お風呂は柊に任せました。
朝、学校に着いて真っ先に目に入ったのは、桜の左手だった。
桜は生徒会に入っており、昨日はたまたま朝の仕事がなかったようなので一緒に登校できたけれど、今日は案の定、一緒という訳にはいかなかった。
で、である。
いつものように先に席に着いて、左手で頬杖を突いた桜には明らかに普段と違う点が1つ。
長袖のワイシャツを七分まで捲った彼女のその左手には包帯が巻かれているのだ。
「おはよう、桜」
「えっ、ええ」
どうしたのだろう。
冷たさがいつもと違う。普段は僕を責める冷たさだが、今の彼女は避ける冷たさ。
もしかして──
「なぁ、桜、その左手なんだけど……」
「別に頬擦りなんてしてないわ。頬杖を突いていたのよ」
「……柊の彼氏だろ?」
「へっ?」
とぼけなくてもいい。
昨日桜と手を繋いだ時は異常なんてなかった。
だったら、桜が左手に包帯を巻いてる理由なんて、ひとつしかないじゃないか。
「昨日、先輩に告白されただろ?」
「よ、よく知ってるわね。何? アンタもしかして私のファンクラブに入ってるの? だったらやめときなさい。あれは非公式よ」
「違ぇよ! むしろそんな組織がある事にビックリだわ」
本当にあるんだな、そういうのって。
僕はそういうのから無縁な生き物だから気づかなかったけれど。というか、気づきたくなかったけれど。
「実は僕もあの先輩と少し話したんだ。──その時、揉めたんじゃないのか?」
あの先輩は僕の小言にすら耐えられずに暴力を振るってきた。
告白を断った桜の左手を怪我させるような事をしたとしてもおかしくない。
「別に揉めてはないわよ。2000円までなら奢るとかなんとか言いながら、食事に執拗く誘われたけれど、ちゃんと断ったわ」
多分、そのお金僕のです。
他人のお金でかっこつけようとするなよ。
「……らぎちゃんは、その告白と食事のお誘いについて、なんか言ってなかったか?」
「言ってないわよ。なんであの子が出てくるわけ?」
「なんでって、あの先輩、らぎちゃんの彼氏だろ?」
「は? 違うに決まってるでしょ? あんな脳筋デストロイヤーみたいな男を柊が選ぶはずないじゃない。あまり私の妹を侮辱しないで」
「!? 違うの?」
「違うわよ。あの子、男を見る目はあると思うわ」
マジかぁ。やらかした。
バチバチ柊の彼氏って態で話しちゃったよ。
うわぁ、そっかぁ。……よく話噛み合ってたな。
でも、そう考えるとまずいことになったな。
僕、柊はあの先輩にベタ惚れって言ったことが嘘になっちゃう。
失礼な態度も取っちゃったなぁ。
「アンタ、なんで柊の事話してる時の方が心配そうな顔してるわけ?」
「もしかしたら、結構面倒なことになったかもしれない」
というか、面倒な事を引き起こしてしまったかもしれない。
僕はスマホを取り出すと、昼休みに柊と会う約束を取り付ける。
「何かあったの?」
「ああ、実はさ──」
昨日の朝、僕と先輩との間にあったやり取りを桜に伝える。僕の恥ずかしい勘違いと一連のストーリーを。
一応僕にも男としてのプライドがあるので殴られたことは伏せたけれど、その他の事は一応全部話した。
「なんだ。だったら奢ってもらえばよかったわ。そうすれば、実質アンタに奢ってもらったのと変わらないわよね?」
うーん。どうなんだろ。
お金の回転って早いからなぁ。一概にそうとは言えないかもしれない。
「……それで? 昨日アンタが頬を腫らしていたのは、そいつのせいで間違いないのよね?」
バレとるがな。
「お、おい! 何をするつもりだ! と、とりあえず、その砂鉄を鞄に仕舞ってくれ」
桜の目の色が変わった。
茶色に近い彼女の瞳は瞳孔が開くと直ぐにわかる。
なんでこういうところだけ勘が鋭いんだよ……。
「砂鉄って物凄く便利なのよ? 目潰しには最適ね。磁石で回収すれば、例え失明したとしても証拠は残らないもの」
こいつ一歩間違えたら猟奇的犯罪者だな。
「殴られたことに関しては僕が悪かったって言うか、むしろ、殴らせたと言うか。とにかく、暴力はよくない」
「暴力はよくない? アンタ随分とぬるいことを言うようになったわね。私の知ってる隅田湊とは思えないわ」
「……人は変わるんだよ」
「マゾになったのかしら?」
「断じて違う!!!」
年上のお姉さんに虐められたいという願望もないではないけれど、基本的にはノーマルのはずだ。
「そうなの? アンタ、よく私と一緒にいられるわね」
「お前、自分の口の悪さ自覚してたのか!?」
だったら治してくれよ。
僕がこれまでどれだけ傷付いたと思ってるんだ……。
「善処します」
「期待できない返事だぁ……」
「ごっ、ごめ、ごめめめめめめめ」
深呼吸をした桜は謝罪の言葉を口にしようとした。
しかし、謝ることに対して重度の拒絶反応を起こした桜はガタガタと震えだす。
幼馴染の挙動にビックリする十六の朝だ。
「もういいよ、桜。別に僕だって謝らせたい訳じゃないから。──僕の方こそ、これまで避けたりして悪かったな」
僕はそう言って授業の準備を始める。
一限は数学。テスト前の復習だろう。
教科書と問題集、ノートを机の上に取り出す。
「……ごめんなさい。湊」
蚊の鳴くような声だった。
僕は準備の手を止めて桜の方を向く。
桜は前を向いたままこちらを見なかったが、ゆっくりと話し始めた。
「昨日一緒に登校して色々と考えたのよ。もしかしたら、私が見てる空の色と、あんたの見てる空は別の色なのかもしれない」
すごい詩的なことを言い出したなぁ。
全然要領が掴めない。
──ねえ湊。私は何を為して強くなったと言えるのかしら。
嗚呼、そうか。そういう事か。
その時、僕の中で全てが繋がった。
ブックマーク、評価、励みになってます。
今のところ少し話が重めですが、次回か次次回で第一章が終わります。
次のお話も是非よろしくお願いいたします。