9,クレア:存在価値
お兄様に会うことも、図書室に行くことも許されなくなってどれほどの時間が過ぎただろう。
お姫様の日常を保ってくれるメイドと執事がいなくなれば、途端にお姫様は剥がれ落ちてしまう。
名前の由来となった本を抱けば、私はクレアという女の子に還る。
ルークに会えないのがこんなに寂しい。ひと時の出会いの儚さを失わないように、本を抱いて寝る日々が続いている。誰もそばにいてくれないことが、こんなにも心細いなんてしらなかった。
ルークの寝床に勝手に行き、怒鳴られたこと。図書室で会う時の、丁寧な挨拶。一緒に本を選ぶ他愛無い会話。耳元へのささやき。思い出せば、自然に手が耳に触れる。
振り向けばその表情は優し気になのに、射貫くように見つめてくる。頬に触れて『狂っている』と告げる嫌な人。撫でながら、けなすような言葉を投げて、私が傷つかないとでも思っていたのかしら。
狂わせたのはあなたでしょ。そんな風に、今なら言い返せそうだわ。
最後に『さらっていくよ』と残して、ルークは泡のように消えてしまった。怒っているようで、苦しんでいるようで、その声はとても切なかったわ。
もう一度、クレアと呼んでほしい。
クレアが会いたいの。どうしようもなく会いたいのに、お姫様という枷がずっしりと重いの。それしかしらないから、生まれたばかりのクレアはまだあなたに手を引いてほしがっている。
毎夜、カーテンを閉めずベッドに入れば、月夜を眺めて本を抱く。
夜は暗く、吸い込まれるみたい。
どこかへ飛んでいきたいと思っても、そのどこかさえ思い描けない。
ルークと出会って、お姫様の世界がどれほど狭かったかと切に感じいってしまう。
いつものように眠ろうとしたある夜、執事とメイド以外入らないこの部屋の扉が急に開き、お母様が現れた。後ろから執事とメイドがついてくる。
私は本を強く抱いて、いつもの無表情で近づくお母様を凝視した。
執事が椅子を運んできて、その椅子にお母様が座った。
メイドがもう一脚運ぶと、お母様から少し離れた場に置く。
執事が暖炉に火をくべて、メイドが「どうぞ、お姫様」と手を差し出してきたものだから、いつものようにあどけなく笑って、手をとった。片手には本を持ち、メイドに促されるままにお母様の前に置かれた椅子に座らされた。
本は膝に置いた。足はそろえ、両手もそろえ、本の上に添える。お姫様らしくを心がける。
このお屋敷にいるお母様はとても質素。私にはお人形のような愛らしいドレスをあてがうのに、いつも動きやすいドレスを着ている。キビキビと執事やメイドなどに支持を出す姿を遠目から見ることもあった。
ほとんどは階下の出来事で、二階にいる私にはその声も聞こえず、まるで別世界のように眺めるばかりだった。
お兄様は王子様で、私がお姫様なら、お母様はお妃様、お父様は王様。なのでしょうけど、私はまるでお妃様らしいお母様の姿も王様であるお父様の姿さえ見たことがなかった。
メイドが私の首周りに大きな布をかけた。それは私の体をすっぽりと包む。
「さあ、はじめて」母の声にメイドが一礼する。
「失礼します。お姫様」
彼女の手には、はさみが握られていた。握られた一房の髪に、刃先が近づいてくる。
「待って、何をするの」
すかさず私は椅子から立ち上がろうと身をよじった。
「黙りなさい」
怒声が飛んできた。私はびくっと身を縮る。おずおずとお母様を見ると、その顔が憤怒の形相に変わっていた。
「忌々しい。グレンを生かすために用意した、あの孤児も消えました」
孤児……、ルークのことかしら。彼はこの屋敷から、もういないの。
メイドが私の両肩へと手を添え、「お座りください」とささやいた。
私はお母様から目をそらせず、押し黙った。促されるまま、椅子に座りなおす。
メイドは私の髪をつかみ、長かった髪をジョキジョキと切り始めた。
「お前を使う日がくることは望んではいませんでした。
名無しの姫。そなたは、影です。
決して表に出す気はありません。
たとえ、王の御前であっても」
髪がどんどんと切られていく。
前髪も、後ろ髪も。首筋に風が通る。
「私の子は、グレン一人。そなたは生まれてはいないのです」
メイドが私にかけていた大きな布を取り払う。
姿は見えないけど、髪を短くされた私が女の子の寝間着を着て本を抱いて座っているのでしょう。
お母様が近づき、私の持っていた本を取り上げた。
あっと声を上げる暇もなく、お母様はその本の表紙を見るなり、暖炉にほおり投げる。本は、瞬く間に火にのまれ、その形を失ってしまった。
ルークとの思い出の象徴が燃えていく。クレアという名前の由来が燃えてしまう。とても悲しいのに、とても悔しいのに、私は動くことができなかった。
お母様は再び椅子に戻ると、私の顔を今度は満足そうに眺めまわす。
手を顔横にあげ指先をおる。その合図に、メイドが私を立たせ、寝間着を脱がした。執事が、新しい衣服をメイドへと差し出す。彼女は黙っていつものようにその差し出された衣服を私に着せた。執事が、姿見を運んでくる。
お母様の目が潤む。頬は紅色し、興奮しているようにさえ見えた。
メイドが着替えを終え、執事が私の前に姿見を置いた。
映し出されたのは、兄そっくりの私だった。
母が私の肩に手を添える。
「これより、そなたの名はグレンです」
お母様と並んで立つなんて、お姫様だったころには記憶がない。
頬ずりするように私に顔を近づける。
こんなうれしそうなお母様を私は見たことがなかった。
「おお、私のかわいい一人息子。
グレン・アークランド。
母は、あなたが帰ってきてくれて、本当にうれしいわ」
数日で、私の持ち物はすべてお兄様と同じものに変わってしまった。。
お姫様の持ち物はすべて持ち去られ、ルークと出会った思い出を示す本もすでに灰になり、彼と会った時に身に着けていた髪飾り一つ手もとにも残らなかった。
ルークの顔。声。言葉。薄れる記憶の中に残された彼もどんどんとおぼろげとなり薄れていく。
『クレア』残ったのは響きだけ。その響きさえ、いずれは消えていくのかもしれない。
『俺がいなくなっても、あなたの中にクレアという名は残ってくれるだろうか。
もし名前が残っていて、俺がもう一度クレアの前に現れたら……あなたをさらっていくよ』
残された約束さえ、胸の奥深くに封印するように閉じ込めた。
お兄様に用意されていた家庭教師による教育が始まった。
私は王子様として、日々を忙殺されていく。
お姫様でも、クレアでもなくなってしまった私。
グレン・アークランド。それが僕の新しい名前。