨う幽霊か、はたまた鬼か物の怪の類か。
ざくろの師匠は、年に何度か──特に夏の盛りから秋にかけて──そんな形容が当てはまる不気味な様子を見せる事がある。
彼の不気味な様子とは、こうだ。
普段の快活な様は消え去り、生彩を欠いた虚ろな目をしていて、何に関しても無気力無関心。
普段の生活ぶりから言うと、怠惰を好む人ではなく、寧ろきちんとしていないと気が済まない性質なのに、着替え等の身だしなみはおろか、食事一つ自力では摂らない。
たまに小綺麗な格好をしたかと思うと、出掛けたまま深夜まで帰って来なかったり、朝帰りをしたりする。
いつも何か考え事をしているみたいにぼうっとしていて、話し掛けても上の空。
シャロアンスがはっきりと口にした試しはないが、言動の端々から死に憧れを抱いている事がざくろにも読み取れる。
何より、その状態のシャロアンスは、自分の手で自分の身体に傷を付ける。
だからシャロアンスのそれが始まると、ざくろは気を抜けない。
師匠を一人で放っておくと、呆気なく死んでしまいそうで、ざくろはいつも怖かった。
そして今、それが起きている。
ざくろは居間のソファに座り、固い表情をしながら膝の上できゅっと両手の拳を握る。
師匠を窘めるのは後回しだ。どうせ言っても聞かないし、余計陶酔するだけなので、今は動向に気を配るしかない。
居間に座って待っていると、やがて疲れ切った様子の師匠が片手にタオルを引き擦りながら現れた。
顔を上げたざくろは、その髪からポタポタと水滴が垂れているのを見て眉をしかめる。
「先生、髪ちゃんと拭いて」
「放っておきゃ乾くだろ」
「服が濡れるよ。風邪引くから」
「風邪なんか引くか」
「俺が拭いたげる。先生は何もしなくていいよ」
反論されるかと思ったが、シャロアンスが何も言わずにソファに座ったので、ざくろはソファの後ろに回った。師匠の手からタオルを受け取って彼の髪を拭く。
シャロアンスの髪はとても長く、量が多い。
ざくろよりも頭2つ分程背が高いのにも関わらず、きっちり揃った毛束は先端が腰に届いているので、すぐにタオルはずぶ濡れになった。
「今もう一枚タオルを取ってくるから、待ってて」
ざくろが背後から表情を伺うと、聞いているのか聞いていないのか目を閉じているシャロアンスが微かに頷いた……様に見えた。
だからタオルの予備を取りに向かったのだが……
この場合はそれは間違いだった。
「先生、お待たせ」
ざくろがタオルを手にして戻ると、シャツを肘まで捲り上げたシャロアンスが、白く凍り付いた細い短剣で左腕の皮膚を切り刻んでいた。
ざくろの手からタオルがぽろりと落ちる。
「先生!」
何か考えるより先にざくろはシャロアンスに飛び付いた。
彼が握る短剣の刃を掴んで取り上げる。痛みが走り、ざっくりと指が切れたが、ざくろは頓着しなかった。
ざくろの手の中で流れる血に触れて、見る見る内に短剣が溶けて水滴と化す。それはシャロアンスの魔法の産物で、刀身も柄も氷で出来ていたらしい。その水滴が、またざくろの指の傷に滲みたが、それもざくろは無視した。
「お前……っ!」
シャロアンスが驚きによって正気に返った様だ。顔を悔いとも怒りともつかない表情に歪める。
「先生! 切っちゃ駄目だってば!」
「危ないだろ! 人が刃物を使ってる時は近寄るんじゃねえ!」
逆ギレだ。
「じゃあそんな使い方しないでよ! 俺は先生が傷付くのがいやなんだ! だから止めるよ! 俺の言ってる事、なんか間違ってる!?」
忌々しげにシャロアンスが舌打ちした。傷付いていない右手でがじがしと髪を掻き毟る。
「くそっ、うるさいガキめ。俺はどこでお前の育て方を間違えたんだ。……やる気失せた。手ぇ出せ。治療してやる」
「いや」
シャロアンスがざくろの手を取ろうとすると、彼は血がぼたぼたと滴るその手をさっと引っ込めた。
下から睨み付ける。シャロアンスの目を真っ直ぐに。それから、師匠の左腕に目をやる。
細く長い傷が幾つも腕に走っていた。滲んだ血が玉を成している。
──良かった。まだまだ浅い。
「先生の手の治療が先だよ」
「馬鹿言え。俺の腕に血を塗りたくるつもりか?」
正論にざくろが返答に窮する。彼は唇を尖らせて渋々といった感じで……それでも折れない。
「じゃあ俺の手の治療が終わったら、先生の腕を治療させてくれるって約束して」
「ああ、分かった。約束するよ。するから。……だから、止血させろ。お前の方が傷が深いじゃねえか。痛いだろう」
「へいき」
「嘘つけ」
シャロアンスは今度は強引にざくろの手を取った。大きな両手で彼の手を包み込むと、その手がポッと淡く光を灯す。
──医療魔法。
その原理は、シャロアンスが自分の魔力をざくろに分け与える事にある。肉体の正常な維持をほぼ完全に魔力で行う精霊の傷を強引に癒すには、魔力を分け与えるのが一番手っ取り早いのだ。
しかしそれは即ち自分の魔力──命を削って分け与える事でもある。
シャロアンスは、自分よりも遙かに小さくて魔力の弱いざくろに急激に力を注ぎ込んで壊してしまわない様に、慎重に術を行う。
「本当に痛くないのか」
シャロアンスの問いにざくろが頷く。
「こんな痛み、なんでもないよ」
「やっぱり痛いんじゃないか。……痛覚が無いのかと疑っただろ」
「痛みを感じない訳じゃないけど、いたくない」
ざくろの顔は至って真面目、冷静で、強がりを言っている訳では無いのがシャロアンスにも分かったらしい。彼はそれ以上は言及しなかった。
やがて光の消滅と共に、ざくろの指の傷が塞がり、元通りの滑らかな皮膚になった。治療を終えたシャロアンスが肩を回しながら呆れ顔で呟く。
「ひねくれたガキ……本当にどこで育て方を間違えたんだか」
「……いらない? そんな子」
途端にざくろの声が震えた。シャロアンスがざくろを見やる。
本人は気付いていないだろうが、猫の様に縦長の瞳孔を持つ黄色い瞳に怯えた色が浮かんでいた。
否、彼は怯えているのではない。
痛がっているのだ。
捨てられた子供だった記憶が、彼に痛みをもたらしている。
それに気付いたシャロアンスは、話題の矛先を逸らす事を試みる。
「……お前は昔っからそういう子供だったよな。痛いとか辛いとか、絶対に言わない」
「だって……迷惑掛けたくない」
だから痛みを我慢する。自分を押し込め、ねじ曲げ、歪める。
既に歪んでいるのはざくろ自身も分かっていた。
シャロアンスはそんなざくろが哀れで……
──哀れで、それで?
「未だにそんな事ほざいてんのか、お前は。ほら、治せよ。これは一種の試験だ。俺の教えがちゃんと身に付いてるかどうか、見せてみろよ」
妙な感情を覚えたシャロアンスは、何食わぬ顔を装い、ざくろに向かって左腕を差し出した。ざくろが真剣な表情でその腕に手を添える。
彼は意識を集中させる為に目を閉じた。ぼんやりとざくろの手元が光り始める。
シャロアンスは不意に、その顔を懐かしいと思った。
思春期の少女めいた外見となっても、瞼を伏せた顔は幼い日の面影がある。
そう、ざくろがシャロアンスの家に来た夜も、彼はこんな表情で眠っていたんだった──
◆◆◆
「今年は来るのが遅くなっちまった。珍しく入院患者が居て忙しくてさ。悪かった。フィローリ、お前はそっちで元気か?」
シャロアンスは、秋冬でも葉を絶やさない常緑樹の木立に囲まれた小さな広場で、一人呟いた。
彼の前には、先端に翼の形を模した巨大な記念碑。
シャロアンスは、肩に担いでいた白薔薇の花束を、そっと記念碑の根本に置く。
身に纏っている丈の長いコートの裾が僅かに地面に触れ、土を掃いた。
彼は手を伸ばし、その記念碑の中程に刻まれた名前と生没年をゆっくりと撫でる。愛おしむ様に。
故人の名前が刻まれてはいるが、それはどちらかというと墓碑ではなく、記念碑的な意味合いで扱われていた。
なぜなら、その下に埋まっているのは本人ではなく、遺品だけだからだ。おそらくそれももう、土の中で朽ちている。
彼──風のフィローリの遺品がそこに葬られてから、既に200年近い年月が経過しているのだ。
彼を、彼の死を直接知る者は今のカテュリアには、ほぼ居ない。故にそれは墓碑ではなく、記念碑として扱われる。
「……元気もなにもないか。でも何処かに居るんだろ? 何処かで風を起こして土埃でも掃除してるんじゃないのか? お前、綺麗好きだもんな」
シャロアンスは自嘲めいた笑みを一つこぼすと、言葉を続ける。
そこには居ない誰かに話し掛ける。
「なぁ、お前は今、何処に居るんだ? 何処に行けばお前に会える? お前に話したい事が山程あるんだ。うちの病院は繁盛してるし、今居る看護婦もいい子なんだ。なんたって、この人嫌いの俺と気が合うんだ。すごくないか? ラゼリード様も相変わらず元気にやってるし、俺も……」
シャロアンスが顔を歪める。瞳は乾いていたが、泣き笑う様に口元に笑みを湛えた。
「俺も、ちゃんと生きてるよ。……誉めてくれてもいいんじゃないの?」
どれだけ話し掛けても返答など無い。シャロアンスは記念碑に身を寄せた。背中を預けて、空を見上げる。
「なぁ、こんなこと、此処で話していても届くのか? 届くんなら愚痴ぐらい聞いてくれよ。親友だろ?」
ざわわ、と木々が風に吹かれてざわめいた。
「それは肯定の返事? それとも否定? 悪いけど、俺には風の言葉は解らないんだ。姫様なら解るかも知れないけどな」
はーっ、と大きく吐いた溜息は白い。
ルクラァンではまだまだ訪れぬ冬が、此処カテュリアでは目前なのだ。
「こんな……俺の一方的な報告だけじゃ、全然足りないよ。またお前と話したいな」
シャロアンスは記念碑から身を離した。
上部の翼型をしたオブジェを見つめて声を掛ける。
「もう帰らなくちゃならないから……。また来るよ。フィー」
一本道となっている記念広場への道を戻ると、入り口の蔓薔薇のアーチの側に、ドレスの上から毛足の長い毛皮のケープを羽織った銀髪の女性が佇んでいた。
「ラゼリード様」
近寄りながらシャロアンスが声を掛けると、彼女は顔を上げた。
一瞬遅れて彼女の赤色と紫色の瞳が此方を向いた。左右同じ色と言うには異なり過ぎ、全く違う色と言うには似過ぎている色違いの二つの瞳が、静かにシャロアンスを見つめる。
所在なさげに立っていた彼女が居住まいを正す。
シャロアンスは彼女の前で足を止めると、胸元に手を当てて頭を下げる略式礼の姿勢を取った。
「早かったわね。もういいの?」
「はい、構いません。それよりもお伺いしても宜しいでしょうか。何故こんな寒い場所にお一人でお出でに? そのような薄着では」
シャロアンスの言葉をラゼリードが手で遮る。
「待った。久々に来たから忘れてたとでも言うのかしら? わたくし達の間では尊敬語も謙譲語もなしの筈よ。決めたでしょう? 人払いはしてあるから、人の目は気にしなくていいわ」
「丁寧語ぐらいは使わせて下さいよ。……人払いは、俺の為にですか?」
「ええ、そうよ。今日はあなたが来るのが分かっていたから、一日中禁足地にしてあるわ」
「かたじけのうございま……」
ラゼリードがシャロアンスの顔をジッと見た。口で問う代わりに、彼女は目や仕草で物を語る。
彼女は、はっきりと拒絶していた。
シャロアンスは困った様に笑った。
「ありがとう、姫様」
「ラゼリードよ」
「ありがとう、ラゼリード。でも人前では『様』を付けますからね」
「仕方ないわね」
口振りとは裏腹に笑顔で妥協したラゼリードの視界に、不意に白いものが入る。2人して顔を上げて空を見た。
白く曇った空から、ちらちらと舞い踊りながら白いものが降ってくる。
「雪だ」
シャロアンスが嬉しそうに声を上げる。彼は氷の精霊だけに、雪は自分に近しいものだと思っているのだ。
「初雪だわ。もう冬ね……」
ラゼリードが白い息と共に沈んだ言葉を吐いた。
「あれから何百回目の冬なのかしら。貴方とわたくし。3人が2人になってから」