誕生日プレゼント
裕子は、うるう年の二月二十九日生まれだ。彼女によると、母は、可哀相だから世間一般の慣習に従い三月一日で届けようと主張したが、父親がきちんと本当の誕生日で登録すべきだと言い、世にも珍しい二月二十九日生まれとなった。
二月二十九日生まれだと、うるう年以外は誕生日が存在しないが、法律上は、三月一日の霊時丁度に、歳を取るらしい。
誕生会は、幼稚園に入るまでは、法律上の歳を取る日として、三月一日に行っていたそうだが、小学校や幼稚園では、誕生月の子供を祝う決まりだったので、途中から、二月末日に、誕生会を行う様になったと言う。
つまり、月末の今日が彼女の誕生日だ。
だが、年齢が年齢なので、声をかけづらい。「五十八歳、おめでとう」なんて言えば、彼女は怒り出しそうな気もする。かといって、誕生日をきちんと認識しているよとアピールしないと、機嫌を損なうのも必至だ。女性の扱いは、本当に悩ましい。
それに、プレゼントも頭が痛い。
本日の二十三時五十九分に、婚約指輪を渡して、プロポーズのプレゼントをするつもりだが、それまでに、何も渡さないのも不自然だ。
一応、それまでの場繋ぎを用意はしたが、うまく行くかはわからない。
「お早う。実は、三月末締め切りの原稿を書いてみたんだ。また校閲してくれないか」
「良いけど、御免。今日は、あなたの職場を見せるために、早く帰って来なくちゃならないから、会社で読む時間がとれないの。後でもいい?」
「いいよ。いつでも」 やはり、上手くはいかないものだ。
「そういうことで、私は今から仕事に行くから……。五時には帰って来る」
そう言ってから、私に何時もの様にハグして、今日は一時間も早く、出勤していった。
テーブルの上に、私が徹夜で書き上げた原稿の束を、そのまま置き去りして……。
因みに、裕子は、『ビーナスライフ』というフィットネスクラブの社長をしているので、時間は自由になるのだ。
そして、この日は四時過ぎに帰宅し、早速、裕子の車に同乗して、四月から開業する便利屋『昴』の事務所を見学に行った。
今日で契約が切れ、昨日、全ての搬出作業が終わったと言う話だ。
石神井公園駅から徒歩二分の駅前商店街の五階建て商業ビルの三階がその場所だ。
一階は、酒屋になっていて、ここだけは元々建っていた店の権利だそうだが、一階横のビル入り口部分と、二階から五階までの全ての事務所が彼女の所有だ。
こんな駅前の一等地の商業ビルを持っている事態が驚きだが、裕子の前夫の徹真の両親が、三十三年前に建てて、結婚祝いにプレゼントしてもらったものらしい。当初は、この五階フロアを居住スペースにして、二階で歯科医を開業していたそうだ。
徹真さんが亡くなった時も、このビルを売却すれば、借金生活なんてしなくても良かったのに、新婚生活した想い出のビルだからと、神谷邸も駅ビルも売らず、多額な借金を負う人生を選択をした。
お蔭で、今は裕子の莫大な賃貸収入になり、私も賃貸料なして、このビルの一角で、便利屋稼業をすることが出来る。
小さなエレベータで三階に上がると、三つの事務所に分割されている。その突き当りにある一番広い二十四畳程のスペースが、便利屋『昴』の事務所になる。
「何もないと、すごく広いな」
「十八畳でも十分だと思うけど、丁度、ここが空いたの」
裕子はそう言うと、手を大きく開いて、くるっとその広いスペースの真ん中で回転した。
バレイのピボットターンとは違うが、綺麗なスピンターンだ。
彼女の肩書きには、社交ダンス協会広報委員というのもあって、社交ダンスも得意としている。
「で、いくらにするか決めた? 依頼料」
以前、一律五万円と応えたら、「あなたは素人なのだから、相場よりも安いお手軽価格にしなければダメ」と文句を言って来て、喧嘩になった。
「うん、どんな仕事も一律三万円と、必要経費にすることにした。必要経費なら、いろんな価格差も対応できるだろう」
裕子の言うように、仕事に応じて、価格を変える事も考えたが、そうすると、お助け本舗の様な簡単な雑用仕事が舞い込んでくる事になる。出来る事なら何でもする便利屋を目指すが、誰にでもできる仕事をしたい訳じゃない。私にしかできない仕事に制限したいのだ。そのために、一律三万円は譲れない。
「三万円じゃ、誰も来ないわよ」 やはり、また文句を言って来た。
「君は、自分にお手伝いさんをやれっていうの? 依頼料三万円プラス必要経費。これ以上は譲れない」
「分った。貴方に任せるっていたんだから、それで良いわ。でも、最低月十五万円は稼いで下さい。この部屋の賃貸料は二十五万円だったのだから、それぐらい入れてもらわないと……」
賃貸料なしなら、電気代、光熱費、電話代等もろもろ込みで十五万円。私の賃金を十五万円として、月十件の依頼で、元が取れる計算だった。だが、更に十五万円必要となると、十五件の依頼を熟さないとならない。これはかなり厳しい売り上げ目標だ。
そんな話は聞いていないと、文句を言いたかったが、オーナーとしては尤もな意見だし、今日は何より裕子の誕生日だ。私はぐっと言葉を飲み込んだ。
その後、自宅に戻り、彼女にこの便利屋昴のホームページ案を見てもらった。
会心の出来と自負していたが、いつものように彼女は、何点かケチをつけ、そこを直せば、だいたいこれでいいと承認してくれた。社長は彼女なので文句はいえない。
そして、改めて、今朝渡した原稿を彼女に渡した。
渋々読み始めたが、直ぐに、その内容に気づいたみたいで、夢中になって読み進めている。
そう、これは私と裕子が結婚するまでを描いた私小説なのだ。私の裕子への思いの全てが、ここに書いてある。
「ちょっと、部屋で読んでくる」
そう言う彼女の目が、潤んでいたを、私は見逃さなかった。
よし、上出来だ。これで、深夜までの時間稼ぎができる。
私は、裕子がいなくなると、ガッツポーズしていた。