三話
新しい朝が来ても、希望とは限らない。
喜びに胸を広げられたら、どんなによかったか。
思わず、よく知っている体操の歌詞をなぞって皮肉が出てしまうくらい、起き抜けは変わりがなかった。
馴染みのない洋風の部屋に、ボタンも最小限しかついていないシンプルな寝間着といった格好も昨日の記憶のまま。
そして、椅子で無理やり寝たというのもあって、なんだか体の調子も微妙。
「んん」
声を出して伸びをすれば、体の内からぱきぱき音がした。あくびをかみ殺して、そうだったとベッドのほうを確認する。
瀕死と思わしき男の人を寝かせてみたけど、どうなっただろう。
傷はなく、とにかくやつれてくたびれているという感じだった。医者でも看護師でもない私にはなんの手当もするべきこともわからなくて、そっとしておくことしかできなかった。
まさか、私のひと眠りの間に永遠の眠りについたなんてことはないはず。
こわごわと見れば、藍色の瞳と目が合った。
「あっ」
「あ」
声が被った。
かすっかすの枯れた声。見合っていると、もう一度声を出そうと彼の口が動こうとしている。
「まって。水と飴ならあるから」
起き上がろうとした相手を、慌てて右手で制す。
机に投げていたサイドポーチを手繰り寄せる。まだ少々濡れているけれど、中身は大丈夫そうでほっとする。
ジッパーを開けた中にあるのは、ミニサイズの水筒、ドロップ飴、メモ帳とペン、ハンカチ、ばんそうこう。コスメや貴重品類はすべてヒロ兄たちのテントの中だ。
もし戻れなかったら替えのきかない貴重な水や食料だ。だけど、しないで後悔するよりしたほうが気持ちがマシである。
それにこの人は、私よりもひどく弱っている。見捨てることは、とてもじゃないが私にはできない。
ためらう気持ちを隅っこに追いやって、まずは水筒のカップに水を入れて差し出す。
「はい」
ぽかん、と驚いた顔をしている。私を見て、それからじっと差し出されたカップへと目線が動いた。
あ、もしかすると言葉が通じないのだろうか。彼の中で、急に目の前に居た女が水を押し付けてきたみたいな感じになっているのかも。
いや、脳内のヒロ兄がボディランゲージは万能と言っている。いけるはず。
「あー、えーと、take it……す、すいとう、じゃなくて、this cup,OK?」
やっぱり、いけないかもしれない。
ますますわけがわからないという顔をされている。
仕方ない。私の英語力はアヒルが並ぶ悲しい成績でお察しである。これでよく模試がうまくいったものだと自分でも思う。大学ではもっと頑張ろう。
それでもめげずに、身ぶりで飲むようにを示して、ぐいと再度カップを彼に差し伸ばす。
また何か声をかけようかと思ったものの、もう私の英語力は限界だ。イディオムはすでに死んでいる。
それに、英語ではなく他の言語が母国語の可能性だってある。なら、いっそのこと日本語でよいのでは。
私は諦めて日本語でがんがん話しかけることにした。ニュアンスで伝わってほしい。
「ええっと、ユー……ああっと、すこしだけ、体起こせる? 難しいなら寝ててもいいけど、むせないように気を付けてね」
「あ……え……」
うまく言葉が出ないのか、呆然とした様子だ。
でもこちらを見て認識はしてくれているので、これ幸いにと体を起こす仕草をして飲むように腕も動かしてみる。
「こう、えっと、起きて、飲んで!」
何度か同じ仕草をして言えば、やっと彼は緩慢な動作でわずかに体を起こした。伝わったみたいでよかった。私のジェスチャー力、案外悪くないんじゃなかろうか。
ところで、この人って体力ないんだなあ。よろよろしている。
見ていられなかったので、枕を背中につめて支える。口元にカップを寄せると、彼はこわごわと縁に口づけた。すこしずつ嚥下をしているのを確認して、カップをそのまま握らせれば、やがて一人で少しずつ飲み始めた。
しかし、あれだ。
この人、めちゃくちゃ、幸が薄い顔をしている。
痩せぎすのせいってのもあるけれど、もともとのパーツが小さめでなんだか物悲しそうに感じ取れるというか。目はぎょろっとしているものの伏し目がちだし、下がり眉のせいでさらに頼りなく見える。
体調がよくないってのもあるのかもしれない。顔色の悪さが悲壮感に拍車をかけている。
窓から差し込む光のおかげで、より一層わかる色の悪さであった。
髪の色、暗い金髪かと思ったけど、畳みたいな色だわ。くすんだ明るい黄緑ぽい。なんだか変わってる。
まあ、ともかく、もうちょっと肉付きがマシになれば、健康的に見えて改善されるだろうか。
なんとなく容姿は整っているように見えるけれど、外国人の顔は私にとってだいたいよく見えるからよくわからない。
年はいくつだろう。
同じくらいか年上っぽく見えなくもない。欧米人ぽいから、意外と私より年下の可能性もある。
そう思えば、たどたどしい動作もそれっぽく見えてくる。なんだか可愛いかもしれない。
私はなんとはなしにおおらかな気持ちで、今度は飴玉を缶から出して渡してみる。
「おっ、りんご味。私の好きな味だわ。あなた、ついてるわよ」
わざと明るい声で言えば、彼は手のひらの黄色い飴玉を見つめた。
そして、その大きな藍色の目がうるんだと思うと、ぼろぼろと涙を流し始めた。
「えっ」
まずい対応しちゃったのだろうか。異文化わからない。ジェスチャーにもセーフアウトがあるとは知っているが、なにか引っ掛かった?
いやいや、私の優しさに感激したとか……だといいけど。
楽観的に無理矢理思考を導いて、相手の出方を待つ。
すると、おもむろに飴玉を両手で持ったまま、彼は額のあたりまで掲げた。
「あの?」
「……最下民、である……わ、がみに、お慈悲を」
まだ掠れた聞きづらい声でぼそぼそと言っている。日本語だ。
なんだか畏まったふうな口調だ。そういうドラマとかで勉強をしたのかもしれない。好きなものの影響を受けることって、なくはないと聞くしそうかも。
「つつしんで、うけとります」
ほかにもいろいろ言っているみたいだったけれど、はっきりと耳に届いたのは、これ。意を決したような様子で飴を口に入れる前のこの言葉であった。
そのまま苦い薬でも飲むみたいに、ぎゅうと目を閉じて飴を口にした。そして、すぐにかみ砕く音がした。
飴は噛む派の民なのか。もったいない。
しかし、彼は自分のした行動だというのに、しばらくして驚いたようだった。
呆然と呟いて、飴を持っていた自分の手のひらを見下ろしている。
「……あまい」
「いや、だから飴って言ったわよ。ノンシュガーじゃなくって果汁百パーのいい飴なんだから」
「……え、と……わたしは」
「なによ」
なぜか途方に暮れた顔がこっちを向いている。
「慈悲を、たまわったのでは?」
「慈悲? 飴のことなら、私の慈悲だけど」
どういうことかはわからないけれど。互いに行き違いがあるのは、なんとなくわかった。
しかし、休んだこともあってか水や飴のおかげか、彼の声はさきほどよりだいぶん良くなっている。あの声のままだったら、話しをさせるにも気が引けるというものだ。
「ちょっと、落ち着きましょ。私だって、わからないことだらけなんだもの」
そう伝えて、椅子を引っ張ってベッドサイドに置く。サイドポーチを手に座って、仕切り直しである。
それから「まず」と一声上げれば、まだ潤んだままの藍色の目と合った。なんだかいじめているみたいだが、小さく一呼吸入れて、あえて指摘せずに続ける。
「自己紹介をしましょうよ。私は古野守サエ、十八歳の日本人。家族と山にキャンプしていたら、事故で道から滑り落ちちゃって、気づけば雨の中で寝てて……ええと、そこで同じように倒れているあなたを見つけて、ここまで連れてきたの」
「あなたが、わたしを、連れて?」
「ええ。だって、あなたすごく弱っていたし、雨の中放っておくのも嫌だったから。あ、怪我はなさそうだったから、そんなに大したことはできなかったんだけど」
「あ、いえ……いいえ、あの、そうですか」
そしてまた、彼は大粒の涙をこぼしはじめた。涙腺が壊れてるのかってほど、簡単に出る涙に面食らってしまう。
「最下民の者に労力を割いていただき……申し訳ございません、御目汚しを」
「いや、それはいいんだけど。その、最下民って? あなたの国の言葉?」
口ぶりからして、あんまりよくない意味だろうとは予想できる。
「万民たる方々の、日陰に住まわせていただく階級の者です」
「……それって、あの、言葉が悪いことを言うけれど、そのう、奴隷?」
「異国にはそのような立場の者がいるとは聞き及んでおります」
「えっと、難しい立場ってこと?」
「そう、ですね」
泣いているのに口調は普通である。
はっきり言うと、ちょっと変だ。やっぱり涙腺がおかしくなっているんじゃないだろうか。もしくは、精神的にまいっているのか。
けれど、彼の様子のおかしさによって、逆に私の精神は落ち着かされていた。怪我の功名、というものかもしれない。たぶん。
「この身の上は、口にしてはならぬものです。そのため、名もございません」
そう言って、右腕の上あたりまで袖をまくり上げた。
着替えた時にも気になっていたが、刺青みたいなものが入っている。二の腕のあたり、細いバングルみたいなデザインだ。それを見せて、すこしずつ引き始めた涙目で続けて言う。
「最下民、塵芥、働き小人、いかようにでも呼び捨ててください」
いや、呼びづらいが。
私にわざわざその模様を見せたのは、彼のいう最下民ということの証なのだと思う。
というか、どこの国の人なんだろう。聞いたことがない風習だ。そして察するに、お家騒動とかありそうな訳ありの身の上っぽい気がする。ちゃんとした受け答えをしているし、教養もあるようにみえる。日本語もしゃべれるし。
返答に困って黙ったことで、またしんと空気が沈みかえってしまった。
「そ、そうねー……そのねえ」
なんて呼べばいい。
最下民とか塵芥とかは、いわゆる蔑称だろうし。そうなるとちょっとファンシーな働き小人は選びやすそうだけれど、さっきの言葉と同じように出てきたってことは、良い意味合いとして使われていないのだろう。
働き小人という言葉は、ヒロ兄の民族雑学で聞いたことがある。山関連の昔話だからって話してくれたんだっけ。
思い出した。
グリム童話の『ルンペルシュティルツヒェン』もしくは『小人の名前はトム』というお話だ。
確か、こういった話だった。
お願い事を聞いたかわりに、ほうびをもらおうとした小人が自分の名前を当ててみろと言う。そして主人公が探って、山小屋のところで踊りながら自分の名前を言っている小人を見つける。最後は本当の名前がばれて消えてしまう、という流れの。
都合よく願いを聞いてもらうだけもらって、弱みを握られて捨てられるとかそういった悪い意味で使っている……としたら、やはり使いづらい。
そして話を思い出したことによって、頭からその名前が離れなくなってしまった。せめて、少し捻ってあげたい。
「ルンペル……いや、ちょっと柔らかい語感で、ルンヘル。物静かな意味のシュティルもいいけれど、長いと呼びづらいかしら。ルンヘルシュティル。ルンヘル、シュティル、ルン……ルンと呼ばせてもらっても?」
「はい、お好きに」
あえて声に出して反応を伺いながら言ってみるけれど、大きなリアクションはない。本当になんと呼ばれてもいいと思ってるのかもしれない。
結局、思い付きから適当に決めた名前となってしまった。
ルンなんて、今現在の彼とは似つかわしくないくらい明るい擬音語である。
まあ、そうなるといいな、元気出るといいな、という祈りをこめて呼んであげよう。
言葉少なく肯定して、彼、ルンはまたほろほろと涙をこぼした。
うーん、きっと、涙を指摘してしまうのはたぶん、よくない。
ルンとちょっとばかり話した感じから思うに、精神的にずいぶんと卑屈だし、疲れ切っている風だ。
我が尊敬できる叔父と叔母は、人と接するときは受容と傾聴と共感が大事だと言っていた。
下手につっつかずに、ある程度は流してしまおう。
それでもつい、手が動いてきれいなシーツでぬぐってしまったが。抵抗されることもなく、されるがままで受け入れているルンは、心を許しているというよりも粛々としている。
やはり、突っ込みすぎはよろしくないと見た。
「では、ルン。体は平気? 外が明るくなったら、ちょっと探索をしようと思うの。あなたの調子がよければなんだけど」
「外」
「そう。見た感じ、私が登った山にはこんな建物あるなんて聞いてないし。ルンに心当たりがあれば教えてほしいなって思って」
「はい」
「あ、それと服は床に置いてしまってごめんなさい。着替えも、私しかいなかったし、濡れていたから」
「……申し訳ございません」
今そのことに思い至ったのか、ぱちりとまぶたが瞬いて血色の悪い顔にさっと朱がはしった。
「いやいや、私のほうこそ! というか、勝手に服を拝借しちゃったのよね。この服とか部屋とかは見覚えはあるかしら」
「とくに」
ゆるりと頭が横に振られた。
期待をしていたわけではないが、まだ現地民という可能性もあるし、私も知っている土地の可能性もあるはず。あってほしい。
半ば祈りながら、けれど不安は表情に出ないようにこらえて笑ってみる。うまく笑えているだろうか。本当に、一人じゃなくてよかった。
ちょっとどころじゃなく変わった人であっても、独りぼっちで訳のわからないところにいるよりは、絶対ましだ。
「ええと、じゃあ、もう明るくなってきたみたいだから。まずは部屋の外を回ってみましょうか」
努めて明るく言ってみると、じ、と視線を合わせたルンは、小さくうなずいてくれた。