3,ルーク:屋敷の女主人
「大人しくついてくるなら何もしない」
そう言った男の大きな背を追いかける。振り向きもしない。俺が逃げ出すと想定していないのだろうか。
ピリッと喉に痛みが走る。
冷徹な双眸が脳裏をよぎり、額に冷や汗が浮かぶ。中途半端に逃げるそぶりを見せたら、腕や足の一本折られても文句は言えない。想像を巡らせば、逃亡する気力が萎えてしまう。
僅かに切られた喉の傷は俺の首輪になっていた。
連れていかれたのは、幌馬車だった。後ろへ乗れと支持される。男は御者として乗り込んだ。
荷台に乗った俺に「そこの毛布にくるまって寝ていろ。腹が減っていれば、かごに入っているパンと果物は好きにしていい」そう言うなり、馬にムチ打ち馬車を走らせる。
かごに手を伸ばした。果物を手にし、かじりつく。シャリシャリとした歯ごたえ。甘い果汁が広がった。「うまい」果汁の多い、上等な果物だ。路地裏のゴミからあさる腐りかけとは違う。十分に熟れて、甘酸っぱい。果汁で喉を潤してから、パンをほおばった。
久しぶりに安心して腹いっぱい食べた。
夜はまだ長い、俺は毛布を引き寄せくるまった。
周囲を警戒せずに寝たのは何か月ぶりだろうか。
「起きろ」と声をかけられ目覚めた。「ついたぞ」
目をこすって、身を起こす。隙間から漏れる光がくっきりと線を描く。その光の元へと手を伸ばし幌をめくる。まぶしい陽光に目を細めた。
徐々に慣れゆく視界で周囲をうかがう。
そこはでかいお屋敷の正門前。石造りの壁に大ぶりの窓が等間隔に並ぶ左右対称な均整のとれた正真正銘のお屋敷だ。
見渡せば広い庭。青々とした芝生が続き、向こうには多種類の花が咲き乱れる庭園もある。
繁華街からどこをどうやって走れば、こんな別世界にたどり着くんだ。
あっけにとられて、舗装された石畳におり立った。
長剣を腰に差す男に誘われるまま、正門へと向かう。男が扉が開くと、目の前に大階段。一階のフロアには調度品や絵画が飾られ、磨き上げられた床が奥まで広がっていた。そこここに芸術的な装飾が施されている。
二階へと延びる大階段は緩やかで幅広く、柔らかそうな絨毯がひかれ、二階まで突き抜けることで天井を一層高く魅せている。来訪者にさりげなく権威を誇示しているかのようだ。
その階段上に女の子がいた。淡い若草色のドレスをまとい、柔らかそうな長い金髪をゆるくまとめ、髪留めで後ろでとめている。
正面の扉をが開いたことに気づき、こちらを向いていた。
目が合った。瞳の色は翡翠。
まるで本の挿絵にでものっていそうな麗しい女の子。彼女がまるで珍しいものでも見るようにこちらを見つめる。
豪奢な屋敷内に見劣りしない美しいお姫様なんて、まるでおとぎ話の世界だな。
俺も彼女から目をそらせないでいたら、男に声をかけられた。
「こっちへこい」
男が左手に進み始めた。
俺は慌てて彼の後を追う。
「あの子は……」
二階から覗くように俺らを見つめ続ける彼女が気になる。
「あれは、ただのお姫様だ」
そう言うと、駆け足でないと追っていけない速さで男が進み始めた。
ぼろを着た孤児である俺は、男の手からメイドに渡された。
彼女は俺の身なりに驚くものの、またたくまに無表情なまじめな顔に戻ると、与えられていた仕事を遂行し始める。
俺は服を脱がされ、浴室へとほおりこまれた。そのメイドが服を着たまま腕をまくり入ってくるなり、石鹸をつかみ泡立てる。あれよあれよとその泡で頭から足の先まで白い泡に包んでいく。俺は慌てて股間を両手で隠すも、そんな子どもの一物など気にしない、きっちりと仕事をこなすメイドに、毛先から足先まで洗われた。
石鹸を洗い流すと、お湯が張られた湯船につかるように指示される。俺は手際の良い仕事ぶりに気おされたまま、お湯につかった。
こぎれいにされすっきりしたのとは裏腹に、何とも言えない敗北感に襲われる。
風呂から上がるように指示された。
これ以上抵抗しても仕方ない。牙を抜かれた野良猫の気分だ。観念しきった俺は素直にメイドに応じる。彼女はなれた手つきで俺に服を着せる。
貴族の子弟が着るような衣装だった。
一体何なんだ。
自分の処遇の意味が分からない。
路地裏の孤児のままではいけないにしろ、これだけ良い服を着せられる理由が思いつかなかった。
メイドが大ぶりのタオルで髪に残った水滴をふき取る。大粒のしずくをぬぐい切りタオルを置くと、両手を俺の頭にかざした。生暖かい風が手から噴き出す。
さすがお屋敷のメイド。魔法も使えるのか。
俺の髪は彼女の温度調節された風魔法で乾かされ、くしで整えられた。鏡を見ると、焦げ茶色の髪には艶が出て、貴族の子弟のようななりをした俺が立っていた。
「これから奥様の元へまいります」
メイドはそう言った。
奥様。ということは、これから俺が合うのは、この屋敷の女主人か。
メイドに連れられ移動する。
広い屋敷をどこへ向かっているのか、分からなくなった。
通されたのは、華美なソファーとローテーブルを中心に、豪華な調度品が並んでいる小ぶりな応接室だった。
座るように促される。俺は長いソファーに腰掛けた。メイドは一礼して去って行った。
俺は一人残されてる。逃げ出そうかと考えたものの、よこしまな思考を邪魔するように、首に刻まれた傷がうずいた。
ほどなくして、再び扉が開く。
現れたのは小柄な女性だった。細かな刺繍の刻まれたドレスをまとう。ドレス生地と刺繍の糸が同色なんて、分かる奴だけ分かればいいという高価な品だ。夜の女が着る見せかけばかり派手なドレスとは違う種類のもの。
さっきの女の子は娘だろうか。髪色と瞳の色が同じ。
彼女の母親というには、若い気もした。姉と言われても納得する。
俺の上から下まで値踏みする視線が冷たい。この女の目には俺は人間とうつっていないとひしひしと伝わってくる。
だろうな。身寄りのない孤児を探していたってことは、初めから俺の命も含めて保証はないだろう。
女は開口一番言った。
「あなたは王子のために手術を受けてもらいます。
栄誉なことです。
天に召されても、誇るとよいでしょう」
最悪だ。豚以上に、理解の及ばない人種かよ。