消えた少女
(前回までのあらすじ)
ヒラクは聖堂で母とともに祈ることをやめ、中庭でフミカと二人で過ごすだけの日々を過ごした。だがある日フミカは自分のことを「ドゥーア・ディンゴ(第二の地位)」と名乗る。そして久しぶりに会ったはずの母は、ヒラクと毎日聖堂で祈りを続けていたと言い、ヒラクはそれが誰なのか自分は誰かの代わりなのかと混乱する。「フミカ」は母が本来ヒラクにつけたいと思っていた名前だった。
夜、ヒラクは、フミカのいる中庭に向かった。
眠ることができなかった。
水膜の空は暗く、発光する緑の水の明るさがぼんやりと闇に浮かぶ。
中庭を囲む廊下はひんやりと暗かった。
片側の壁のアーチ窓の向こうに、淡い緑の光に浮かぶひっそりとした庭園が見える。
ヒラクは中庭に足を踏み入れた。
水膜の空と同じ淡い緑の光が草木を浸す足下の水からも放たれている。
透明な遊歩道は闇の中に浮かぶように仄明るい光の道を伸ばしていた。
泉の前にはフミカが一人、佇んでいた。
フミカの透き通るような白い肌は薄闇の中で明るく浮き上がって見え、まるで体全体が発光しているかのようだった。
「……私を迎えにきてくれたの?」
フミカは静かに微笑した。
「……ちがうよ、フミカ」
ヒラクはフミカをにらみつける。
「フミカ?」
フミカは不思議そうにヒラクを見る。ガラス玉の瞳は怖いぐらいに透き通る。
「フミカはあなたの名前でしょう?」
その声は、夜の静けさに際立った。
ヒラクの背筋に冷たいものが走る。
「……ちがう、おれはヒラクだ。おまえがフミカだろう? それとも……おまえはもう一人のおれなのか?」
母が自分に名づけたかったという名前「フミカ」……。母の望みが叶っていれば、フミカという少女がここに存在していたことだろう。ヒラクは目の前のフミカこそ、もう一人の自分であると思った。だが、それを認めることが怖かった。
「おれが母さんと暮らしていたら、おれはおまえになっていたのか?」
ヒラクは怖れを消そうとするように声を強めて言った。
フミカはその作り物のような琥珀色の瞳で不思議そうにヒラクをみつめている。
「答えろ。もしおれがフミカならおまえは誰だ? おまえはおれに成り代り、毎日母さんのそばにいたのか? 一体いつ? おれの知らない間におまえは、母さんを奪って、おれを裏切って……」
ヒラクは感情の高ぶりを押さえきれず、ぼろぼろと涙をこぼした。自分が何に対して怒りを感じているのかわからなかった。母が自分ではなくフミカを必要としていることが悲しいのか、フミカに嫉妬を感じているのか、それともフミカが自分に隠し事をしていたことに傷ついているのか……。
フミカはヒラクを抱きしめた。
「泣かないで。私たちはずっと一緒よ。私はあなたで、あなたは私。寂しくないわ。一つになるの」
ヒラクはフミカの腕の中で、うつむいたまま声を漏らす。
「一つになるってどういうこと? プレーナに還元されるってこと? そのために母さんと一緒に毎日祈っているの?」
ヒラクは顔をあげ、フミカを突き刺すように見た。
ヒラクは逆上して我を忘れていた。自分の言葉で胸を痛めつけながらも、自分を傷つけているのは目の前のフミカだと思い込んだ。
ヒラクはフミカをその場に押し倒し、そのまま馬乗りになった。
「おれはヒラクだ。たとえここにおれの居場所なんてなくっても、おれはヒラクだ、ヒラクだ、ヒラクだ! おまえが、おれの居場所ではなかったのだとしても!」
ヒラクはフミカの細い首に手をかけた。
涙がぼろぼろと溢れて、見下ろすフミカの顔に落ちる。
「消えてしまえ……! そうすれば、おれはおれでいられる。おまえさえいなければ……」
思わず口をついて出た言葉を、ヒラクはすぐに後悔した。
フミカは瞬きもせずに泣いていた。
ヒラクはフミカの首から手を離し、声を張り上げて泣いた。
フミカはヒラクに組み敷かれたまま、ヒラクをじっと見上げている。
ヒラクは手の甲で涙を拭い、何も言わないフミカを見下ろした。
「フミカ……いや、ちがう。ヒラクとでも呼べばいいの? 名前は何? 答えてよ」
「……私に名前なんてない」
フミカは悲しそうに言う。そして震える手をのばし、ヒラクの頬にそっと触れた。
フミカはヒラクをみつめて言う。
「私、あなたになりたかった……」
そうして一筋の涙が、こめかみからつたい落ちると、フミカの姿ははかなく消えた。
ヒラクはその場に一人きり、いつまでも座り込んでいた。
それから毎日、ヒラクは中庭でフミカを探した。
だがフミカはヒラクの前に姿を見せることはなかった。
「いなくなった……。おれが消したのか?」
ヒラクは自分の両手をじっと見た。フミカの細い首の感触が、まだ手に残っている気がした。
自分はなんてひどいことをしたのかと、自己嫌悪で悔やむばかりだ。けれども一番認めたくないのは、そのことで得た安堵感だ。
ヒラクはどこかでほっとしていた。
これで自分は消えなくてすむと思った。
ヒラクは自分を失うということを怖れていた。本来ここにいるべきはずなのは、母とともにここで生きてきたであろう「フミカ」という架空の存在だ。
五歳の頃を分岐点として、分離した未来に生きる「ヒラク」と「フミカ」。
決してつながるはずのない二つの世界が重なり合ったとき、今度は「ヒラク」という存在が架空のものになり、消えてしまうと思った。
自分はフミカにとってかわられ、ヒラクとしての記憶も、行動も、何もかも、なくなってしまうのだと思った。
「ヒラク」は跡形もなく消えて、「フミカ」に統合されてしまう。そう考えると、ヒラクは虚無の闇にじわじわと侵食されていくようなおぞましさを感じる。死んだらただの骨になると言った父の言葉にぞっとしたときと同じ怖さだ。自分が消える、消去されるという感覚は、ヒラクにどうしようもない恐怖と不安を与える。
フミカは消えてしまったのか? その存在は消去したのか?
けれどもヒラクの心の中で、その存在は消えはしない。
ヒラクにはそれが怖かった。
フミカはいなくなったのではなく、自分の中に潜んでいるだけではないのかと思えた。フミカは自分を内側からのっとろうとしているのではないかとおびえた。
その考えを打ち消したくて、ヒラクは中庭の隅々まで、フミカの姿を探し求める。
だが求めれば求めるほど、自分の中のフミカの存在が大きくなっていく。
ヒラクは中庭を飛び出して、聖堂に向かって走った。
聖堂にはウヌーアがいた。
ヒラクは息を弾ませて母の前に立った。
「……おれは誰?」
ウヌーアはじっと我が子をみつめる。
その沈黙が何を意味するのか。ヒラクはごくりとつばを飲んだ。
ウヌーアはくすりと笑った。
「あなたはドゥーア・ディンゴ。第二の地位の者」
「そんなこと聞いているんじゃないよ」
ヒラクは苛立ちをあらわにした。
「母さん、おれの名前は何? ヒラク? フミカ? どっちなの?」
「……私の娘はあなただけ。第二のプレーナの娘は、あなたを置いて他にいない」
「でも、母さんはおれじゃなくてフミカと一緒にいたんでしょう? 毎日ここで母さんと一緒に祈りを捧げていたのはおれじゃない。フミカだ」
「……さっきから何を言っているの?」
ウヌーアは怪訝顔だ。
ヒラクは、ウヌーアには自分とフミカの見分けがついていないのだと思った。今いる自分も毎日ここで祈りを捧げていたフミカも同一人物だと思っているにちがいない。それならば……。
ヒラクは母に打ち明けることにした。
「母さん、ここのところ、おれは一緒に祈りを捧げていないよね? どうして急にここに来なくなったのか不思議に思わない?」
ウヌーアは、ヒラクが何を言い出そうとしているのかまるでわからないといった様子だ。
「……おれじゃなかったんだ。今までここで母さんと一緒に祈りを捧げていたのはおれじゃなかったんだ。フミカだ。おれは、もう一人いたんだ。本来ここにいるべきはずのおれ。母さんが望むとおりのおれだ」
ヒラクは自分の言葉に悲しくなった。母の望む自分を自ら消してしまった。本当は、母は自分ではなく、フミカにいてほしいと思っているはずだ。それなのに……。
「それなのにおれは、おれがおれでいたいがために、フミカを消してしまった。だからフミカはもういない。いくら母さんがここで待ってもやってこない。一緒に祈りを捧げることはもうできないんだ……」
ヒラクはぼろぼろと涙をこぼした。
ヒラクの濡れた頬をウヌーアの手が優しく包み込んだ。
「おかしな子ね。どうしちゃったの? 一緒に祈りを捧げることはないってどういうこと? さっきまで一緒に祈っていたというのに」
ヒラクは凍りつくように表情を硬くした。
「さっきまで一緒にってどういうこと?」
ヒラクの声が震える。
「今日だけじゃないわ。毎日一緒にお祈りしているわ」
ウヌーアの言葉にヒラクは動揺した。
「だってフミカはもういなくなったんだ。それなのに毎日ここに来ているってどうして? おれとは別に存在し続けているの? 一体どういうこと?」
ヒラクは混乱した。姿を現さなくなったフミカ。それでもまだ母と共にいる。そして自分もここにいる。ヒラクはどう解釈していいのかわからなかった。
「落ち着きなさい、ヒラク。あなたは今、変化の過程にあるの。あなたの中で聖なるものと不浄のものがせめぎあっている。だからいい子にしていたかと思ったら、そんなふうに突然わけのわからないことを言い出したりするのね。しっかりなさい。あなたはあなたでしかないの。……『フミカ』はここにはいない」
ウヌーアは小さな子どものかんしゃくをいさめるように言う。
だが、母の表情が一瞬曇ったのをヒラクは見逃さなかった。
「フミカがいないなんてどうして言えるの? 今だっておれの中にフミカが……」
「やめて!」
ウヌーアは鋭く言った。
「『フミカ』の話はしないで。ここは選ばれた者しか存在できない聖域なの。あなたは特別な人間なの。それでいいじゃない。何が不満なの? 何が気になるの? あなたはたった一人の選ばれた人間よ。他の誰でもないわ。偉大なるものの一部になれるの。素晴らしいことじゃない。他の誰もそんなことできないのよ」
突然取り乱した母をヒラクは呆然と見た。
「ああ、頭が痛いわ。あなたの中の不浄のものが私のことを苦しめる。今日はもうこれ以上話しかけないで……」
ウヌーアはヒラクのそばを離れ、祭壇の前にはい寄り、一心不乱に祈り始めた。
ヒラクは中庭に戻った。
フミカが消えていないのなら、また目の前に現れてくれるのではないかと思った。
だがフミカは姿を見せなかった。
ヒラクはひどく傷ついていた。
結局は母に拒絶された痛みをフミカに和らげてほしいのだろう。自分がその手で消し去ろうとした存在に。




