セーカの二神
(前回までのあらすじ)
カイルに気絶させられたヒラクは、暗い地下の一室で目を覚ます。そこでヒラクは緑色に発光する不思議な女とその女に祈りを捧げる老人の姿を見る。そこに別の老人が現れると緑の女は消え、祈りを捧げていた老人は干からびたミイラに変わった。現れた老人に案内された「井戸の間」で、ヒラクは母親に良く似た娘キルリナと恋人のザカイロの逢瀬の場面を目撃する。それはヒラクにしか見えない光景だった。
「老主の聖室」から「井戸の間」を通り抜け、数名の屈強そうな男たちが控える室を通り、右へ進むと、広々とした室がある。
そこは「老主の間」と呼ばれている。
その室は床全体が低くなり、通路と段差がついていて、中央には床から掘り出したような大きな石のテーブルがある。
テーブルの周囲には厚い羊毛の敷物が敷かれていて、ヒラクは老人にそこに座るよううながされた。
老人はヒラクの向かいに座ると、室の右隅にある通路口に向かって手を二回打ち鳴らした。
それを合図に二人の中年女が室に入ってきた。
赤茶色の髪、黄土色の瞳の女たちはやせてはいたが、アクリラのように貧弱で病的な感じはしない。
服装も少しちがう。誰も白い布を頭からかぶってはいない。丈もそでも短い一つなぎの服を着ている。腕にも腰にも緑のひもは巻きつけていないが、代わりに両手両足に石の輪のようなものをはめていた。彼女たちの表情は暗く、どこかくたびれたような印象を与える。
女たちは通路の入り口でひざをついて顔を伏せた。
「おなかがすいたでしょう。今、食事を用意させますよ」
老人は無表情のまま、子どもの機嫌をとるように声を和らげて言った。
「いらないよ」
そうは言うが、ヒラクのお腹は正直で、空腹を訴えるように、大きな音をたてて鳴った。
それをごまかすかのように、ヒラクは声をかぶせて言う。
「ユピだっておなかすかせているかもしれないのに、自分だけ食べるなんてできないよ」
「ユピ?」
老人はのんびりと聞き返した。
「ああ、一緒にセーカに入り込んだという神帝国人のことですか」
「ユピはどこ?」
「まずは私の質問に答えるのが先です」
老人は通路の入り口に控えていた女たちに目配せして奥にさがらせた。
「あの人たちは?」
「大罪を祓わんとする者たちです。老主である私に仕えることは、すなわちプレーナの下で働くということ。彼女たちの罪を祓えるのは偉大なるプレーナのみ」
「老主って、さっきのおじいさん……いや、死体のことでしょう?」
ヒラクは老主の聖室にいたミイラのことを思い出して言った。
「老主は肉体の死からプレーナの生へと移行する者。彼は旅立ちの段階の者であり、私はそこへ移行する段階の身です」
「なんかよくわからないけど、あんたもまた老主ってことか」
「ええ。私もあと少しすれば、聖室に入ることになるでしょう。そこで肉体は朽ちはじめ、生命の水そのものになるのです。そしてプレーナと一体となることが叶うのです」
老主は抑揚のない声で答えた。
「なんかよくわかんないけど、ここにいるみんながそういうふうにプレーナと一体になって死んでいくの?」
ヒラクが尋ねると、老主は、おかしそうに笑った。
「ご冗談を。老主とは、罪深きセーカの民とプレーナをつなぐ祈りの主です。民の祈りを一身に請け負い、プレーナの慈悲を求め、そして罪深き者たちに慰めを与えているのです。いわば特別な身分なのですよ」
「なんで一人だけ特別なんだよ。そんなのおかしいよ。そもそも罪って何のこと?」
「やれやれ、あなたにはどこから説明すればいいのか……。こちらから質問する以前の問題ですね」
老主は大げさに息を吐いた。
「セーカの民は、プレーナの怒りを買い、住み慣れた土地を奪われました。光りなきセーカの民ももとは地上の住人。地上がまだ肥沃の地であった頃、セーカの民は羊などの家畜を放牧して暮らしていました」
「ヒツジって何?」
ヒラクは山に住む野生動物以外は知らなかった。
老主はめずらしいものを眺めるようにヒラクを見た。
「羊を知らないのですか……。羊とは、密集した白い毛におおわれた哺乳動物のことです。羊の乳は飲めますし、その肉も食べることができます。毛は織物に利用され、古くからセーカの民の生活にはなくてはならない家畜でした。その羊の群れを野に放して飼育していたのが羊飼いです」
説明を聞いても、ヒラクは羊というものがどういうものか想像もつかなかった。
老主はかまわず話を続ける。
「当時の羊飼いたちは、山からやってきては羊を食い荒らす狼を怖れていました。やがて羊飼いたちは山の向こうに狼たちをあやつる恐ろしい存在がいると考えるようになりました。それが『狼神』と呼ばれる神です。彼らは狼神に定期的に羊を差し出すことで、山の狼たちの襲撃を緩和しようとしました。やがて狼神は大地の神として崇められるようになり、人々の信仰の対象となっていきました」
「狼神……」
ヒラクは山から自分をここまで導いた銀の毛色の狼のことを思い出した。
「セーカの民がもともと信仰していたのは、命の源である水の女神、プレーナです。地に湧き出る水こそプレーナの恵み。それなしでは生きられないのです。……しかし人は愚かです。あたりまえにそこにあるものへの感謝は次第に薄れていきます。やがて、セーカの民の中から、プレーナに背信し、狼神に忠誠を誓う使徒たちが生まれました。日々の生活の糧、目先の利益となる羊を何より第一とする者たちの間で狼神信仰が広まり、いつしかプレーナまでもが狼神に従属するものとして扱われるようになったのです。このままではプレーナの怒りを買ってしまうと、当時のプレーナ教徒たちは怖れました。そしてそのとおりになってしまった」
老主の目が憎悪の光で鈍く光る。
「プレーナは怒り狂い、肥沃の大地を一夜にして不毛の砂漠に変えました。何もかもが一瞬で奪われた。すべてはプレーナへの感謝を忘れたセーカの民への罰なのです」
その言葉で、ヒラクはアノイの老人たちの言い伝えを思い出した。
『今ここにある恩恵の数々に感謝して生きねばならない。神々の怒り一つですべては一瞬でなくなってしまうのだから』
それはアノイの老人の口癖のようなものでしかないと思っていたが、もしかしたら、山の向こうが一瞬で砂漠になったことについて言っていたのかもしれない。そう考えるとヒラクには納得がいった。なぜ山の向こうが禁忌の地とされていたのか、なぜアノイの人々は山のこちら側の自分たちの生活を頑なに守ろうとしていたのか。
「それからというもの、セーカの民はプレーナの怒りがとけることをひたすら願い、地下で暮らしているのです。セーカの民は生まれたときからプレーナへの罪を贖う生活をしています。己の罪を自覚し、ひたすらプレーナへ祈りを捧げる。地上に出ることは叶わず、太陽の光を存分に浴びることすら叶わない。それが罪とともに生きるセーカの民のあり方なのです」
「へんなの。自分で自分のことをいじめて何になるんだ」
ヒラクの言葉を聞いて老主は不快そうに眉根を寄せた。
ヒラクは気にせず、さらに言う。
「大体さ、外に出られないっていうなら、どうやって食糧を調達してくるの?」
狩りや木の実の採集で食糧を調達しているアノイのヒラクにとって、それはとても不思議なことだった。
「それはさきほどの女たちの一族、狼神の旧信徒の役目です。彼らは代々プレーナ教徒への労働奉仕が義務づけられています」
「狼神の旧信徒?」
「狼神の信徒とは、かつて狼神信仰が栄えたときに狼神を崇拝していた者たち、もしくはその中枢にいた狼神の使徒たちに従った者たちのことです。彼らは、狼神を信仰しない者を「いけにえの羊」と称し、信仰を名目に命を奪ってきました。彼らの過激な信仰が、多くのプレーナ教徒を追いつめ、堕落させました。彼らの一族は、その大罪のために、自ら外の世界へと赴きます。そして我らに食糧や物資を差し出すことで、プレーナの罪を贖うすべを得ているのです」
「でも、その狼神の旧信徒たちだって、同じセーカの民じゃないか」
「同じではありません」
老主は間髪いれずに否定した。
「我らと彼らとでは生まれがちがいます。彼らは悪しき一族の血統。さらなる罪を負うべき者たちなのです」
「そんなの、なんだかまちがってる」
ヒラクは、まっすぐな瞳で老主を見てきっぱりと言った。
老主は一瞬不快そうに顔を歪めたが、すぐに取り澄ましたような表情を繕った。
「……確かに、プレーナの目から見れば、我らも彼らも等しき者かもしれません。だからこそ彼らの冒涜が、セーカの民全体を危険にさらすことになる」
「どういうこと?」
「狼神の使徒はいまだ暗躍しています。そして封印された狼神の復活のときを待っているのです。ただ、それが誰であるのかはわからぬところ。それに、狼神の旧信徒たちの働きにより、セーカの町が地下生活を営める環境にあることも確かです。ですから彼らを一掃するわけにもいかない。ただ、狼神の使徒につながると思われる疑わしき者を罰するしか手立てはないのです。それに……」
老主は急に声をひそめた。
「彼らは神帝国と深くつながっています」
「シンテイコクって何?」
カイルはユピのことを「神帝国人」と言った。ヒラクはそのことが気になっていた。
父イルシカは、プレーナにとどまろうがユピの国で暮らそうがかまわないとヒラクに言った。
だが、そのユピの国について、ユピはこれまで何も語ろうとはせず、どこにあるかもまったくわかっていなかった。
老主は、ひさしのようにたるんだまぶたをわずかに持ち上げてヒラクをじっと凝視した。
「神帝国の者を供にしているあなたが神帝国をご存じないと?」
「知らないよ、神帝国なんて」
「……ほう」
老主はまためずらしそうにヒラクを見て目を細めた。
「神帝国とは南方にできた新しい国の名称です。今から三十年ほど前になるでしょうか。神帝を名乗る男がこの地に現れました。彼は自分を神だという。その神帝の信奉者たちが、どこからか次々とやってきて、その数は増すばかり。今では強大な国となりつつあります。彼らはセーカの地をも我が物にしようともくろんでいます」
老主の目が鈍く光った。
「だが真の神、偉大なるプレーナの存在が、神帝の野望を阻止しているのです。しかし、プレーナの怒りの地である砂漠の南は、今ではほとんど神帝国が支配しています。その神帝国の地で働くことで、狼神の旧信徒たちは食糧を得ています。彼らは、太陽の下に身をさらすことに加え、プレーナを冒涜する新たなる存在の下で働くことを、さらなる罪として自分たちに課していると言います。ですが、本当のところはどうでしょうか……」
老主は探るような目でヒラクを見るが、ヒラクはきょとんとしている。
「どうって?」
「彼らは神帝国とつながり、我らを裏切る気かもしれません。もともとプレーナを裏切った者たちの一族です。プレーナを滅したいとする神帝に加担しても不思議ではありません」
「ふうん」
今までの話を、ヒラクは大ざっぱにしかとらえていなかった。
ただヒラクの頭にある図式は、まず「プレーナ」、「狼神」、「神帝」という三つの神がいること、そのそれぞれの信者が「老主を筆頭とするプレーナ教徒」、「狼神の使徒とそれに従う狼神の信徒」、「神帝国の人々」であることだ。
プレーナ教徒も、狼神の使徒も信徒も、同じセーカの民である。
だが、狼神はプレーナに封印され、神帝はプレーナを滅ぼそうとしていて、今なお残る狼神の旧信徒たちはそれに協力しようとしているかもしれないと老主は疑っている。
「なんだかよくわかんないけどさ、とりあえず、その狼神の旧信徒たちと仲良くしないと、食糧が手に入らないんだろう? だったら仲良くすればいいじゃないか。みんな同じセーカの民なんだから」
ヒラクの気楽な口調に老主はあきれて物も言えない様子だ。
「話は終わり? じゃあ早くユピのところに連れて行ってよ」
そう言って、ヒラクは立ち上がるが、老主はその場を動こうとはしない。
「私の質問がまだです。ここまで話してみてわかったのは、あなたが何も知らないということだけです。それで、あなたはどこから来たのですか? なぜ神帝国人と行動を共にしているのです?」
「山の向こうだよ。神帝国のことは知らない。これでもう答えただろう。ユピはどこ?」
老主は何も答えない。
「ユピはどこ? 教えてよ!」
ヒラクは大声を上げた。その声で隣の室に控えていた男たちが入り口からなだれこんできた。
「あなたはご自分の立場というものがまるでわかっていないのですね」
老主は数名の男たちに取り囲まれたヒラクを見て笑った。
「そもそもなぜあなたが老主の聖室にいたと思うのですか?」
「そんなの知るか」
ヒラクは老主をにらみつけた。
「あの聖室はプレーナに許された者しか立ち入ることができない神聖な場所。そこであなたをプレーナの裁きにかけたのです」
「何それ?」
ヒラクは怪訝な顔をする。
「もしもあなたがヴェルダの御使いでないのなら、プレーナはあなたを受け入れることはないでしょう。あなたが本物であるならプレーナの仲介者として、老主である私に啓示を告げることでしょう」
ヒラクには老主の言っていることがさっぱりわからなかった。
「……なんでそんなことになってるの? おれ、アクリラの母さんのところに連れて行かれようとしていたんじゃ……」
「アクリラの母親は死にました」
「え? 死んだって……」
ヒラクは驚いて老主を見た。
「アクリラの母カトリナは、今朝息を引き取りました。すでに彼女は三階層の墓地で眠っています」
それを聞いて、ヒラクは黙り込んだ。自分がどうにかできることではなかったが、それでもなぜかいたたまれない思いだ。
「カトリナはプレーナの熱心な信仰者でした。彼女は、自分の病はプレーナから受けた罪の証だとして、治療を一切拒んでいました。ただ分配の水だけを飲み、裁きをプレーナに委ねたのです。アクリラは母の病の回復を祈りながら、何度も私のもとを訪れては、生命の水をカトリナに与えるよう訴えました」
「『分配の水』と『生命の水』って何がちがうの?」
ヒラクの質問に老主は日ごろから言い慣れているかのように答える。
「生命の水とはプレーナそのもの。この地上の砂漠のどこかに存在するプレーナからのみ得られるものです。生命の水は満月の夜にだけ、ヴェルダの御使いにより分配されます。分配された生命の水は老主の聖室と御使いの聖室にまつられ、残りは『井戸の間』の湧き水に注がれます。井戸の間に湧き出す水はプレーナが罪深き我らにわずかばかりの生きる糧として与えるもの。この水に生命の水を注ぐことによって、プレーナ教徒の飲み水はプレーナの息吹が宿った分配の水となるのです」
「老主の聖室」で緑の女の幻を見た場所にあった水がヴェルダの御使いが運んだ生命の水であり、さらにヒラクがヴェルダの御使いの天井画のある「御使いの聖室」で見た、銀の器に入っていた水も生命の水ということになる。そして、キルリナとザカイロの幻影を見た場所に湧き出していたのが「井戸の間」の湧き水であり、そこに生命の水を注ぐことで、その湧き水が分配の水と呼ばれるものになるということだった。
だが、次から次へと疑問が湧き、関心事がすぐに変わるヒラクは、前の質問を理解する前にさらに次の質問をしてしまう。
「そもそもそのヴェルダの御使いって何?」
「……同じことを私はずっとあなたに対して思っておりました」
老主はもう口元に笑みを作ることはなかった。
「あなたがヴェルダの御使いであるなら、すべてをご存知のはず。だがあなたは何も知らない」
老主は目を閉じた。そして自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「それでもあなたは老主の聖室でプレーナと対面しておきながら裁かれることもなかった」
老主は再び目を開けると、じっとヒラクを見た。
「あなたは一体何者です?」
ヒラクは冷たい敵意のようなものを感じた。
「羊も知らない。神帝国も知らない。見たこともない服装をしている。あなたは一体どこから来たのですか?」
ヒラクは老主を警戒し、黙り込んだ。
しばしのにらみ合いのあと、老主はあきらめたように目を伏せた。
「……しかたありませんな」
その言葉には冷淡な響きがある。
「あなたは啓示をくださるどころか、あまりにも何も知らず、何も答えもしない。黒装束の民ならば、あなたの身の処置を指示してくださることでしょう」
「黒装束の民?」
それは、キルリナとザカイロの会話にも出てきた名前だ。
キルリナは、黒装束の民によってプレーナへと導かれる娘たちのうちの一人だった。
(黒装束の女……)
ヒラクはふと父の言葉を思い出した。
『まず砂の地に出る前に、山を下りたところで狩り小屋を作り、そこで満月を待て。黒装束の女が現れるはずだ。その女がプレーナへと導き、母親に会わせてくれるだろう』
黒装束の女について、父はくわしく話さなかったが、砂漠には「黒装束の民」と呼ばれる者たちがいて、彼らはプレーナに通じているということはヒラクに伝えていた。
「その黒装束の民はどこにいるの? 会える?」
ヒラクは老主につめ寄った。老主は侮蔑するような目でヒラクを見る。
「黒装束の民のことも知らないような者をヴェルダの御使いと思うとは……」
「いいから教えてよ」
「……月が満ちる日の夕暮れに分配交換が行われます。黒装束の民を従え、ヴェルダの御使いが我らに生命の水を与えにくるのです。我らの捧げものに、このたびはあなたも加えることにしましょう」
「月が満ちる日……。満月になればかならず黒装束の民に会えるんだね」
「ええ」
老主は目を細め、貼り付いたような笑みを向ける。
「それまでどうぞごゆっくり、こちらでお過ごしください」
そう言って老主は立ち上がり、室から出てこうとした。
「ちょっと待ってよ。ユピのことを教えてよ」
ヒラクはユピの安否が気になった。だが老主はユピには何の関心もないようだ。
「あなたを私のもとに連れてきた見張りの者によれば、プレーナ教徒により保護されているそうです。その者が神帝国側の人間であるのか、ヴェルダの御使いの従者であるのかは、あなたが何者であるのかわかればはっきりすることでしょう」
ユピを保護しているというのはカイルかテラリオのことだろうか……。
ヒラクは考え込むように再びその場に腰をおろした。老主は配下の男たちに見張りを命じ、井戸の間につながる室の方へと姿を消した。
老主がいなくなってしばらくすると、ヒラクは落ち着きない様子で辺りをきょろきょろ見回した。
そしてそばにいた男に尋ねる。
「ねえ、おしっこしたいんだけど、どこですればいいの?」
男たちは顔を見合わせ、ぼそぼそと小声で話し合ったが、やがて一人がヒラクの前に進み出て答えた。
「そこの通路を進んですぐ右だ」
ヒラクは教えられた通路を先に進んだ。
先ほど狼神の旧信徒の女たちが出て来た場所だ。
両側の壁のくぼみに等間隔に置かれたランプに照らされて、通路が長く伸びている。すぐ手前には右に行く細い通路があった。
(こっちに行くと便所か……)
ヒラクは通路口で男たちが見張っていないことを確かめて、さらに奥へと進んだ。
途中、水がめがずらりと並んでいる室をみつけたヒラクは、それが普通の飲み水であることを確かめてから水を飲み、水袋にも補充した。
通路に戻り、先へ進むと、左の岩壁にあいた孔の向こうから話し声が聞こえてきた。
ヒラクが室に飛び込むと、狼神の旧信徒の女たちが小さな悲鳴をあげて、驚いてヒラクを見た。
先ほど老主に呼ばれて姿を見せた二人の中年女の他にさらに年のいった女が三人と若い娘が一人いる。
「驚かせてごめん! ちょっと、聞きたいことがあって……」
ヒラクが言うと、女たちは困ったように顔を見合わせ、ヒラクにはわからない言語でひそひそと小声で話しはじめた。
室の真ん中には、大きな丸石の調理台があり、隅には大鍋などの調理器具が積まれている。
壁の下の方にぽっかり広めにあいた通気孔の前には石のかまどが設けられ、煮炊きできるようになっている。今は火もすっかり消えた様子だが、調理台の上に置かれた素焼きの茶器からは湯気が上り、香ばしい匂いがした。
やがて女たちは話すのをやめ、一番年若い娘が、おずおずとヒラクの前に進み出た。
「……あなたは、どうしてここに?」
娘はヒラクにもわかる言語で話した。
「その言葉で話せるの?」
ヒラクが聞くと、娘は小さくうなずく。
「狼神の信徒の血を引く者とはいえ、私はプレーナを信仰するプレーナ教徒です。祈りの言葉はわかります」
「そっか。助かるよ。おれ、ユピを探してるんだ。どこにいるか知らない?」
ヒラクはまっすぐ娘を見て言った。
娘は目を伏せ、落ち着きなく瞬きを繰り返す。
「……実は、私はそのためにここに来たのです。あなたがお探しの方のところへ、あなたを連れていくために……」
「ほんと?」
ヒラクは顔をぱっと明るくした。
「ついてきていただけますか……」
若い娘はそう言うと、手燭のランプを持ち、かまどの背後の壁の通気孔に身をかがめるようにしてもぐりこんだ。
戸惑うヒラクにその場にいる女たちが言う。
「後に続いてください」
「さあ、老主様にみつかる前に早く」
他の女たちは室の外の様子を不安げにうかがっている。
そのうちの一人がヒラクに干し肉やチーズを渡した。
「お食べ。おなかがすいているんだろう?」
そう言ったのは、先ほど老主の室の通路口にひかえていた女のうちの一人だ。
他の女も干しブドウやパンを手渡そうとする。
その言葉はヒラクにはわからなかったが、自分に対して敵意がないのだけはわかった。
「ありがとう、みんな」
ヒラクが明るく笑いかけると、その場にいる者たちは緊張した面持ちでぎこちなく微笑んだ。
ヒラクが通気孔の向こうに姿を消すと、調理場の女たちは複雑な表情で気まずそうにしていた。
「まだ子どもじゃないか。かわいそうにねぇ」
中年女の一人がしんみり言う。
「でもあの娘の命がかかってるんだ、仕方ないよ」
白髪まじりの女が心配そうにかまどの通気孔を見て言った。
「……とにかく、あたしらは何も見てない、聞いてない、それでいいね?」
一番年長の女が言うと、他の女たちはそれぞれうなずいた。
「あの娘がそんなお茶なんて出しに行かなくても、向こうから飛び込んできてくれたんだ。こうなる運命だったんだよ」
「早くそのお茶捨てちまいな。頭がいかれちまう」
年長の女たちが言うと、二人の中年女はきびきびと調理台の上の茶器を片づけた。
(登場人物)
ヒラク……北の少数民族アノイの長の息子と山の向こうの「神の国」から来た異民族の母との間に生まれた緑の髪の子ども。13歳。昔から川の神の姿を見るなど、人とはちがう能力がある。「神とは何か」の疑問を胸に、母が信仰するプレーナの正体を求めて、山を越える。
ユピ……ヒラクが五歳の頃、砂漠でみつけた神帝国の美しい少年。15歳。神帝国の言語を母語とするが、ヒラクと話すときはヒラクの母親の言葉である「禁じられた言葉」を使う。
カイル……奇岩住居郡に現れた地下の町の青年。ヒラクのことは警戒しているが、アクリラのためにヒラクを母親のもとに連れて行こうとする。
アクリラ……ヒラクを「ヴェルダの方」と呼ぶ地下の町の少女。母の病を治してほしいとヒラクに懇願し、地下の町へ案内する。
テラリオ……神帝国の人間であるユピに目をつけ、地下の町へと連れて行った青年。ユピを捕らえ、ある目的のために利用しようとしている。




