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10,ルーク:六年後

「イアンさん、俺もう行くんで、朝ご飯食べといてください」

 玄関で、靴を履きながら俺は家の奥に向かって叫んだ。

「いってらっしゃい。ルーク」

 辛うじて生きている程度のか細く眠たい声が返ってくる。

「今日、試験なんで遅くなります。夜はローマンと食べてきますんで、後は勝手にしといてください」

 返事を待たず俺は家を飛び出した。


 アパートメント五階の一室に俺は例のお屋敷から一緒に逃亡したイアン・フォックスと同居している。彼が俺の保護者となり、三度目の改姓にて俺の名はルーク・フォックスに変わった。生活力も頼りがいもない世話の焼ける兄のような男と同居する生活も今年で六年目になる。


 階段を駆け下りる。三階に住む同級生、ローマン・オベットの家に向かう。三階につくと、ちょうど彼が家から出るところだった。

「ローマン、おはよう」

 慌てて現れた俺に、癖のある濃紺の髪をゆらすローマンがあきれ顔を向ける。

「ルークはいつもあわただしいな」

 ローマンの隣に立つ。彼は俺より少し背が低い。

「どうしても、朝は忙しいんだ」

 家事の一切を任せられないイアンとの同居である。繁華街の裏方で鍛えた雑用力を持って家事を担当しつつ学業を両立する生活になれば、朝は戦場としか言いようがない。


 ローマンの家の扉からひょっこりと女性が顔を出した。

「私にすべてを任せているあなたが何を言えるの」ローマンの母、ジーンだ。「お医者様のイアンさんがお忙しいなか、ルークは家事を一切取り仕切っているのですよ」

 若い母親が息子の額を小突く。仲の良い親子だ。数年前はもっと仲がよかった。今は嫌そうに目を細める。十七歳にもなれば、母親と人前でじゃれ合うのは居心地が悪いのだろう。

「できることをしているだけですよ」

 俺がほほ笑んで答えると、ジーンは俺の方を向く。彼女が自身の頬に手を添える。

「ルークは、ほんとしっかりしているわね」


「母さん、俺の同級生だよ。いい加減にしてよ」

 苦々しい表情のローマンが母を睨む。

「あら、いいじゃない。ルークは、ローマンよりずっと大人よ。家事もできて、料理もできて、学業も優秀。今日だってあなたと貴族クラスの編入試験を受けるんでしょ。二人とも優秀ですごいわ」

 息子の感情の機微など気にもしない。無邪気なように見えて、結構癖があるんだよな。

「ジーンさん、俺を褒めても何も出せませんよ」

 親友の母にあまり愛想振り向くのもね。俺は苦笑いを浮かべ、困った顔をする。


「ルーク、つまんない話なんかしてたら時間がなくなるよ」

 ローマンが俺の首根っこをつかみ、引きずるように歩き出す。

「いってらっしゃい。またイアンさんがお忙しい時は、ご飯食べに来てね。ルーク」

「はい。ありがとうございます」

 俺は軽く手を振り、引きずるローマンと一緒に歩き出した。


 道へ出ると、いら立つローマンに睨まれる。

「まったく、お前のその誰にでも愛想良いのなんとかなんないの」

「そうか。俺は何もしてないぞ」

 自覚がないわけではないのだが、繁華街で身についた処世術が染みついてなかなか普通の男子らしくするのが難しい。そう、もっと女の子に夢見て、声をかけるのもたどたどしくなるような純粋さはもう十年近く前に無下に捨てられている。


「ハンカチを取ってもらった。勉強を教えてもらった。階段で立ち往生していたら、荷物を持ってくれた。困っているおばあさんの荷物を持ってあげていた。雨が降ってたら傘を貸してくれた。野良猫にミルクをあげてただの。本当か嘘なのかもわかんないような理由がどうしてこうわんさと出てくるんだ。

 ほんと、ちっさいことで女子がなびくよな。そのたびに言伝とかいろいろ頼まれるの俺なんだぞ」

 ふんと、そっぽを向いて、ローマンが早足で歩きだす。

 こういう態度と物言いの時は何かある。俺に言いにくいことでも頼まれたんだろうな。


「ローマン。いつも悪いな。また迷惑かけたか」

 申し訳ない気持ちがあるのはうそではない。俺に直接話しにくいからか、この人当たりがよく善良な親友に周囲の声が集まりやすいことはよく知っている。頼りやすく人の中心に立ちやすいと言えば、本当に器が大きいのはローマンだろと伝えたくなる。どこがと一蹴されそうなので言わないものの、文句を垂れ自覚がないのも彼の良さだ。


「今日の夕飯食べに行く約束、昨日の帰り際無理やりしたろ」

 こちらにちらりと向けたローマンの恨みがましい目が答えだろう。

「ああ。あれね」

 たぶん、女子がからむな。

「お前の送別会したいって聞かない女子達が来るんだよ」

 そういうことか。

「悪いな。まともに頼んだら断るもんな、俺」

「そうだよ。板挟みになる俺の立場も考えてくれよ。

 これで最後だと相手も背水の陣だぞ、不良に囲まれるより怖いんだよ。マジで」

 まじめすぎて、逃げきれない状況がひしひしと伝わってくる。

 それなりに良い家庭環境で育った女の子たちの恐れを知らない押しの強さに飲まれてしまう親友の不器用さが面白い。

 ふふっと笑ってしまう。


「いいさ。今回は、イアンにもそう言って出てきてるから、問題ないよ」

 ローマンがほっとしたように息をつき、つぶやいた。

「いい加減、誰かと付き合えばいいのに」

 俺は遠くを見つめ、瞼を閉じた。

「いやあ、俺はまだ生活と学業だけで精一杯だよ」

 そう言って目を閉じる。瞼の裏に浮かぶ女の子はいつも決まって、本を抱えてはにかんで笑う。

 幼子の姿しか浮かばない子にいつまでも後ろ髪ひかれるのも、そろそろ考えものだろうか。


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