珍さん
「深海魚ってすげぇよな、こんなのが陸上をぷよぷよ浮いてたら、僕はびっくりだぜ!」
「ええ。海老やカニも陸上の生物だったら誰も口にしなかったでしょうね」
桜はアンコウの入った水槽に顔を近づけながら、カニの話をする。
「そうだ。私、見てみたい魚がいるの。ほら、あの、向日葵見たいなやつよ」
向日葵見たいな魚? そんなのいただろうか。
グッピーではないだろうし……。
「もしかして、ちんあなご?」
「そう。それよ! 珍穴子」
漢字読みした時、若干の卑猥さを感じてしまうのは、僕の感性がまだ中学生止まりだからだろうか。
「それにしても、ヒマワリとチンアナゴ同列に語る感性はなかなか珍しいんじゃないか?」
「私の脳が珍穴子ってこと?」
「全然上手くねぇよ!」
太陽を向いて咲く向日葵と、群れ全体が同じ方向を向くとされるチンアナゴ。
近しいようで、若干ニュアンスもズレている。
僕はクスリと笑いながら、館内を進んでいく。
「ぐすっ……」
あれ、女の子が泣いてる。
迷子だろうか。
5歳くらいの女の子がキョロキョロとしながら不安げに、道行く大人達の顔を見ている。
僕はその子に近付いてその場にしゃがみ込むと、そのまま声を掛けた。
「お菓子あげるから付いてきなよ」
──でしっ
「痛っ!? 何すんだよ、桜」
「どう考えても、言動が誘拐犯でしょ!?」
「違っ! 僕は汚れなき少女の瞳から零れる雫を拭ってやろうと……」
「黙ってて。……ごめんね。怖かったよね。今日はママと来たのかな?」
「ママは男作って出てった……」
ガッツリ地雷を踏んだ桜は縋るようにして僕に視線を向ける。
諦めるの早過ぎ。
「お名前を教えて貰ってもいいかな?」
「……知らない人と話すなって言われてる」
なるほど。そう来たか。
「とりあえず、入口に戻ろうか。もしかしたら館内放送があるかもしれないし」
正直、水族館で館内放送を流せるとは思えないけれど、さっきアザラシのショーを見た時、お姉さんが音の通るマイクを持っていたので、呼びかけくらいはできると思う。
「さあ、お姉ちゃんと手を繋いで」
またロリコン扱いされても困るので、僕はノータッチ。
入口まで一緒に向かい、係員さんに預ける。
「いい事したなぁー、一日一善ってやつ?」
僕達は今度こそ、チンアナゴの元へ向かう。
「湊は善人なのかしらね」
「え?」
「昔も、虐められてた私をいつも庇ってくれてたでしょ? それで矛先が自分に向いても、私に対する態度が変わったことはなかったじゃない?」
「そうだな。僕はきっと善人なんだと思うよ」
「……自分で言われるとそれは、それで嫌な感じね」
「でも、そこに同情や打算なんてものが一切ないって考えると、善人の本質は存外冷たい奴なのかもしれないな」
「ふーん」
桜は水槽から目を離さないまま、興味なさげに僕の話を聞く。
僕だって、自分のことになんて興味はないけれど、話を振っといてその態度はひどくないか?
「私には、見返りくらい求めてもよかったのに……」
ボソリと呟いた桜の言葉の真意を読み取ることはできなかった。
でもな、桜。君が思ってる以上に、僕は桜からたくさんのものをもらってるんだぜ?
その事に、君はきっと、気付かないだろうけど。
「なによ。私じゃなくて、水槽を見なさいよ」
「ああ、ごめん」
その後、あっち向いたりこっち向いたりしながら揺れるチンアナゴを見てから、水族館を出た。
時刻は13時半。
昼食と軽いショッピング。からの映画。
ホラー映画マニアの桜に合わせた結果、終始悲鳴を上げた僕だったが、途中桜がそっと手を握ってくれたお陰で何とか耐えた。ちょっと男らしかった。
「夕飯は食べてから帰る?」
「んー。今日はいいかな。母さんの分も作らないとだし」
「そう。じゃあ、そろそろ帰ろうかしら」
時刻は18時を回った頃。
家に着く頃には7時前か。ちょうどいい頃合かもしれない。
「ありがとうな、桜。今日すげー楽しかったよ。誰かと出掛けるってのも、案外良いかもしれないな」
久しぶりにはしゃいだような気がする。
こんな楽しい週末なら、1ヶ月に1回あってもいいかもしれない。
さすがに毎週だと疲れちゃうだろうけど。
「……? ねぇ、湊。何やりきった顔してるのよ。週末はまだ半分しか過ぎてないでしょ?」
「……へ?」
「湊は今日、ウチに泊まるの。柊と椛にもそう話したわ」
「え? 聞いてないけど?」
「はて、言ってなかったかしら」
待て待て。さすがにハードスケジュール過ぎるだろう。
最近のJKは日中遊び尽くした後にお泊まり会までするのか? しかもその文脈だと、明日も一日遊び倒すみたいな感じになってるし。たくまし過ぎるだろ。
「日曜って、厳密に言うと週初めだと思うんだけど……」
「そう。嫌なら別にいいわよ。……椛、楽しみにしてたのになぁ」
やめろ。ここぞとばかりに妹の名前を使うな。
罪悪感が沸くだろうが。
「柊なんて、部活をサボろうとしてたのよ?」
「それはダメだろう!」
「ちなみに、おばさんとママは隅田家でオールで酒盛りをするつもりだったらしいわ」
「どうして僕の知らない僕の予定に沿ってみんなが行動してるの!?」
「ちょっ。駅で大きな声出さないでよ。私達が友達だと思われたらどうするのよ」
それすらも嫌なのかよ。
さすがにちょっとショックを隠しきれないぞ。
「だって、今日だけ、私と湊は……」
桜が何かを言いかけた時、向こうから小走りで駆け寄ってくる見慣れた少女の姿が目に映った。
「湊にぃ、 やっほ」
「ちっ」
駆け寄って来たのは桜の妹である柊だ。
桜、お前、妹の登場で舌打ちすんなよ。
「部活お疲れ様」
「うん。ありがと。……あっ、汗かいてるからあんまり近づかないで欲しい」
ぴょこんと跳ねて距離をとる柊。
僕達は桜を間に挟む形で、3人並ぶ。
「ねぇ、柊。先に帰ってもいいわよ?」
「? どうして?」
「汗かいてるんでしょ? 先にお風呂入った方がいいわ」
「急いだところで、電車はお姉ちゃん達と同じ。それとも、私はお邪魔?」
うるうると瞳を揺らす柊。あざと可愛い。
桜にもこれがあれば──
「愛想が良くなくて悪かったわね」
「心を読まれただと!?」
「はぁ。仕方ないわね。三人で帰りましょう」
相変わらず、桜は妹に弱い。
そんな2人のやり取りが面白くて、軽くホッコリしていたのだけれど、そんな雰囲気は次の柊のひとことで崩れる事になる。
「そういえば、今日、告白された。──湊にぃを殴った先輩に」
桜は無表情のまま、ポケットから万年筆を取りだした。