父の恋
(前回までのあらすじ) 母ウヌーアの双子の妹であるヴェルダの御使いから姉妹の悲しい運命を聞かされたヒラク。プレーナを狂信的に信仰していたヒラクの曾祖母は継承者となる姉をプレーナに残し、妹は排除しようとする。それに反対したヒラクの祖母は妹を連れてプレーナを去り、遊牧民たちの中で最初のヴェルダの御使いとして生きることになったのだった。そしてその後を継いだ母の妹、現ヴェルダの御使いはヒラクの父を愛していたという。
先ほどからヴェルダの御使いは一言も言葉を発しようとしない。
ヒラクも何となく気まずい思いで黙り込む。
だが、自分の父親とヴェルダの御使いが一体どのような関係なのか、ヒラクは気になって仕方ない。ヒラクは上目遣いで目の前のヴェルダの御使いの様子を探りながら思ったことを口にした。
「あのさ、やっぱり、あなたがおれの母さん……なんてことは……」
思いがけないことを言われて、ヴェルダの御使いは少し驚いた様子だったが、困ったようにヒラクを見て、どこかさびしそうに笑った。
「もしそうならどれだけよかったか……。だけど何がいいか悪いかなんて、結果を見るまでわからないわ」
そしてヴェルダの御使いは、少しずつ話し始めた。
「出会いは今から十五年前。私がヴェルダの御使いとなってから三年後のことだった。北の山のふもとで私は一人の男と出会った。男は全身傷だらけで、半死半生の状態だった。その男こそあなたのお父さん、イルシカよ」
それは、ヒラクが生まれる前のことだった。アノイの村の長の息子であるイルシカは、クマ狩りのため山に入り、そのまま行方知れずとなった。村の者たちは、イルシカは山の神の姿を借りたクマのしもべとなって神の国に行ったのだろうとうわさした。
だが事実はちがう。
イルシカは、確かにクマに襲われ傷を負っていた。しかし、必死にクマのなわばりを離れようとしたイルシカはそのまま道に迷い、山の反対側に出てしまった。
アノイの地では、山の向こうは神々の住まう神の国だとされていた。だが、山の向こうには、草木一つ生えない荒涼とした砂漠が広がっていた。
イルシカは、まるで幻覚に引き込まれるような思いで反対側の山を下っていった。そして、そこが神の国であるのか何なのか、確かめる前に力尽き、意識を失って倒れた。
そこに現れたのがヴェルダの御使いと遊牧民たちである。
彼らはオアシスを追ってその近くまできていた。遊牧民たちはイルシカを助ける気などなかったが、ヴェルダの御使いはどうしても見過ごすことができず、そのとき現れたオアシスの場所までイルシカを運び、自分の小屋で世話した。
「イルシカは、それはひどい状態で、意識を取り戻してもすぐには動くこともできなかった。それでもその目は生きることを決してあきらめていなかった。言葉も通じない、見た目もまるでちがう、それでも、私はイルシカの強く激しいその瞳に一目で心を奪われた」
ヴェルダの御使いは、遊牧民たちの中で孤独を感じることがしばしばあった。緑の髪と琥珀色の瞳は、灰色の髪とこげ茶色の瞳を持つ遊牧民たちの中で一際浮き立っていた。そのためヴェルダの御使いは、黒髪に黒い瞳を持つイルシカに、異民族同士の近親の情を抱いた。イルシカもまた、自分を献身的に世話するヴェルダの御使いに感謝するようになっていた。
「私とイルシカが愛し合うようになったのはごく自然なことだった。私はイルシカを連れて次のオアシスまで移動し、しばらくはそこにとどまった。私たちはお互いの言葉も少しずつ覚え、自分のことを語り合うようになった。私には今までそんな相手は誰もいなかった。イルシカは私にとってかけがえのない存在になった……。でも傷が癒え、時がくれば、村に戻ると彼は決めていた。そう彼に告げられたとき、私たちの関係はほんの束の間の夢に過ぎなかったのだと思った。私の父と母がそうだったように……。だから彼が私に言った言葉を最初は信じられなかった」
今でもそのときのことをヴェルダの御使いははっきりと思い出すことができる。
「俺と一緒に来い」
イルシカは燃えるような目でヴェルダの御使いを見て言った。
イルシカが山の向こうにあるというアノイ族の村から来たことは、ヴェルダの御使いも本人から聞いて知っていた。しかし、それはまるで別世界の出来事を聞くようなもので、彼女にはそれが現実のこととは思えなかった。ましてやそこにいる自分の姿など、ヴェルダの御使いには想像もつかなかった。
「無理よ、そんなこと……」
そうは言ってもヴェルダの御使いはイルシカの言葉がうれしかった。だが戸惑いと不安が未来に影を落とす。
「おまえは俺のものだ。連れて行く」
イルシカの決意は揺るぎないものだった。
「俺と共に生きろ」
イルシカは強い意志を込めた目で、ヴェルダの御使いを見て言った。だがヴェルダの御使いはその言葉にうなずくことができなかった。
イルシカはヴェルダの御使いを力強く抱きしめた。
「……怖いか?」
ヴェルダの御使いはうなずいた。
「新しい世界でまた生まれ変わればいい」
ヴェルダの御使いがプレーナを追放され、遊牧民として生きることになったことは、イルシカもすでに知っている。プレーナがどのようなものであるかはイルシカにはとらえきれなかったが、突然知らない世界で新しい生活を始めることになったヴェルダの御使いの戸惑いはよくわかった。
イルシカには、プレーナと砂漠を行き来し続けるヴェルダの御使いが、居場所のない迷い子のように思えてならなかった。彼女に安住の地を与えたいと思った。そして一生を共にし、彼女の居場所を守っていこうとイルシカは決意した。
「イルシカが私をアノイの地に連れて行くと言ったとき、うれしかったわ、本当に……。でもふとプレーナに一人きりでいる姉のことが頭をよぎった。私だけが幸せになることに、うしろめたさを感じたの。外の世界を一切知らず、誰かと心を通わせることも、愛し合う喜びも何も知らない姉が哀れでならなかった。……でもそれは私の独り善がりな感情だった。自分の望みが姉の望みでもあると思いこんだ私は傲慢だった」
ヴェルダの御使いはヒラクから目をそらし、恥じ入るように唇を固く引き結ぶ。
「結局私は目の前の幸せをつかむことができなかったというだけ。ただの臆病者だった。その言い訳に姉を使ったようなものよ。あのとき思い切ってイルシカの胸に飛び込んでいれば、誰も不幸になんてならずにすんだのに……」
イルシカは、ヴェルダの御使いの中に迷いがあろうとなかろうと、強引にアノイの村に連れていくつもりだった。
満月が近づいてきたある夜、少数の供を連れてセーカへと向かうヴェルダの御使いをそのままさらって、イルシカは山を越えようとした。
遊牧民たちの野営地を抜けて、ヴェルダの御使いの後を追ったイルシカは、プレーナと遭遇することになる。
気づけばイルシカは、アーチ型の銀の扉の前にいた。
扉を開けると、そこには自分が求めるヴェルダの御使いの姿があった。床にひきずるほど長い白い衣服をみにまとうヴェルダの御使いは、いつもとはちがう印象だったが、おびえたように逃げようとするヴェルダの御使いの腕をイルシカはとっさにつかみ、胸の中に抱きすくめた。
「逃げようとしても無駄だ。俺はおまえを連れて行くと決めた。俺と生きろ。俺の子を産め!」
抱きしめられた女は微動だにしなかったが、やがて同意を示すかのように、イルシカの背に腕を回した。
こうしてイルシカは扉の向こうから連れ出した女を自分の妻とした。それがヴェルダの御使いによく似た双子の姉であるとは気づかずに……。
ヒラクの母はイルシカの愛を受け入れたわけではなかった。ただ彼女には子どもが必要だった。自分をプレーナへと送り出す娘の存在を求めていた。その求めに応じるように、聖堂の扉の向こうからイルシカが現れた。ヒラクの母はイルシカをプレーナに与えられた若者と思った。
自分が連れ帰った女が愛した女とは別人であることを知ったイルシカの失望は大きかった。
子を産むまでは戻らないという妻を残して、イルシカはヴェルダの御使いに会うために再び山を越えた。
満月の夜にセーカの民にプレーナの水を渡す「分配交換」がある。その時はオアシスがどこにあろうと、ヴェルダの御使いは一部の遊牧民たちと、セーカからそう遠くない北の山沿いに小屋を作って夜に備える。
イルシカはヴェルダの御使いを探し、再会を果たしたが、二人の関係はもう二度と元に戻ることはなかった。
「私は嫌な女だった……。どうしても許せなかったの。間違いだったとわかってる。それでも、イルシカに裏切られた思いでいたし、私から大切なものを奪った姉のことも許すことはできなかった」
それでもヴェルダの御使いは聖地の水を必要とする姉のために、プレーナから汲み出した水をイルシカに分け与えることを約束した。
イルシカは満月が巡るたびに山を越え、ヴェルダの御使いとの逢瀬を重ねた。だが二人はほとんど言葉を交わすこともなく、頭から足の先まで全身を黒装束で覆ったままのヴェルダの御使いは、イルシカに顔さえ見せることはなかった。
「満月の夜はイルシカにプレーナの水を手渡す日……。姉のためにしていることだと、私は自分に言い訳をした。だけどイルシカに会える喜びは隠しようもなかった」
二人は、イルシカが運んできた水瓶に水を移しかえながら、二言三言言葉を交わすだけだった。その内容も、ヴェルダの御使いが姉の様子を尋ねるというぐらいのものだった。だが、自分を嫌う妻との生活に疲れていたイルシカは、ある時ヴェルダの御使いに言った。
「本当のおまえはここにいるというのに……。せめてその黒布を取り去って俺に姿を見せてくれ」
だが、ヴェルダの御使いはこれを拒んだ。
「私はあなたの妻の影にすぎない。姿が見たいというのなら、早く家に戻るといいわ」
「……おまえはひどい女だ」
イルシカもヴェルダの御使いもお互いに傷ついていた。
それでも満月が巡るたび、ほんの束の間の時間を二人は一緒に過ごした。
イルシカは、ヴェルダの御使いの代わりにウヌーアを愛すことはできなかった。
姿を見せないヴェルダの御使いの面差しを双子の姉に重ねても、ヴェルダの御使いへのいとしさが一層募るだけである。それに双子とはいっても、ウヌーアとヴェルダの御使いは生き方も考え方もまるでちがう。何よりウヌーアはイルシカを決して愛そうとはしなかった。ウヌーアは、イルシカもアノイの地も村人も神々も何もかも否定して、ただプレーナに祈り、毎日を耐えるかのように過ごしていた。プレーナの娘であるという誇りだけが、ウヌーアを支えていた。
「イルシカが姉を愛せないと知って、私はどこかでほっとした。重い水を背負って山を越えることは並大抵のことじゃない。だけどそれでもイルシカは水を運び続けた。それが私に会うための苦しみだというのなら、やはり私はうれしく思う。それが姉のためというなら胸がつぶれそうになる。一体私はどうしたかったのか……。結局誰も幸せにはならなかった」
ヴェルダの御使いは辛そうにため息を吐いた。
「……全部、あなたのせいじゃないか」
堪えきれずにヒラクは言った。その表情はひどく傷ついていた。
「……そうね、全部私のせい。ごめんね、ヒラク……」
「あやまってほしいわけじゃない。ただ……」
ヒラクは今の自分の気持ちをどう言葉で説明していいのかわからずに、悔しそうに目を伏せた。
ヒラクはイルシカに裏切られたような気持ちでいた。それは、父の母への裏切りを許せないという気持ちとはまたちがうものだ。ヒラクは、自分がまったく知らないところで母とはちがう知らない女性を愛していたイルシカがいたということを、どう受け止めていいのかわからなかった。父親ではないイルシカの一面を知り、そこにはまったく自分の入る余地などないということが寂しく感じられた。
何より、父と母が愛し合ってはいなかったという事実にヒラクは衝撃を受けていた。言い争う両親の姿を目の当たりにしたこともある。それでもヒラクは、父が水を運ぶのは母のためだと思っていた。母が父とはほとんど顔も合わさず、小部屋から出ないでいるのも、母は体が弱いからだと思っていた。二人は夫婦であり、自分の両親なのだという事実がヒラクを安心させていた。
ヒラクにとってもっとも身近な夫婦といえば、イルシカの姉ルイカとペケルの夫婦だった。二人はとても仲がよかった。
ヒラクはルイカに無邪気に尋ねたことがある。
「どうしたら子どもができるの?」
ルイカは笑って答えた。
「夫婦が愛し合っていれば、自然と子どもができるのよ」
ヒラクはその時のことを思い出していた。
そして思った。
(そんなのうそだ……)
「大人はみんなうそつきだ……」
ヒラクはぽつりとつぶやいた。
「ヒラク……」
ヴェルダの御使いは悲しそうに目を細めた。
「ごめんね。こんなことやっぱりあなたに言うべきじゃなかったわ」
「……こうなったら最後まで聞く」
ヒラクはヴェルダの御使いを挑むように見て言った。
ヴェルダの御使いは肩を落としてため息をつき、静かに話を続けた。
そしてヒラクは母と別れた満月夜、本当は何が起きていたかをすべて知ることになる。




