寂しさと不完全さ
(前回までのあらすじ)
ヒラクは水晶の館で母と再会してから毎日聖堂でプレーナに祈りを捧げる日々を過ごしてた。やがてその姿にも変化が現れ、緑の髪はさらに色濃く、肌の色は白く、瞳の色は琥珀色になっていった。そしてヒラクは中庭で今の自分と似た姿をした不思議な少女フミカと出会う。ヒラクは自我さえ曖昧な頼りなげなその少女になぜか強く惹かれた。
それからというもの、ヒラクは聖堂で母と一緒にプレーナへの祈りを捧げるとき以外は、中庭でフミカと共に時を過ごした。
母にも言えない思いをヒラクはフミカに打ち明けた。
フミカは静かに黙って聞いていることがほとんどだったが、それでもヒラクはフミカといる時の沈黙や静けさが好きだった。
「ねえ、フミカ、いつもここにいるの?」
ヒラクは隣に座るフミカの水草のような長い髪を指先にそっと巻きつけて言った。
フミカは泉の水面をみつめたまま、静かに黙ってうなずいた。
「いつも一人なの?」
「……そう、一人」
フミカは息を漏らすように言う。
「寂しくない?」
「……寂しい?」
「うん、一人で、話し相手もいなくて、寂しくないの?」
「あなたは寂しいの?」
「おれは……」
ヒラクはうつむいた。
「寂しい……のかもしれない」
「あなたは一人なの?」
「ちがう、母さんがいる。でも……寂しい……」
「……なぜ?」
「なぜ? なぜだろう……。今まで、母さんがいなくて寂しいなんて思ったことはなかった。そんなこと、考えようともしなかった。なのになぜ、一緒にいる今が寂しいんだろう。離れていた分寂しいのかな……。だけどもう会えたのに、一緒にいるのに……。でも埋められない。おれの中の何か……。心の中にぽっかりとした穴がある。母さんはそれを埋めてくれない。埋めてほしいのに埋めてくれない。だから寂しいのかもしれない」
フミカは透き通る瞳でヒラクをみつめる。そして静かに呼吸するように語りかける。
「その穴は、もう一人のあなた。あなたの欠けた部分。完全じゃないから寂しい。不完全だから求める。私も不完全な欠片。……同じね」
フミカはヒラクをじっと見る。
「寂しいのは一人だからじゃない。完全なものになれないから寂しい。求める気持ちがあるから満ち足りない」
「もう一人のおれってどういうこと?」
ヒラクは尋ねるが、フミカはただ寂しそうに微笑みかけるだけだった。
「秘密の遊びをしましょう」
急にフミカはそう言って立ち上がった。
そして遊歩道のうちの一つを駆けだした。
ヒラクも後を追いかけた。
遊歩道の脇にある大きな樹木の前でフミカは足を止めた。
幹には小さな穴があいていて、木の破片で栓をしていた。フミカはその栓を引き抜いた。
「本当はいけないことなのよ」
いたずらっぽく笑うフミカの表情は別人のように明るかった。
少しすると、穴からどろりとした飴色の樹液が出てきた。
フミカは穴に口をつけて飴色の樹液を吸った。
「やってみて」
フミカはヒラクを見て言った。
ヒラクは少し戸惑いながら、同じように樹液の滴る穴に口を近づけた。
樹液はかすかに甘く、青臭いような木のにおいがした。それは聖堂の香炉の煙の香りに似ている。
ヒラクがくちびるを幹から遠ざけると、隣に立つフミカがまた同じ場所にくちびるをつけた。
それを見て、ヒラクの胸は高鳴った。胸がどきどきして体が熱くなった。
そんなふうになるのはおかしいと思ったが、自分が女である自覚はヒラクにはまだない。かといって、男としての感覚が育っているわけでもない。ヒラクは自分の感情に戸惑っていた。
そしてヒラクはハッとして顔をあげた。
フミカの顔が目の前にあった。
フミカのくちびるがヒラクのくちびるに触れた。
甘い樹液の味がした。
ヒラクは驚いて目を見開いた。
「本当はいけないことなのよ」
そう言ってフミカは悪戯っぽく笑った。そしてヒラクを抱きしめる。フミカの細い肩が震えていた。
「私は欠けてしまった。だから完全にならなければいけない。満ち足りればもう求めない。完全になれば寂しくない」
震える声はか細くて、耳を澄ましてやっと言葉が聞き取れる。それはヒラクの心の隙間にそっと忍び込んでいく。
「どうしたら完全になれる?」
ヒラクはフミカが言う不完全さを自分の中の空虚さにあてはめた。
「私が私じゃなくなればいい。求められるものになればいい。価値あるものになれば、もう寂しさは感じない」
「どうすれば、価値あるものになれるというの?」
ヒラクは、まるで自分がそれを望んでいるかのようにフミカに尋ねた。
フミカはしばらく黙り込み、そしてヒラクから離れた。
「特別な存在になればいい。そうすれば人は求める。愛される。人に必要とされるほど、私は価値ある存在になる」
そう言って、フミカは遊歩道を駆けだして、樹木の陰に姿を消した。
ヒラクはその場にただ一人立ち尽くした。
口づけして、抱きしめて、そして置き去りにしてしまう……。そんなフミカの行動が、ヒラクの心を悩ませる。受け入れればいいのか、追いかければいいのか、どう応えるべきかもわからない。困惑の中にもどこか寂しさの入り混じる後味の悪さがヒラクの胸に残った。
「今日もお祈りはちゃんとしたの?」
水晶と樹木の聖室に、母はヒラクを訪ねて言う。夜、眠る前の確認だ。ヒラクはあいまいにうなずく。
「最近は一人でも祈りを捧げられるようになったのね。えらいわ。でも明日は一緒に祈りを捧げに行きましょう」
「ちゃんと一人でも祈れるよ。別に一緒じゃなくてもいいだろう?」
ヒラクは不機嫌に言った。母の関心は、ヒラクがプレーナに祈りを捧げたのかどうかにある。そのことをヒラクはおもしろくなく思うようになっていた。
「どうしたの? どこか具合が悪いの?」
表情を少し強張らせながらも、母は笑顔を崩さず言う。その言動の一つ一つがヒラクに小さな失望を与えた。
時々ヒラクは、自分の要求に応えない母親にかんしゃくを起こす子どものような気持ちになる。
では母に何を望むのか? 何をしてほしいというのか? ただ抱きしめて、優しくして、そばにいてくれればそれでいいのか? いや、それで満足できたなら、このような苛立ちはないはずだと、ヒラクは薄々気づきはじめている。
「ヒラク、今はもう私以外に話をする人なんていないわよね?」
そう母が聞いてきたときも、それは自分への関心ではなく、人から何かよけいなことを聞いていないかという心配だというのは、ヒラクにもなんとなくわかった。
「ここには他に誰もいないだろう? それとも誰かいるの? 会ってはいけない人でも?」
ヒラクは探りを入れるように聞いた。
母はフミカのことを知っているのだろうか?
だが母は笑っただけだった。
「何を言っているの? ここはプレーナに最も近い選ばれた者だけが住まうことができる場所なのよ。私たちの一族以外には存在することもできないわ」
「一族って?」
それはヒラクも聞いたことのない話だった。
「そうね、あなたにはまだ話していなかったわね。いいでしょう。あなたは正当な継承者。私を継ぐ者。時は近いわ……」
ヒラクの母は、ヒラクの目をじっと見て、緑の髪を指ですいた。
「プレーナは偉大なる女神よ。いつまでも若々しく衰えることはない。母であり娘であるのがプレーナなの。プレーナの娘は一人きり。たった一人選ばれた者がプレーナの娘。つまり、私でありあなたよ。母であるプレーナと一つのものとなり、娘から母になる。母は娘と同化する。そして永遠に生まれ、回帰する」
ヒラクは母の言うことがまったく理解できない。それでも、その言葉には納得できないものがあった。
「そしたらおれはいなくなっちゃうの? 母さんも? 消えちゃうの? そんなの嫌だ!」
「おかしなことを言う子ね」
ヒラクの母はくすりと笑った。
「より偉大なものに還元されるだけよ。いい? 私たちは選ばれた者なの。特別なの。プレーナは何よりも尊い存在。そのプレーナと一つになるということは、どんなことよりも価値のあることなのよ」
「価値……?」
ヒラクは、フミカのことを思い出した。
価値あるものになれば寂しくないと彼女は言った。
だがその価値とは何なのか?
ヒラクはプレーナと一つになるということが、素晴らしいこととは思えなかった。
それでも母がそれを価値あることとみなすなら、それはヒラクにとっても価値のあることになるのだろうか。母にとって価値あるものに自分がなれば、母に愛してもらえるのだろうか。そして自分は満たされるのか。それが、フミカの言う、価値あるものになれば寂しくないということなのか……?
ヒラクにはわからなかった。
「……母さんは、寂しくないの?」
ヒラクは母に尋ねた。母は不思議そうな顔をする。
「私が? どうして? 私は常にプレーナとともにある。選ばれた者だもの。特別なの。寂しさなんて感じる必要がないでしょう?」
「おれは……寂しいよ……」
ヒラクはしぼりだすような声で言った。
「だいじょうぶよ」
母はヒラクを抱きしめた。
「あなたは、自分がどれだけ特別な存在であるかをまだ何もわかっていないの。あなたは生まれながら素晴らしい種を持っている。素晴らしい実りを得る種よ」
「……実がなるかどうかなんて種の段階でわかるもんか」
ヒラクは反抗するように言った。
「わかるわ。あなたは選ばれた子だもの」
「選ばれていなかったらおれはなんの価値もない人間なの?」
「そんなこと考える必要はないわ。あなたは選ばれた。だから特別なの。偉大なるプレーナの御意志よ」
「……おれの意志は?」
「プレーナと一つになること以外に大切なものなんてないわ」
「……」
ヒラクは納得がいかなかった。なぜと問われればわからない。だが、その反発こそがヒラクの意志であると言えた。
「……とにかく、この場所から出てはだめよ。外には穢れがあるわ」
「穢れって?」
「私たちより下等な者がこの場に祈りを捧げているの。救いを求める者たちよ。関わらないようにね。私たちとはちがうのだから」
外というのはフミカのいる中庭のことだろうか?
いや、ちがう……。
ヒラクは聖堂の祈りの声を思い出した。
祈りを捧げていた多くの娘たち。彼女たちはどこから現れたのか。 ヒラクはふとある場所を思い浮かべた。それは、聖堂の祭壇の反対側にあるアーチ型の扉の向こうだ。
(明日はあそこに行ってみよう)
そう心に決めてから、ヒラクは目を閉じ、眠りについた。
その扉の向こうに何があるかもわからずに。




