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神ひらく物語―プレーナ編―  作者: 銀波蒼
プレーナ編
56/65

ホルカ

〔前回までのあらすじ)

聖地の崩壊により、プレーナがかつての姿を取り戻そうと暴走し、緑の雨が降り続ける。黒装束の民を引き連れてセーカに向かって砂漠を移動していたヒラクとヴェルダの御使いは、聖地と関わり深いプレーナの一部であることから、プレーナそのもに取り込まれようとしていた。現在と過去が交錯するプレーナの中に閉じ込められたヒラク。そんなヒラクに自分の記憶の中に入るようヴェルダの御使いは言う。記憶の中の聖堂の扉から外に出るようにと。そしてヒラクはヴェルダの御使いの記憶の中に入り込む。

 気がつくと、ヒラクは見覚えのある中庭にいた。

 ヒラクではない誰かの中に入り込み、泉のそばに立って何かを待っている。


(そうか……。おれ、今、あの人の記憶の中に入ってるんだ)


 ヒラクは自分がヴェルダの御使いの過去の記憶の中に入っていることを知った。


「フミカ」

 

 背後から声がしてヒラクは振り返った。


(フミカ!)


 そこにいたのは、ヒラクが水晶の館の中庭で一緒に過ごした少女、フミカだった。だがその少女は、過去のヴェルダの御使いの中に入り込んでいるヒラクに向かって「フミカ」と呼んだ。


 ヒラクはヴェルダの御使いが遊牧民たちに「フミカ」と呼ばれていたことを思い出した。


(やっぱり「フミカ」はこの人の名前だったのか)


 では目の前のこの少女は誰なのか? 

 長い緑の髪、抜けるような白い肌、透き通る琥珀色の瞳の寂しげなこの少女は、確かにヒラクが一緒に過ごしたフミカだ。


「元気にしていた? 姉さん」


 ヒラクの口から声が出る。

 それは過去のヴェルダの御使いの言葉だ。

 目の前の少女はうれしそうに小さく笑う。


「外の世界はどう?」


 少女は、ヒラクが入り込んでいるヴェルダの御使いに尋ねた。


「ここにはないものばかりよ。見るものすべてが新しいわ」


「そう……」


 少女は表情を暗くしてうつむいた。


「でもたいへんなことも多いわ。母さんも……」


 言いかけて、ヴェルダの御使いはハッとして言葉を止めた。

 ヒラクの心にヴェルダの御使いが抱いた後ろめたさが伝わった。


「いいのよ」


 少女は悲しそうに微笑む。


「姉さん、母さんも姉さんに会いたいと思っているわ。ここから出ようとは思わない?」


 ヴェルダの御使いの言葉に少女は静かに首を横に振る。


「私はあなたのように母さんから名前を与えられたわけじゃない。プレーナの娘であるドゥーアとして生きることでしか、私は私でいられない」


「そんなことない。姉さんは私の姉さんじゃないの」


「でもあなたはここにはいないじゃない」


 何の感情もないガラス玉の瞳にみつめられ、ヒラクの胸が針で刺されたように痛んだ。それはその時のヴェルダの御使いの痛みなのだろうとヒラクは思ったが、目の前の少女を見ていると、なぜか自分も悲しくなった。


「あなたがいなくなってから、私は欠けてしまったわ。不完全な私は誰からも必要とされないの。おばあさまは私に完全さを求めるけれど、あなたがここにいないのに、どうしたら完全になれるというの?」


 少女はどこまでも無表情で淡々と話す。

 ヒラクが一体化しているヴェルダの御使いの目に涙が溢れる。


「姉さん、そんなこと言わないで。私たちはずっと一緒よ」


「いつかまた一つになれる?」


「姉さんが望めばいつでも一緒になれるわ」


(ちがう……)


 ヒラクは二人の心がすれちがっていることに気がついた。

 ヒラクが感じているヴェルダの御使いの思いは、外に姉を連れ出したいというものだ。だが目の前の少女は、それを望んでいないように見える。


「だから姉さん、そんなに暗い顔しないで。秘密の遊びをしましょうよ」


 気をとりなおすようにそう言うと、ヴェルダの御使いは少女の腕をつかみ、緑の水面に浮かぶ透明な遊歩道を駆けだした。


 そして遊歩道の脇にある大きな樹木の前で二人は足を止めた。

 ヴェルダの御使いは先の尖った水晶を取り出し、幹に小さな穴をあけた。


「何するの?」少女は咎めるように言う。「おばあさまに叱られるわ」


「平気よ。みつからない。二人だけの秘密よ」


 ヴェルダの御使いは明るく笑って言う。

 ヒラクはヴェルダの御使いの目を通して、不安そうな少女の顔を見た。


 やがて幹の穴からどろりとした飴色の樹液が溢れてきた。

 ヴェルダの御使いは穴に口をつけて飴色の樹液を吸った。

 樹液はかすかに甘く、青臭い木のにおいがする。

 ヒラクは自分もフミカと過ごした中庭で同じことをしたことを思い出した。その時フミカがヒラクに言ったように、ヴェルダの御使いは少女に言う。


「やってみて」


 少女はおそるおそる樹液の滴る穴に口を近づけた。


「どう? おいしい? オアシスで遊牧民たちがやっているのを見たの」


 そう言った後、こちらに顔を向けた少女を見てヴェルダの御使いは笑った。少女の口の周りにべっとりと飴色の樹液がついている。


「姉さん、子どもみたいね」


 その言葉の後、ヒラクは自分の顔が少女の目の前に近づくことに驚いた。

 ヴェルダの御使いは少女の口元をぺろりとなめた。

 少女は驚いて目を見開いた。

 そんな少女にヴェルダの御使いは言う。


「遊牧民たちがやっていたの。本当は唇と唇をくっつけるんだって。相手と近づきたい、一体感を味わいたいって思ってする行為だそうよ。いけないことだと母さんは言ってたけどね」


 すると今度は少女がヴェルダの御使いに顔を近づけ、唇をそっと重ねた。


「いつか完全になるために、もう寂しくないように……」


 まるで願いをかけるように、離れた少女の唇がささやく。

 少女はヴェルダの御使いを抱きしめた。


「あなたとプレーナに還りたい。そこでまた私たちは一つになるの。そうしたらずっと一緒よ。寂しくないわ」


 だが抱きしめられたヴェルダの御使いは、二人の間にどうしようもない溝があることを感じていた。


「……もう行かなきゃ」


 ヴェルダの御使いは少女からそっと体を離した。

 目を伏せたヴェルダの御使いは少女の表情を捉えることはなかったが、ヒラクは少女の傷ついた顔が目に浮かぶようだと思った。


 ヴェルダの御使いは泉の水を湛えた大瓶を抱えて、中庭を後にしようとする。

 このままヴェルダの御使いの体に入り込んだままの状態で聖堂の扉から外に出れば、もといた世界に戻れるのかとヒラクは思ったが、今ここに一人で少女を残していくことがどうしてもできなかった。

 そんなヒラクの想いとは裏腹に、ヴェルダの御使いは中庭を出て聖堂へ続く階段を上がっていく。そして人の気配をうかがいながら聖堂に入り、アーチ型の銀の扉の前に立った。


 扉が開いた。


 だが孤独な少女の姿がヒラクの脳裏に焼きついて離れない。


 次の瞬間、ヒラクは扉の向こうに出たはずの自分が再び中庭にいることに気がついた。


 今度は過去のヴェルダの御使いの姿としてではなかった。

 だが自分としての実体もない。


 ヒラクは中庭全体を見下ろしていた。

 そして泉のそばに一人で佇む少女の姿を捉えた。

 ヒラクはそこに焦点を合わせた。

 すると映像が拡大していくように少女が近づき、気づけばヒラクは少女のそばにいた。

 少女にはヒラクの姿は見えていないようだ。ただ一人で寂しそうに泉の水面に映る自分の姿を眺めている。


「ねえ、フミカ、そこにいるんでしょう?」


 少女は水面の自分に呼びかけ、そして自分で答えた。


「私はいつでも一緒にいるわ。だってあなたがフミカじゃない」


 少女は水面の自分とみつめ合いながら悲しげに微笑む。


「そうね、私はフミカ。外の世界にいるあなたの内側に存在する私。私はあなた。二人なら完全になれる」


「ちがうよ、あなたはフミカじゃない」


 その言葉とともに、ヒラクは中庭に姿を現した。


「フミカ……なの?」


 少女は自分と同じ白い服を着た姿のヒラクを不思議そうに見る。


「ちがう、おれはヒラクだ」


「ヒラク?」


 ガラス玉の瞳に映るヒラクは全身から緑の光を放っていた。


「あなたはプレーナ?」


「……どうかな。確かにおれは今プレーナに溶け込んでいる。でもおれにはヒラクという名前がある。おれはおれ、ヒラクとしてここに存在している」


「よく、わからないわ」


 少女は無表情で言う。

 ヒラクは少女の前に立ち、そっと優しく抱きしめた。


「あなたはプレーナでもない。ドゥーアでもない。そしてフミカでもない。誰でもないよ。あなたはあなたでたった一人のかけがえのない存在だ」


「誰でもない……私?」


「おれにとってあなたは、誰の代わりにもなれない特別な存在だ。憎しみも悲しみも、感謝もすべて何もかも、この胸にある想いは全部あなたに、あなただけに向けられたものなんだ……母さん」


 抱きしめる手に力がこもる。

 ヒラクは少女時代の母を悲しく、いとおしく思った。


「あなたがあなたであるために、必要なものをおれがあげる」


「必要なもの?」


「ホルカ」


 ヒラクは母に呼びかけた。


「それがあなたの名前だよ」


 それはアノイの地を去った母の呼び名だった。

 アノイの言葉で「後戻り」という意味だ。だがヒラクにとってはそれがずっと母の名前だった。


「ホルカ? 私の名前?」


 少女の姿をしたヒラクの母は、不思議そうにぼんやりとつぶやく。


「そうだよ。他の誰でもないあなた自身の名前だ。あなたはあなたで、そのままで、完全な存在なんだ。行こう、ここから出るんだ」


 ヒラクはホルカの手を引いて走りだした。


 中庭を抜け、階段を駆け上がり、二人は聖堂に飛び込んだ。

 アーチ型の扉の前でヒラクはホルカをみつめて言う。


「一緒に出よう。もう誰も待つことはない。ここに縛りつけるものは何もない」


 ヒラクは銀の扉を開けて外に出た。

 だがホルカは扉の向こうへ行こうとはせず、聖堂に留まっている。


「どうして? 母さん」


 扉だけを残して聖堂が消えようとしていた。

 ヒラクの体も緑の光を放ちながら実体を失おうとしている。


「早く、こっちへ!」


 ホルカの腕をつかんだヒラクの手が形を失い、溶け出して周辺の光と一体化しようとしている。

 すでに辺りは緑の光で満たされていた。

 だが扉を隔ててホルカのいる側は闇に落ちようとしている。

 ホルカだけがぽつんと闇の中に白く浮かび上がっていた。


(母さん、こっちへ来るんだ!)


 実体を失ったヒラクの思念が扉の向こうの闇に緑の光を放射する。だがホルカは闇の中で静かに微笑むだけだ。


(母さん!)


 次の瞬間、ヒラクは急浮上する感覚に包まれた。


 そして見たのは、巨大な砂時計のようなプレーナ全体の姿だった。

 上の部分には太陽や木々や空が渾然一体となって緑の水として溶け出していく光景が見える。そしてくびれの部分を通って下に吐き出されるのは緑の雨と芽吹く大地だ。


 ヒラクは大地に意識を向けた。


 するとまるで空から大地全体を見渡すような視界になった。


 そこにヒラクは黒装束の民の一団をみつけた。

 緑の雨に打たれながら、彼らはラクダを進めている。

 そのすぐ先にはセーカの奇岩群があった。

 そしてセーカに数百名の兵士からなる神帝国の兵団が隊列を成して迫ってくる。


(一体何が起ころうとしているんだ……?)


 ヒラクがそう思ったとき、別な思いが伝わってきた。


―ヒラク、私に意識を向けて!


(誰? 母さん?)


 その言葉に反応した直後、ヒラクは奇岩群を背景にした緑芽吹く大地の上で、母と同じ白い服のまま仰向けに倒れていた。雨はすでに止んでいた。琥珀色の瞳がヒラクを見下ろしていた。


「あなたは……」


 それはヴェルダの御使いだった。


「無事、抜け出せたようね」


 ヴェルダの御使いはほっとした顔でヒラクを見た。


「あなたも無事で……よかった」


 ヒラクも安堵の笑みを向けた。ヴェルダの御使いは静かにうなずく。


「まさか私まで助かるなんてね。私自らがプレーナの記憶の媒体となることで、あなたを助けることができると思ったけれど、私自身の実体は消失すると思っていた。でもまさかこんなことが……」


「一体何があったの?」


 ヒラクは体を起こして尋ねた。


「気づかなかったの? あなたが出てきた聖堂の扉は私の記憶の中ものじゃなかったのよ。そして同じ扉が私の前にも現れた」


「それは、母さんの記憶の扉?」


 ヒラクは扉の向こうの闇に浮かぶホルカを思い出した。


「ええ、でも私には何が起こったかわからなかった。もう自分という意識も私にはなかった。でも闇の中で声がしたの。『フミカ』と私を呼ぶ声が。そして呼び声に応じると、目の前に少女時代の姉さんがいた」


「ホルカ……」


「ホルカ? そう、姉も自分のことをそう名乗った。なぜ?」


「母さんの名前だよ……。おれがつけたんだ」


 ヒラクはぽつりとつぶやいた。


「そう、そうだったの……ホルカ……」


 ヴェルダの御使いは、かみしめるように言った。


「姉さんは言った。『私はホルカ。あなたはフミカ。もう待たないから行きなさい。私もやっと行けるから』と」


「母さんはどこに行ったの?」


「……わからないわ。何もかもわからないことだらけよ。あれがプレーナの中のただの過去の記録なら、同じことを繰り返すだけのはずなのに。なぜ新しい名前を持ち、新しい意識を持つことができたのか……」


「わからない。でも、おれにはホルカがただの過去の記録だなんて思えない。五歳のおれだって確かに存在していたし、今でもちゃんとここにいる」


 ヒラクは胸に手を当て目を閉じた。そこには確かに傷を負った五歳の自分がいる。だがもうその頃の自分は同じところに留まらないとヒラクは思う。これからの自分と一緒に成長していくのだろうと。


「いきましょう」


 ヴェルダの御使いであるフミカの目は、生気を取り戻しただ前だけをみつめていた。

 ヒラクも奇岩群のある前をみすえてだまってうなずく。


 これから起こる悲劇に向かって、ヒラクとヴェルダの御使いは、前に進もうとしていた。



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