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5,ルーク:泥沼に妖精

 お姫様の手を借りて、あてがわれた部屋へと戻った。

 胸に激痛が走る。息苦しい。痛みに汗が噴き出てくる。

 胸元を抑え、這うようにベッド近くまで転がっていく。サイドテーブルに置かれた水差しを目指した。透明な液体には薬が含まれている。ガラスのコップに注ぎ入れ、一気に飲み干した。

 じきに痛みが消えていくだろう。

 ベッドの上にあおむけに寝転がる。

 深い呼吸を繰り返し、痛みが逃げるように促した。


 この屋敷に連れられてきた翌日、朝飯抜きで早々に手術を受けた。俺に知る権利はないと言わんばかりに、粛々と行われ説明一つない。目覚めれば夕方になっており、胸に小さな傷ができていた。

 経過を観察するという若い男から、過ごし方や痛みが出た時の対応の説明を聞いた。

 部屋で大人しくしてくれればいいと言われたので、本があれば逃げ出さないと約束する。この屋敷の関係者にしては善良な若い男は、図書室の横を俺の部屋になるように計らってくれた。部屋と図書室の往復。俺に許されたのはその行動範囲だった。

 部屋の鍵も外されていた。逃げないと踏んでいるのか、逃げても無駄というメッセージなのか。馬鹿にされていると思うより、深く重く暗いものにからみとられたと突きつけられる。

 薬がなければ抑えられない痛みを抱えての逃亡は、倒れてのたうち回る想像しか浮かばない。

 それに、逃げる気にならない理由はもう一つある。

 ルーク・レッドグレイヴ。俺をさらった男が言ったのは、父方の性だ。

 俺の身辺どこまで調べたのか。

 今、俺が名乗れるのは、ルーク・ハント。母方の性である。

 父にとって俺は若気の至りで駆け落ちし生まれた息子だ。俺が三歳になる前に実家へ戻された父の事はよく知らない。実質、俺と母は捨てられている。

 数年前に一度父と会ったもののそれっきりだ。繁華街で一人息子を育てていた母は半年前に死んだ。父を頼ればよかったのかもしれないが、縁の切れた相手の懐に飛び込みたくはなかった。

 結局、慣れた繁華街の路地裏で孤児になる道を選んだのだ。

 俺を調べたなら、ルーク・ハントの名前しか出ないはずだ。父は認知していない。

 どこまで調べたんだ。どこをどう調べた。今更、父方の性を出してきた意図はなんだ。


 それだけじゃない。この屋敷はおかしい。

 一見非の打ちどころもないほど美しいのに何かが狂っている。


『お姫様』ってなんだよ。名前がない。しかも、名前がないことに疑問さえ抱いていない。

 名前を問うた俺の方がおかしいのではないかと錯覚しそうだった。

 

 お姫様だけでない、ここの女主人こそまさに象徴。あれが彼女の母親と仮定したら、娘に名前をつけていないということだ。王子様とお姫様がいて、あの女が主人としたら、彼女が王妃ということになる。この国のお妃様とお姫様があんなのなんてありえるのだろうか。どこかの金持ちのお遊びか、ままごとか。それにしては、浮世離れしすぎている。

 俺の隠された名を調べ上げ、あんな手練れをよこしてまで捕まえた意図はなんだ。いとも簡単に意味の分からない手術をしてのける屋敷をやすやすと用意できるものだろうか。

 ままごとと考えるにはそろいすぎている。


「わっかんねえ。

 本当に、なにもわかんねえ」

 こんな意味不明な事象に巻き込まれて逃げる気も起きない。喉元に残る薄い傷が警告する。逃げる選択をしても、逃げざるを選択しても、先をたどってみれば死あるのみだと。

 胸の鈍痛は徐々に引いてきたものの、痛みに耐えた疲れに根負けし、俺はそのまま寝入ってしまった。


           ☆


 目が覚めたら、夜中だった。あのまま寝続け、眠りすぎて目覚めたという感じか。

 どさっと仰向けに寝てしまった記憶しかないのだが、布団にはきちんと入っていた。入れてくれたのは、例の若い男だろうか。

 夕食を食べ損ね、お腹がぐうと鳴った。ベッドのサイドテーブルに果物とパンにミルクが用意されていた。ありがたいと身を起こす。ミルクが入ったコップを手に取った。それを飲み干す。


 もぞもぞとベッドの端から布団が盛り上がっていくのが目に入った。コップを置き、口の端についたミルクをぬぐいながら、身構える。布団の中でうごめく物体が、ぎこちない動きで近づいてくる。

 一体なんだ、こんな夜中に他人のベッドには入り込むのは、屋敷で飼われているペットか。


 俺のそばまできたかたまりが、布団の端を確認するような動きを見せる。ふいに出てきたのは子どもの手だった。左右に動き、あたりを探るしぐさを見せる。俺は布団の端をつかむと、ばっと押し広げた。

 布団の中から現れたのは、一冊の本を胸に抱いたお姫様だった。

 頭が真っ白になった。これで大型犬でも出てきたなら、そんなもんかと思っただろう。

 現れたのが、昼間図書室で会ったお姫様というのは想定外だった。


「あの」とお姫様が本を突き出す。「あなたと一緒に本を読みたくて」


 突拍子もないことを言う。浮世離れしすぎて、理解に苦しむ。

 俺はつくろうのも忘れ、呆れた。

 そして、妙に腹が立った。

 何も知らない世間知らずのお姫様と、彼女に何も教えていない大人たちへ。


「男の寝床に7歳を超えて入るなと教育はうけていないのか!」

 俺の怒鳴り声に、彼女は目をむいた。

 うっと喉が詰まる。泣き出すかと思った。

 それだけだった。

 彼女は泣きもせず、怒りもせず、おびえもしなかった。


「何かおかしいかしら」

 あどけなく首をかしげると、本を抱え座り込んだ。

 正真正銘の『お姫様』なのか。深層の令嬢というのはこんな存在なのか。

 違うだろう。怒鳴り声に怯えない。男を恐れない。無邪気というには、警戒心が低すぎる。


「いや、いいんだ」

 俺の方がおかしくなりそうだ。

 俺も真正面から座り直し、彼女と向き合った。

 

 満面の笑みで、寝やすそうな柔らかい白いワンピースのような寝間着をきている。

 昼のように髪はまとめていない。

 柔らかい金色の髪が腰あたりまで緩やかに波打ち流れている。

 窓からさしはさむ月明かりに浮かぶは、さしずめ妖精。

 夜の世界に住む夜の蝶とは違う。

 無垢な妖精の皮をかぶった何かが佇んでいた。

 

 彼女とそのままひとしきり話をした。

 その後で、戯れに切り出した。

「俺が名前をつけてやろうか」

 この屋敷に隠された美しい泥沼に俺ははまり込んだ。

 

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