前編
七海が石畳の道を歩いて、そのお店を見つけたのは、初めてではありませんでした。
お店の古い木の扉には、ただ『本屋』とだけ書かれたプレートが取りつけられていました。
七海はあたりを見わたしました。
石畳の先には色とりどりの屋根の家々や、いくつかお店らしいものが建っているものの、人の気配はありませんでした。みなしーんと静まり返って、眠っているかのようです。
ここは自分が想像している街だったなと七海は思い出しました。
本当にここにあるのは、本屋さんだけ。
七海は木の扉を押しました。
ちりんちりんと鈴の音が鳴ります。
「こんにちは」
七海は、奥へ向かって声をかけました。
室内はほこりっぽくて、紙やインクの匂いがただよってきました。
入口のすぐそばから、大きな棚がいくつもいくつも並んでいます。なかに入っているのは、すべて本です。
本。本。本。
たくさんの書物が行儀よく棚に収まっていました。七海の背の高さでは届かないところまで、ぎっしりと本です。
棚と棚の間にあるせまい通路をしばらく進むと、カウンターがあったはずです。
七海は本屋の店主さんに会おうと歩き出します。七海の足音が本棚の間にぱたぱたと響きました。
「わしのことはいいから、早く探しなさい」
奥から店主のおじいさんのおだやかな声が聞こえてきました。
遠くにおじいさんの白髪頭と小さな背中が見えました。おじいさんは、いつも猫背で眼鏡をかけていて、何かしら書き物をしているのです。
「はい、探します」
七海は大きな声で返事をすると、本棚の列を見まわしました。
ここに来たからには、自分の知りたいことがこのどこかにあるのでしょう。
この本屋が一体どのくらいの大きさなのか、七海は知りません。
入口はせまくても、進めば進むほど本棚は次々とあらわれ、ずっと奥へ奥へと続いています。どこまでも果てがないようでした。
これだけたくさんの本のなかから、自分の必要とすることを見つけ出すのは簡単なことではありません。
それでも、七海は探すと決めたからこそ、ここへやってきたのです。そうでなければ、行き着くことのできない場所だと、七海は知っていました。
七海は、本棚の一冊一冊の本と向かいあいます。
真剣でなければ、本もまた七海に中身を教えてはくれません。ぼんやりと手にとれば、真っ白な紙やにじんだインクがずっと続いていて、読めないのです。
自分の知りたいこと、自分の思いをしっかり心に持ち、何か知識や手がかりをさずけてほしいと願うのです。
いのりながら、七海は手にした本をぱらぱらとめくります。時には引っかかるページを感じとり、目をとめて読んだりします。
一つ一つ手に取り、じっくりと眺めては棚に戻し、眺めては棚に戻します。
けれど、なかなか自分の求めていることには出会いません。
七海はほうっと息をついて、手にしていた本をぱたんと閉じました。
ここへ来てから、一体どのくらい時間がたったのかわかりません。それでも、大きな本棚一つさえ探し終えていませんでした。
七海の背丈では届かない高さにある本も、確かめる必要があります。
七海は本棚の横にかくれていた木製の脚立を両手で持ちあげて、置きました。床にガタンと音が響きます。七海が足を乗せると小さくきしむ音がしましたが、安定しています。
七海の伸ばした手は、ちょうど棚の一番上の本に届きました。
その本棚のすべての本を手にしました。それでも見つかりませんでした。
脚立を降りた七海は、日がすっかり傾いていることに気がつきました。
「もう帰らなくちゃ」
思わずつぶやくと、奥から声がしました。
「また明日にでもおいで」
おじいさんの助言を、七海はありがたく受けることにしました。
「また明日」
本屋の扉を開くと、石畳の街並みはすっかり夕焼け色に染まっていました。
七海は石畳の街へ帰ってきました。
戻ってきて初めて、自分が本を探していることに気づきます。
この本屋がどこにあるのか七海は知りませんでした。どうやって来たのかもわかりません。
ただ、ここを以前から知っていて、思い出すのです。
七海はまた一つ一つ本を手に取り、心に願いを持ちながらぱらぱらとめくります。何度も何度も、くり返しました。
その日も、これといったものを見つけられないまま、石畳の街にオレンジ色の光が当たっていました。
次の日も、その次の日も。
七海は本屋にやってきて、本と向きあうのでした。
お母さんは、心配しています。
近ごろ、七海は学校から帰ってくると、元気がないままずっと家で過ごしているからです。
「何かあったの?」
たずねてみたこともいく度かあります。
「ううん、何もないよ」
七海の返事はいつも一緒でした。
少し前までは、学校から帰るなり、七海はランドセルを放り出して言ったものです。
「遊ぶ約束したから、行ってくるね」
何人かの友だちの名前を出して、七海は毎日のように遊びに出かけていました。
それがこのところ、誰の名前も口にせず、一人で家にいます。特に仲のよい二人の女の子の名前が出てこないのは、気がかりでした。
「友だちと何かあったのかしら」
お母さんは、きっとそうに違いないと思いました。
でも、七海が自分から言い出さないかぎり、急いで問いつめないようにしたいと考えていました。
七海も七海の友人たちもだんだんと大きくなっています。小さなころよりも、友だちとの関係も複雑になり、何かトラブルがあってもおかしくありません。
もうすぐ夏休みがやってきます。
この間まで休み中に友だちと遊ぶ計画を話していたのに、今は全くしません。
八月に入れば、七海の誕生日もやってきます。
昨年は仲のよい子数人を呼んで、小さなお誕生会をやりました。今のままではそれも難しそうです。
それでも、お母さんは、もう少しだけ様子をみてみようとしていました。
七海が自分から何か相談してきたり、急にひどく元気をなくしたら、迷わず手を差し伸べるつもりです。けれど、七海は自分で何か一生懸命考えようとしているみたいでした。
「ただいま」
七海が学校から帰ってきました。
背を丸めていて、あまり表情もなく、目に力がありません。
遊ぶ約束も口にしません。
お母さんは、そんな七海に提案しました。
「ね、今から一緒にポップコーン作ろうよ」
「ポップコーン? 食べるんじゃなくて?」
「もちろん食べるんだけど、コーンのつぶがはじける前のものを買ってきたのよ」
お母さんは、黄色いつぶのたくさん入った袋を七海にわたしました。
「これがはじけるの?」
七海は不思議そうに袋の中身を触っています。黄色いつぶはとても硬くて、ごつごつしています。ポップコーンのふわふわした感触とはかけ離れています。
これまで七海は、はじける前のつぶを見たことはありませんでした。
「見ててごらん」
お母さんは早速、フライパンに油を注いで、硬いコーンのつぶを入れると、ふたをしました。
七海はフライパンのそばに立って、ガラス製の透明なふたのなかを見ようと近寄りました。
じゅうじゅうと油の泡立つ音が聞こえます。こんがりとした匂いがしてきました。すると、ぽんと跳ねる音がしました。
「あっ、白くなった?」
七海はふたのなかをのぞきこみました。
やがて、ぽんぽんと跳ねる音が始まりました。黄色いつぶが次々と白く変わります。
つぶがはじけて白くふくらんでいるんだと、七海はやっとわかりました。
「おもしろいね」
七海はお母さんに笑いかけました。
お母さんはほっとして、やがてフライパンの火を止めました。
温度が下がると、ふたを開けます。黄色い硬いつぶは、みんな見事にはじけて、白いふわふわとしたポップコーンに変わっていました。
「わあ、すごい。何だか不思議」
七海の様子に、お母さんはにっこり笑ってうなずきます。
七海の好きなカレー味をつけて、ポップコーンのおやつは完成です。
「おいしい。おもしろかった」
食べ終わった七海は満足したようで、久しぶりに心からの笑顔を見せました。
お母さんは、もう少し七海を見守ろうと決めました。