4,クレア:図書室の出会い
三日後、やっと部屋から出れたので早速図書室へ行くと、テーブル席に男の子が座って本を開いていた。彼が、先日正門をくぐってきた男の子であるとすぐ分かったわ。頬杖をついて、どこかつまらなそうに、淡々と一ページ一ページ開き続けているの。
近づくと、彼も私に気づいてこちらを向いた。
髪も瞳も焦げ茶色で特に目立つ色ではなかったけど、瞳が鋭くてドキッとした。
なんと声をかけていいかわからなくて、しどろもどろの末に出たのが、「あなたは王子様ですか」だったものだから、私の方が口元に手を寄せて、しまったと顔面に現れていたに違いなかったでしょう。
でも彼はにっこり笑って、「いいえ」と否定したの。
「俺は王子様ではありません」
優し気な声音にほっとしたわ。
不思議だわ。ならどうしてここにいるのかしら。
私は首をかしいだ。
「ではあなたは、どなた。
メイドでも、執事でもないのでしょう」
彼が手元の本をぱたんと閉じて、私の方に向き直る。
まっすくな目線に、ドキドキした。
私はお兄さま以外の男の子だけでなく、お兄さまと私以外の子どもと会うのも初めて。彼が何者なのか、どうしてここにいるのか、知りたいことばかり頭をめぐる。
「執事やメイドという立場でも、王子様というような大層な身分もありません。
数か月、ここで過ごすように言われました。
ただ過ごすだけで、やることもないものですから、本を読んでいます。ただそれだけです」
ますますわからないわ。王子様ではないのなら、騎士であったり、貴族のご子息とかかしら。
考えあぐねていると、彼は苦笑して、
「こういう時は、はじめまして、とあいさつしませんか。
僕とあなたは、ほぼ初対面なのですから」
ひどくまっとうなことを言った。
「そうね。でも、先日お会いしましたよね。ほら、私が二階で、あなたは入り口で……」
「ええ、でもあの時は挨拶はしていませんし。今日が初めて会ったものでしょう」
「確かに、そうね。そうよね」
うんうん、と私は胸にこぶしを添える。
「僕は、ルーク。ルーク・ハントと言います。あなたは」
二度、口の中で「ルーク」とつぶやいた。
本の中にそんな王子様の名前もあった。それは何度も読み返すようなとても大好きなお話。
教えてもらった名前を抱えて、私は彼を見つめた。
「私は、『お姫様』です」
「お姫様、ですか」
「はい」
彼のぎこちない笑顔。
いつもなら、私が『お姫様』であることに疑問を持つ人などいないのに。
私はおかしなことを言っているのかしら。
「では、お姫様のお名前はなんですか」
「ですから、私は『お姫様』です」
彼はさらに困った顔になる。
私は誰もが納得する、いつもの言葉が通じなくて返す言葉を失ってしまう。
これ以上なんと答えていいのかわからないわ。
「お姫様とは、尊称でしょう。名前とは違うものだと思うのです」
「そんしょう、とは」
「あなたの立場に対する呼び名ですね」
「立場と名前は違うのですか」
「お姫様でも通るとは思いますけど、名前とお姫様は別物ですよね」
「名前……ですか。
私は、ずっと私を『お姫様』と思ってましたし、誰もが私の事を『お姫様』と言います。
そう名乗り、そう呼ばれていたものですから、私は私のことを『お姫様』としか……」
私は口ごもった。
どうしましょう。これ以上なにを話せばいいのかわからないわ。
彼は神妙な顔をする。
「名前。ないんですか」
それはそんなに大きなことなのでしょうか。
「名前です。ないんですね」
誰もが当たり前のように『お姫様』と言うわ。
私が『お姫様』であることを不思議がる人も、驚く人も、誰もいない。
「それはおかしなことでしょうか」
すがるように訊く。
「私は、生まれてこの方、『お姫様』としか呼ばれたことがありません。
それは、おかしなことでしょうか」
ルークは天井を見つめて、片手を顎に当て、考えるようなしぐさをする。
「おかしいかどうかと言われても……。
ただ、名前は生まれた時に親とか家族がつけてくれるものなので。
ルークという名も、母がつけてくれてます。
あなたには、そんな名前を付けてくれる方はいらっしゃなかったのでしょうか……」
「名前とは、生まれた時につけられるのですか」
「たいていは、つけますね」
困ってしまいました。
私は、本当に生まれた時から『お姫様』です。
それ以外の名など聞いたこともありません。
すると、ルークが立ち上がった。
「すいません。部屋に戻らせてもらいます」
苦しそうに息を切らしている。
「どうかされましたか」
駆け寄って、腕に触れる。
「胸が苦しくて……」
ルークは胸あたりの衣服をぎゅと握りしめた。
「どうしましょう」
執事をよんだ方がいいかしら。私一人ではなにもできないわ。
「いいんです」
ルークの手が私の手に触れる。そっと腕から手が払われる。
「部屋は隣なので、戻ります」
よろよろと進み始めるルークの少し前に立ち手を差し出した。
「手をお貸してもよろしいでしょうか」
「ありがとうございます」
ルークが私の手を取って、歩き始めた。
「御心配には及びません。
寝てれば時期によくなります」
そう言い、ルークは図書室の隣にある自部屋へと入っていった。
彼が扉を閉めると私は一人。
不思議です。
今まで誰も私に名を聞くことはありませんでした。
彼が初めて名を聞き、私は答えられなかった。
ルークは生まれた時に名前は付けられると言いました。
なら、どうして私には名前がないのでしょう。
わからない。わからないわ。
『お姫様』が名前でないのなら、私の名前とは何なのでしょう。