6,クレア:狂った無垢
「あなたと一緒に本を読みたくて」
ルークに手元の本を差し出した。
あなたと同じ名の王子様が出てくるお気に入りの本よ。
本当はそう言いたかったのだけど、そこまで言葉を続けられなかった。
目を丸くして、ポカンと空いたお口。
すぐにぎゅっと絞められて、目がぎっと鋭くなる。
「男の寝床に七歳を超えて入るなと教育はうけていないのか!」
大きな声に、私はすっかり驚いてしまった。
誰かに怒られるなんて初めてで、受け止め方が分からない。
返す言葉が思いつかなかった。
「何かおかしいかしら」
首をかしいで、本を抱え座り込んだ。
ルークが、私を見ている。『お姫様』ではなく、彼が見ているのは、私。
こげ茶の瞳に映し出される私をこの場でもっと見つめていたい。
「いや、いいんだ」
そう言うと、彼はふと目をそらした。心がぎゅっとしぼんでしまう。
彼はただ座りなおしただけだった。
再び私を見つめる目は、怒りを宿すものではなく、図書室で見つけた瞳とも違った。
私の存在を値踏みするように、彼にじっと見つめられる。そのひと時が、途方もなく長い時間のように感じられた。
この部屋に入るまでは、話したいことをいっぱい想像していたのに、口を動かすこともためらわれた。声が出ないかと思ってしまう。
いつもなら、よどみなく『お姫様』でいられるのに。
名前がない。
そう突き付けられただけで、私は何も言えなくなる。
「こんな夜更けに俺と本を読むなんて、お姫様は許されるのですか」
ルークの『お姫様』という言葉に呼応する。
「『お姫様』には許されないです。私、今日初めて、『お姫様』としてのお約束を破ってしまいました」
「約束ですか」
ルークはじっと私を見つめる。何を思っているのか考えているのか、よくわからないわ。
「はい。
夜寝る時間は九時です。朝は七時に起きます。
目覚めたら、メイドを呼んで、数着あるドレスから一着を選びます。その後、髪飾りも選びます。
いつも迷って選ぶのですけど、組み合わせは決まっています。そのドレスと髪飾りの組み合わせを喜びもします。ドレスの色と髪飾りの色は同じ。いつも決まっているのにです。
執事を呼んで、朝食を食べ、今日の予定を確認します。図書室へ行くか、部屋にいるか、お兄さまに会いに行くか。どれかです。それでも毎日決まったことを嬉しそうに受け止めます。
お昼には用事は終わります。お昼ご飯を食べて、あとは本を読んで過ごします。許される時には午後も図書室に行きます。その後は夕ご飯を食べて、お風呂に入って、髪を乾かして、定時に寝ます。
『お姫様』の一日は決まっています。何をして、何を喜び、何を楽しむのか。決まっているのです」
「すげえな」
ルークがつぶやき、唾を飲み込む。彼は何をそんなに驚いているの。
「午後の図書室に、今日はあなたがいました。
あなたは、私に名前を聞かれました。
私が『お姫様』ですと名乗ったにもかかわらずです。
私に名前をたずねたのが、あなたが初めてだったものですから。
私、どうしてもあなたに会いたくなって……。
『お姫様』としてはあるまじきことをしてしまいました」
ルークはうつむき、髪をかきむしる。
そして、また顔を上げた。
見つめる目は変わらず私を映しているように見えた。
「あなたには、俺の身の上話なんて興味ないだろうけど。
俺は、それなりに狂った世界を見てきたと思っていたんだ」
ぽつりぽつりと話し始める。
「母は繁華街で働いていて、俺も手伝いをしていた。
客に出すお酒を用意したり、つまみを盛るようなこともする。
賄いを作ることもあれば、酔いつぶれた女性を介抱することもあった。
雑用も必要なんで、小間使いとして便利に使われていた。
大人たちの喧騒の間を、息を潜めて、うかがいながら、泳ぐように生きてきたんだ」
私の知らない世界だわ。本を膝にのせたまま、彼の言葉に耳を傾ける。
「丁寧な言葉の使いどころ、乱暴な言葉の使いどころ。
愛想笑い、媚の売り方。逃げ方、騙し方。脅し方。大人の手本は色々見てきたつもりだった。
男の愚かさも、女の愚かさも、それなりに見てきたと思った。
十三年しか生きてないが、年の割に大人だとも自負していたよ」
ルークの手が伸びて、本に添えられた私の手に触れる。
「俺は今、上には上がいるもんだって見せつけられているよ。
この屋敷は、こんなに整って美しいのに、歪んでいる」
彼の顔が近づいてくる。私は、彼の瞳に映る私を見つめ続けた。
「あなた、狂っているな」
狂ってる? 言われている言葉の意味がわからないわ。
「狂った女を心酔する男を、なんて愚かなんだと見てきたつもりだったんだが……」
私の目の前に近づき、膝が触れるほど近くなった。
彼の手が私の手を握る。
「歳はいくつだ」
「九歳です」
「九年も、名前が無かったのか」
ルークが信じられないとばかりに目を見開いている。
その目が一度閉じられた。
瞳から私が消えて、心細い。
再び開かれた瞳が私を映すと、彼は言った。
「俺が名前をつけてやろうか」
ルークが私の持ってきた本に視線を落とす。
「この本には、お姫様や王子様が出てくるのか」
「はい。あなたと同じ名の王子様が出てきます。
私の、すごく好きな本です」
「この話のお姫様の名は」
「クレアというお姫様が出てきます」
「じゃあ、クレア。俺はこれから、君をクレアと呼ぶよ」
「では、あなたがルークで、私がクレアですね」
私は生まれて初めて名前をもらった。
初めて男の人からもらうプレゼントが、まさか名前になるなんて思いもよらなかったわ。