水晶の館
ヒラクがユピを取り戻すために潜入した分配交換の儀式の夜、巨大な緑の津波のようなプレーナが砂嵐と共にセーカを襲う。プレーナの光に触れたプレーナ教徒たちは次々に命を落とし、老主も信者に命を奪われ、プレーナ教は壊滅状態になり、セーカの秩序も崩壊する。そしてヒラクはプレーナに取り込まれたまま、五歳の自分の姿に戻り、母親と再会する。砂嵐が去った後、砂漠に取り残されたユピは、プレーナへの鍵を握る「黒装束の女」、ヴェルダの御使いからヒラクがプレーナへ行ったことを知らされる。そしてユピもまたセーカから忽然と姿を消した。
果たしてヒラクはユピと再会できるのか? ヒラクの母は何者か? プレーナの正体とは?
そのすべてがわかる時、ヒラクの新たな冒険が始まる。
ヒラクは朝方の夢を見ているような気分で眠りから覚めようとしていた。
まぶたの裏で、眩しさに吸い込まれるように、夢が白んで消えていく。
ヒラクは幸福な気分だった。
静かで、穏やかで、なつかしいような安心感があった。眠りと目覚めの狭間で、いつまでもこの安らかなまどろみに浸っていたいと思った。
そんな思いをひきずりながら目覚めたヒラクの目の中に飛び込んできた青空は、うっすらと緑がかっていた。
薄い緑の水膜が強い日差しをやわらげている。
たゆたう水面に光が揺らめく。
まるで水の中から空を見上げているかのような光景だった。
ヒラクは寝ぼけまなこでぼんやりと、夢の名残をひきずるような思いでいた。
(誰か……なつかしい人に会ったような気がする……)
幸福な気分で目覚めた朝は、そんな気分にさせられる。
けれどもそれが誰だったのか、ヒラクはいつも思い出せない。
「ヒラク」
その声でヒラクははっきりと目を覚ました。
「目が覚めた?」
琥珀色の瞳の女がヒラクの顔を覗きこんだ。
「母さん……?」
女は微笑みながら、ヒラクの緑色の髪を優しくなであげた。その細い指先のひんやりと冷たい感触をヒラクははっきりと覚えている。
「これは……夢?」
目の前の母は、ヒラクが記憶する七年前の姿とまるで変わらない。いや、その頃よりも美しく、若々しいとさえ感じられた。
ヒラクの母親の長い緑の髪は艶やかで、なめらかな肌は抜けるように白く、キメ細かくしっとりとしていた。そしてヒラクをみつめる琥珀色の瞳は深く透明に澄んでいる。
ヒラクには、目の前の母が現実に存在しているようには感じられなかった。
「ここはどこ?」
ヒラクは母から目をそらし、体を起こして辺りを見た。
不整形な水晶の柱が四隅に突き刺さるように立っている。
白濁した水晶の床は気泡を含む氷のようだ。
壁はなく、代わりに床の四辺に沿って樹木が立ち並んでいる。
ヒラクは、くるまれていた布から抜け出して立ち上がった。
白く濁った水晶の床は、はだしの足にひんやりとつめたい。
中心にある寝台も水晶でできているようだが、床や柱よりも透明度が高かった。寝台横の透明な台には銀の水差しが置かれている。
「ここは聖室の一つよ。選ばれた者だけが住まうことを許される場所なの。偉大なるプレーナとともにね」
「ここにプレーナがいるの?」
母の言葉を聞いて、ヒラクは急に落ち着きなく辺りを見渡した。
「おかしな子ね。すでにあなたはプレーナとともにあるというのに」
ヒラクの母は意味ありげな笑みを浮かべた。
「そうね、でもあなたがこうして私のもとに戻ってきたお礼をしなきゃいけないわ。一緒にいらっしゃい」
ヒラクの母は、身にまとう一つなぎの白い衣服の長い裾を床にひきずったまま歩き出す。
四方の柱の間を埋めるように生い茂る樹木の隙間に通路が伸びている。
ヒラクは母の後に続いてその通路を歩いた。
よく見ると、通路の左右は水に浸されている。水は淡い緑の光を放ち、直立した木々の根元は眩い水面下にあった。
水面から唐突に突き出したような木々の緑の葉は瑞々しく潤い、ぼんやり発光して見える。
ヒラクは先ほどからずっと気になっていることがあった。
奇妙なぐらいに静かすぎることだ。
母の衣擦れの音以外、聞こえる音が何もない。特に自然の中で感じられる音が何もしないということが、ヒラクには気味が悪かった。
葉の茂る音、鳥のさえずり、虫の羽音……。木々に生気を感じさせるのは、風であり、寄りつく鳥であり、動物であり、虫である。
ここにある樹木は枯れ木ではないが、ヒラクには、まるで死んでいるかのように感じられる。
そんなことを考えながら歩くうち、ヒラクはすでに別の場所に足を踏み入れていた。
白い氷壁のような水晶の壁が両側から通路を挟んで行く手に伸び、柱も樹木も消えていた。
天井は高く、床と同じ白く濁った水晶でできているようだ。
振り返れば長い廊下が伸び、水晶の壁が続いている。
いつのまに樹木が途切れたのか、ヒラクはまったくわからなかった。
「ぼんやりしていると迷子になるわよ」
振り返る母は、まるで小さな子どもに声を掛けるように言う。
確かにヒラクはぼんやりとうつろな状態でいた。夢の中にいるような浮遊感がどこまでもつきまとう。
ヒラクには、母と再会したという実感がまるでなかった。ずっと会いたかった母ではあったが、なつかしさよりもうれしさよりも、戸惑いと緊張が先にあった。
「母さん」
ヒラクは呼びかけた。
そして笑いかける母の顔をじっと見た。
ヒラクは、緑の髪の他に母と自分に何か共通のものがないかを探した。
ヒラクの目は赤みがかった茶色で、琥珀色の母のものとはちがう。だが父の黒い瞳よりは明るい。
肌の色もヒラクは抜けるように白いというわけではなく黄みがかっている。だが褐色のアノイ族の中では、肌の色素は薄い。
ヒラクは自分と母をつなぐものを必死にみつけようとしていた。そうすることでしか親子という実感が得られないのだ。
「……すっかり大きくなったのね」
どこか残念そうな顔をして、ヒラクの母はつぶやいた。
「そのままじゃ偉大なるプレーナの前には出られないわ」
ヒラクの母は眉をひそめ、背を向けて歩きだす。
「いらっしゃい」
ヒラクは黙って母の後についていった。そして自分の衣服を気にした。
黒地に赤と白の大きな幾何学模様が入ったアノイの厚手の長衣は砂埃で汚れていた。寝ているときにはずされたのか、脚絆も履物も身につけていなかった。それで母はだらしないと思ったのだろうか……。ヒラクはそんなふうに考えた。
白濁した水晶の壁の右側にアーチ型にくりぬかれた窓が連なる。
窓の向こうは庭園だった。
同じく廊下と思われるアーチ型の窓のついた壁に四方を囲まれた中庭だ。
真ん中には大きく丸い透明な水晶を半分埋め込んで周りを囲んだ泉があり、鮮やかな緑の水草が水面に浮かんでいる。その泉から放射状に遊歩道が伸びている。遊歩道以外の場所には、淡い緑の水が行き渡っていて、その水に浸るように草木が生えている。透明な水晶の遊歩道は、緑の水面に浮かぶ橋のようだった。空はヒラクのいた部屋と同じ水の膜がはられているかのようで、光が頭上でゆらめいている。
ヒラクはなぜかその場所が気になった。
そしてアーチ型の窓が途切れるまで、ずっとその中庭を眺めていた。
歩き進んできた廊下は、中庭を取り囲む四方の廊下の一つにぶつかった。
ヒラクはどこから庭へ入れるのか、行き当たった廊下を右に曲がって確かめてみたいと思った。
だが母はヒラクを振り返ることなく左へと曲がり、先へ進んでいく。左手にはすぐ階段があった。
いつものヒラクなら好奇心のままに右に伸びる廊下に向かっただろう。だがヒラクは遠ざかる母の背中を見て不安になった。そして必死に後を追いかけた。
ヒラクは階段を駆け上がり、母の手をつかんだ。
置いていかれてしまうという不安感と拭いきれない母への不信感がヒラクの中にある。
ヒラクは母の手を強く握った。そして母がその手を握り返してくれたことに心底ほっとした。
ヒラクは母と手をつないだまま、水晶の階段をゆっくりと上がった。
一段ずつ、白濁した水晶の透明度が増した。
階段を上がりきると分厚い氷のような水晶の壁に囲まれた場所に出た。
床は限りなく透明に近い。
正面にアーチ型の入り口がある。
小部屋の中心の床は四角くくりぬかれていて、淡い緑の水が床と同じ高さまで湛えられていた。緑に発光する水槽がぼんやりと足下に浮かぶようだ。
母は四角い堀池の前でヒラクの衣服を脱がし始めた。
「な、何?」
ヒラクは驚き、戸惑った。
「一人でできないでしょう? 手伝ってあげるわ」
ヒラクの母は微笑みかける。
「いいよ別に」
「自分でできるの? えらいわね」
母にほめられて、ヒラクは服を脱ぐことを拒むことができなくなり、おとなしくアノイの長衣を脱いだ。
「さあ、いらっしゃい」
母は衣服を着たままで、裸のヒラクの手を引いて、緑の水の中に入っていく。
底まで続く階段をヒラクは一段一段確かめながら、体を水に浸していった。
ヒラクが肩まで水につかると、ヒラクの母は、自分はもう一段だけ降りてヒラクと向き合った。そしてヒラクの体を肩から腕にかけて両手で優しくなでた。次に背中、胸から腹、尻から足にかけて、全身の汚れを洗い流すようにていねいにヒラクの体をなでさすった。
アノイの村では、ヒラクは川の流れで体を洗い清めていた。そうしないと母の部屋には入れてもらえなかった。ヒラクにしか見えない川の女がやさしく体をなでさすってくれた。母を失ってからもずっと。あの女は、自分が母の代わりとして求めて生み出した幻だったのだろうか……。ヒラクはそんなことをぼんやりと思った。
最後にヒラクの母は、頭だけ水に浸るように水際の床にヒラクを寝かせ、自分は水の中に立ち、ヒラクの髪を洗った。ヒラクは気持ちがよくなって、そのままうとうとと眠ってしまった。
「ヒラク」
母に呼びかけられ、ヒラクは床の上でハッと目を覚ました。
すでに水の中から出ていた母のひざまくらで眠っていたようだ。
「おれ、寝てた?」
「少しね」
ヒラクの髪も体もすっかり乾いていた。
「この格好……」
体を起こしたヒラクは、自分が身にまとう衣服を見て戸惑った。それは母と同じ白くなめらかな素材の服だ。母よりもすそは短く、袖もない。
アノイの村の女たちも胸元を開けた一つなぎの服を着ている。だが木の皮の繊維で織られているため、今身に着けている服のようなつややかさとなめらかさはない。それでも服の形は似ているし、何より母と同じような格好だ。
なぜ男である自分が女の装いをしなければならないのかと、ヒラクは恥ずかしいような情けないような気持ちになった。
「よく似合うわ」
満足そうな母の顔を見て、ヒラクは文句が言えなくなった。
「髪も切りそろえなきゃね」
長く伸びた前髪を母に指先でつままれて、ヒラクはふいっと目をそらし、口をとがらせた。
「それじゃまるで女の子みたいだ……」
「ヒラク……」
母は哀れむように我が子を見た。
「あなたは自分を男の子だと思っているの?」
「だって、そうじゃないか」
「……かわいそうな子」
母の琥珀色の瞳が潤んだ。
「あなたは女の子よ。プレーナの娘として生まれてきたの。ここにこうしているのが何よりの証拠よ」
ヒラクは混乱した。プレーナの娘という意味もわからなければ、なぜ今ここにいるのかもわからない。そして何より、自分が女の子だということが、どういうことなのかまったく理解できなかった。
「だって、父さんが、おれは男だって、みんなだって……」
「あの男にだまされてきたのよ」
突然、ヒラクの母の目に憎しみが宿った。
「あなたの父親は、それはひどい男だったわ。不浄の場所に私をさらい、聖なるプレーナから遠ざけた。そればかりか、プレーナの娘であるあなたの人生を変え、私から奪い去ったのよ」
「ちがう! 父さんはひどい男なんかじゃない! それに、おれを置いていったのは、母さんの方じゃないか……」
ヒラクの目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。母に置いていかれたという事実をヒラクはずっと認められなかった。口に出すとよけい悲しくなった。
「どうしておれを……捨てたの?」
「ヒラク……」
ヒラクの母は泣きじゃくる我が子を優しく抱きしめた。
「かわいそうに。あの男にそう言い聞かされてきたのね」
ヒラクは母の言葉に凍りついた。
「ちがう!そうじゃない!」
ヒラクは自分を抱きしめる母を突き飛ばした。
ヒラクは充血した目で母をにらみつけた。
ヒラクの母は、その目にヒラクの父イルシカを見る思いがした。
「あなたは誤解しているわ」
母は嫌悪感をあらわに目を細めた。
「私はあなたと一緒にここに戻ってこようとしたの。もしも生まれた子が女なら、プレーナの娘としてプレーナと共に生きる運命にあると、私はあの男に言った。そう、女ならば手放すという約束だった……」
ヒラクの母はくやしそうに顔を歪めた。
「あの男は卑劣な男よ。生まれてきたあなたを男と偽って、あの野蛮な地で育てることにした。本来の運命をねじまげて、あなたをプレーナから遠ざけて、そして私から引き離した」
「いなくなったのは母さんじゃないか!」
「ちがうわ!」ヒラクの母は言葉をかぶせるように言った。「私を追い込んだのはあの男よ。私はプレーナの娘。プレーナと引き離されては生きられない。それを承知であの男は、プレーナをとるかあなたをとるかと、私のことを追いつめた。いい?ヒラク、あなたと私を引き離したのはあの男よ。そしてあなたが本来のあなたとして生きる道を阻んだのよ」
「本来の自分?」
「そう、あなたは女の子で、プレーナの娘なの」
ヒラクはわけがわからないといった顔をする。
ヒラクは自分が男だと信じてずっと疑わなかった。いとこのイメルやアスルのようにひげが生えたり、身長が伸びてたくましい体つきにならないのは自分が異民族の子であるからだと考えた。
ヒラクには性差の意識はほとんどない。ヒラクは年よりもずっと幼い心の子どもだった。
「そんなこと急に言われても……。おれは男の子だよ。だって、ずっとそう思ってきたし……」
ヒラクは戸惑うばかりだ。そんなヒラクに強く言い聞かせるように母は再び繰り返す。
「あなたは女の子。プレーナの娘よ。プレーナと一つになるために私から生まれてきたの」
「そんなの、おれ、知らない。そんなことがしたくてここに来たんじゃない」
ではなぜ自分はここにいるのか、ヒラクにはわからない。自分の気持ちもわからなかった。ただ母に抱きしめてもらえればそれでよかったのか? 何をこの母に求めるのか? 心の中はぐちゃぐちゃで、どう整理していいのかもわからずに、ヒラクは目を床に泳がせる。そんなヒラクの髪をなであげ、母は優しく微笑んだ。
「今はわからなくていいわ。ただこれだけは忘れないで。あなたはプレーナの娘なの。ここにいるのが何よりの証拠よ。プレーナの娘であるあなただからこそ、ここに来ることができたのよ。いつかあなたが私のもとにこうして戻ってくることを私は信じ、祈ってきた」
ヒラクの母は立ち上がり、ヒラクに手をのばした。
「さあ、行きましょう。ここにあなたがやってきたのも、偉大なるプレーナのお導きに他ならない。お礼を言うのよ。いらっしゃい」
ヒラクは座り込んだまま、母の手をつかむのをためらった。そんなヒラクの戸惑いを無視して、ヒラクの母は強引に腕をつかんでヒラクを立たせた。そして堀池の向こうにあるアーチ型の入り口の前までヒラクの手を引いて歩いた。
アーチ型の入り口から、透明な水晶の床が先へ続いていた。
独特な香りが漂ってくる。母の髪からもほのかに香る。それはヒラクの幼い頃の記憶を呼び覚ますなつかしい香りだった。
入り口の向こうから、何か異様なうめき声のようなものがかすかに聞こえてくる。よく聞けばそれは人のものとわかる。
……還元の主……偉大なるプレーナ……
ヒラクはアーチ型の入り口をくぐるのをためらった。独特のにおいのせいではない。うめき声のせいでもない。ヒラクは、何か密度の濃い空気のかたまりのようなものが前方から押し寄せてくるのを感じた。
「どうしたの?ヒラク。行くわよ」
母に手を引かれるが、ヒラクは足を踏み出せない。
「私が一緒よ。だいじょうぶ。手をつないでいてあげるから」
その言葉に何度も裏切られてきたとヒラクは思うのだが、それでもその手を離せないのは自分の方だと知っていた。
「ここを通り抜けたとき、あなたは生まれ変わるのよ。運命をやりなおすの」
ヒラクは鉛を引きずるように重い一歩を踏み出した。
入り口から中に入ると、ヒラクは密度の濃い空気に圧迫され息をつまらせた。
横長で凸型の透明な水晶のかたまりが、目の前の視界をふさいでいる。
ヒラクはそれを正面に見ようと回り込んだ。
正面から見ると、凸型の水晶は二段の祭壇になっていて、上の段の真ん中の突き出た頂上部には、小さなアーチ型の穴が穿たれていた。
下の段の真ん中、ちょうどアーチ型の穴の下には、大きな銀の器が置かれていて、そこには淡く発光する緑の水が湛えられていた。
器の両側には銀の燭台が置かれている。ろうそくのない燭台の上に緑の光がぼんやりと浮かんで見える。
ヒラクは目をこすった。
他にも不思議なのは、その祭壇の上を天蓋のように飾る草花だ。
まるで空中に浮遊しているかのように、白い小さな花をたくさんつけた緑の草が高いところからしだれている。
祭壇と天蓋のある前方から、曇りなく透明な水晶の床が後方に伸びていた。
遠く離れた場所に祭壇と向き合う大きなアーチ型の入り口がある。
入り口は観音開きの銀の扉で閉ざされていた。
四方を取り囲む透明な水晶の壁を通して見えるものは何もない。
ヒラクは不思議に思った。
広い空間には誰もいない。
ここに入る前に聞こえた異様なうめき声は一体どこから聞こえたのか?
辺りはしんと静まり返っていた。
ヒラクは上を見上げた。
天井はあの緑の水膜だ。空の青さも通さないほど分厚いものに感じられた。水を通すかすかな光が影を落とし、流水模様が床に揺らぐ。漂う煙で室内全体がヴェールを透かして見るようにうすぼんやりとしていた。
煙の源は水をたたえた器の前に置かれた大きな香炉にある。木の香りのような、甘い蜜のような独特な香りはここから発生していた。鼻腔にかすかに柑橘系の刺激を残すその香りをヒラクはよく知っていた。
アノイの村で、ヒラクの母は毎晩銀の器の水に祈りを捧げながら、薄黄色の粉を練って固めたようなものを燃やしていた。それは燃やすと独特な甘い香りの煙を発生させた。母が去った後も、母と過ごした小部屋にそのにおいはしみついていた。次第に薄れていく残り香に、ヒラクは母の記憶が過去に遠ざかっていくのを感じた。
だが忘れるということは、記憶を捨て去ることではない。記憶は心の奥底に深く沈み込んでいる。ふとしたことでかきまわされて、浮かぶ記憶の断片が、心を鋭く傷つける。
鼻先で甘く、肺でむせかえるような独特の香りは、ヒラクが母といた頃の記憶を強烈に呼び覚ます。
母はあの頃と同じように銀の水の器の前にひざを折って座っていた。そしてあの言葉を口にする。
「偉大なるプレーナよ
万物を満たす大いなるものよ
命の源、還元の主、
永久に一なるものよ
すべてを捧げん
偉大なるプレーナ
我が命は共にあり
大いなる一つのものとなり……」
ヒラクが幼い頃に何度も聞いた呪文のような言葉だ。
そしてヒラクはあの頃と同じ光景を目にした。
母は太ももをこぶしで打ちながらリズムをとる。
呪文のような言葉はリズムにのって朗々と語られる。
太ももを打つこぶしは力強さを増し、リズムは加速する。
長い緑の髪を振り乱し、前後に体を揺さぶって、母は息も絶え絶えに、ひたすら同じ言葉を繰り返す。
壁に、床に、声は反響して広がり、空間全体の空気が振動する。
ヒラクの母の言葉の隙間にうめき声が聞こえる。
……偉大なるプレーナ……
……罪をお許しください……
振り返ったヒラクは、透明な水晶の床のあちこちに、しみのように浮かぶ影を見た。辺りに何かの気配が漂う。
ヒラクはこの感覚を知っていた。
アノイの村で川の神を見たとき、今のように水面に気配が漂った。
ヒラクはそのときと同じように、視界全体をぼんやりと見るようにした。
すると床のしみの影の一つ一つが、次第に人の形を作っていった。
床のあちこちに人々が現れては消え、消えては現れる。現れるたびにそれぞれがまるでちがう人物になる。だが人物は変っても、そのほとんどが若い娘の姿であり、そしてみな同じ動作を繰り返していた。ひざをつき、両手で椀を作り、そのまま頭上に掲げるようにしてから口を覆い、胸に手を当てる。
ヒラクはこの動きをすでに知っていた。
ヒラクは明滅するように入れ替わる娘たちのうちの一人に目を止めた。
(見たことがある……)
つい最近のことだ。
思い出そうとするよりも先に脳裏に焼きつく映像がヒラクの中で甦る。
緑の光に照らされた長い地下通路が見えた。
地下では緑の紐を腕や足に巻きつけた人々が暮らしていた。
地下の一室では多くの人々が今ここで若い娘たちがしているような祈りを捧げていた。
人々は緑の光に照らされると歓喜にむせび、そして両手で椀を作る動作をして、胸に手を当てるとそのまま動かなくなった。
他の室には病人もいた。
ヒラクはその病人を見たとき、癒してあげたいと思った。
だが、緑の光に包まれた病人は息をひきとった。
その病人のことをヒラクはよく覚えている。栗色の髪をしたまだ若い娘だ。青白い顔をして、瞬きすらせず、うつろな目で宙を眺めていた。緑の光に照らされると、くちびるを震わせながら、かすかに笑みを漂わせ、一筋の涙を落として瞳を閉じた。
その娘が、今ここで、祭壇に向かって一心に祈りを捧げている。
ヒラクはなぜここにいるのか尋ねようと娘に一歩近づいた。
だが娘は胸に手をあててひれ伏すと、次に体を起こしたときには、まったくちがう娘の姿に変ってしまった。そしてまた手で椀を作る同じ動作を繰り返す。
ヒラクは少し離れたところで祈りを捧げる年のいった女の顔も気になった。誰か知っている人物と似ている気がする。
ヒラクはその女をじっと見た。その女は徐々に姿を変えていった。
よく見ると、ちがう人物に変っていくのではなく、若返っているのがわかった。
祈りを捧げる女たちの中には若い娘ではない者もいる。だが、その女たちが祈りを捧げると姿が若返っていく。
今、ヒラクが見ている見覚えのある女もそのうちの一人だ。
女が顔を覆い隠すように椀を作った手を胸に下ろしていくと、すでにその姿は若い娘に変化していた。
そしてヒラクはその変化した娘の顔を見て驚いた。
(アクリラ……)
その娘は、地下の町セーカで出会った娘アクリラに似ていた。
だが、それはアクリラではないこともよくわかる。
似ているというだけで、本人とはちがうとはっきりと見分けられる。
ヒラクは、自分がアクリラという娘と出会い、地下の町に入り込んだことを思い出した。アクリラは病の母親を助けてほしいとヒラクに頼んだ。
ヒラクは直感した。このアクリラに似た娘は、病死したというアクリラの母親だ!
ヒラクはアクリラの母親を助けることはできなかった。そもそも助ける力などないとヒラクは思っていた。ヒラクは誰か別な人物に間違われていたのだ。
(誰だっけ……? アクリラはおれを誰とまちがえていたんだ?)
ヒラクはもつれた糸を解いていくように記憶をたどった。
すべてはアクリラの誤解から始まった。
ヒラクは何の考えもなしに地下の町へ入り込んだ。
一人ではなかった。誰かが一緒だった。そしてその誰かを助けようとした。それは誰なのか……。
あいまいな記憶がはっきりとし始めた。
だが、祭壇の前に座るヒラクの母が一層声を張り上げると、つかみかけた記憶は一部分だけ残してはじけ飛んだ。
ヒラクが振り返って見た母は、何かにとりつかれたように、前後左右に上体を激しく揺らしながら髪を振り乱していた。
高まる母の声に、まばらにちらばる娘たちは唱和した。
娘たちは緑の光を体から放った。
そしてその光に溶け込むようにして一斉に姿を消した。
娘たちの祈りの声だけが残り、前方の祭壇に向かって、高波のように押し寄せてくる。それを背で受けるヒラクの母の声は厚みを増し、空間全体が人の声とは思えない音響で満たされた。
祈りの声が室内に重く充満する。
ヒラクは圧迫する密度の濃い空気に息をつまらせた。
やがて祈りの声が止んだ。
母は透明な祭壇に向かい、深々と頭を下げてひれ伏している。
ヒラクは母のそばに近寄る。早くここから出たいと思っていた。
「ヒラク、ここに座りなさい」
ヒラクの母は顔を上げた。乱れた髪が汗で顔にはりついていた。頬は紅潮し、琥珀色の瞳は爛々と輝いている。
ヒラクはひざを折り、おとなしく母の隣に座った。五歳の頃まであたりまえのようにそうしてきたのだ。かき乱されて浮上しかけた記憶は再び澱みに沈み込む。
「ヒラク、偉大なるプレーナにお礼を言いなさい。私たちは偉大なる御方のお導きにより再びこうして会うことができたのだから」
「どこにプレーナがいるの?」
ヒラクは母の視線の先を目で追った。そこには水晶の祭壇と銀の器があるだけだ。
「もしかして、あの水のこと?」
ヒラクは器の中の水を指して言った。
「あれはプレーナの一部よ。その上にあるものを見なさい」
器が置かれている場所の一段上の真ん中の四角く突き出た部分にはアーチ型の穴がうがたれている。
「あの入り口は私たちがここに入ってきた入り口と同じものなの。あの奥にプレーナがお住まいになる。私たちの聖室もあの奥にあるの」
ヒラクには母の言葉の意味が理解できなかった。自分が入ってきたアーチ型の入り口は祭壇の裏にある。それがなぜ目の前の祭壇の突き出た頂上部の穴と同じだというのか。つまりその穴も象徴ということか。
だが、そんなことを考えるのも意味はないように思えた。母が言うことを否定する気になれなかった。ただ母が望むように振舞うにはどうしたらいいか、ヒラクはそのことばかり考えていた。
「お礼ってどうしたらいいの?」
ヒラクは母の顔色をうかがいながら尋ねた。
「両手を胸の前で合わせて祈るのよ。私の言葉に続けて同じことを言って。できるわね?」
ヒラクはうなずいた。母は祭壇に向かって手を合わせた。
「偉大なるプレーナよ、あなた様のお導きにより、私たちは再会することができました」
ヒラクは母に続いて言葉を繰り返した。
「偉大なるプレーナよ、あなた様のお導きにより、私たちは再会することができました」
(ちがう……)
ヒラクはのどの奥に違和感を覚えた。
「還元の主プレーナよ。あなたと一つとなることを望み、私はここにいるのです」
「還元の主プレーナよ。あなたと一つとなることを望み、私はここにいるのです」
(口から出るのは誰の言葉なんだ?)
ヒラクは息苦しくなった。
「大いなるあなたの御意志に感謝します」
「大いなるあなたの……」
そこまで言いかけて、ヒラクは言葉を吐き出すことができなくなった。まるで見えない力で何かに首をしめつけられているかのようだ。それはヒラク自身の抵抗だった。
「どうしたの?ヒラク」
母は不思議そうにヒラクを見た。
(ちがう……。自分はここに連れてこられたんじゃない。来たいと思ったから来たんだ)
ヒラクは強く優しいまなざしを思い出した。記憶の中の父イルシカがヒラクに語りかけてくる。
「ヒラク、自分の人生を、自分の意志でしっかり生きろ」
ヒラクは父の言葉に自然とうなずいていた。
ヒラクの母は不快そうに眉をひそめた。ヒラクの目の奥にある強い意志の光が、イルシカの存在を思い出させる。
「ヒラク……」
ヒラクの母は手をのばし、その目を避けるかのように我が子を胸に埋めた。
「あなたは小さな子どもなの。何もわかっていないのよ」
その声とぬくもりがヒラクの抵抗を弱める。
「だいじょうぶよ。あなたは私の一部だったのだもの。大いなるプレーナの一部でもある。穢れはじきに浄化されるわ」
母の言葉を聞きながら、ヒラクはゆっくり目を閉じた。
思い出しかけた記憶も懐かしい誰かも目的も、すべてがどうでもよくなった。




