井戸の間の恋人たち
(前回までのあらすじ)
ヒラクがカイルに連れ去られた頃、ユピはテラリオに捕らえられ、赤い布をまとう謎の男たちがいる地下の一室に連れて行かれた。その中心人物であるミカイロという男にテラリオは神帝国の人間であるユピを利用して計画を実行すべきだと言う。そしてテラリオはその男の前で狼神への忠誠を誓う。狼神へ血を捧げる儀式を目の当たりにしたユピは、気を失いかける中、誰かが自分の中で「目覚めの時だ!真の神となれ!」と呼びかける声を聞く。
ヒラクは水音を聞いた。
体は動かず、まぶたは重く、すぐに起き上がれそうもない。
次第に意識がはっきりしてくると、腹部の痛みが増していく。
ヒラクの脳裏にカイルの顔が浮かぶ。
今、目の前にいるのなら、不意をついて思い切り殴ってやろうと、ヒラクはぐっと右手に力を込め、辺りを探るように薄く目をあけた。
(どこだ……ここ……)
ランプの炎が消えかかっていてひどく暗い。
周りにあるものはほとんど見えないが、どうやら地下の一室らしい。
ヒラクは腹部に手をあてて、ゆっくりと体を起こした。弓も矢筒も、帯から下げていた小刀もなかった。そばにないかとヒラクは辺りを手で探ったが暗くてよく見えない。
ヒラクは立ち上がり、手探りで出口を探そうとした。
その時、また水音がした。
それと同時に何かがヒラクの目の前をさっと横切った。
ヒラクは、右から左へすばやく移動した何かを、とっさに目で追った。
それはまるで太陽を見てすぐ暗がりに目を移したときに見える光の残像のようなものだった。
淡く緑色に発光して見える影は、再び暗闇に溶け込んで消えた。
ヒラクには、それが自分の目で見ているものなのか、まぶたの裏の残像なのか、よくわからなかった。確かめるように目をこすり、ヒラクは再び暗闇の中でじっと目をこらした。
するとまた、淡い緑の光がすっと目の前を横切った。
ヒラクが目で追うと、目で追った方と反対の方に緑の光がぼんやりと浮かんだ。それに目をやると今度は別のところから現れた。
光の残像はヒラクの前で交差し、二手に別れた。
それは次第に速度をあげ、数を増やし、うねるようにして縦横自在に飛び交った。
何かの形を描くかのように、ヒラクの目の前を光の線が走る。
ヒラクはゆらめく曲線の動きを呆然と見ていたが、時には自分の体にまとわりつくように飛び回る光の残像に不快感を覚えた。
ヒラクが生まれ育ったアノイの村では、キツネやカワウソが人を化かすということがよくある。その類のものかもしれないとヒラクは思った。
「正体を見せろ!」
ヒラクが叫ぶと、光は一点に集まり、その場にすうっと沈むようにして消えた。
そしてヒラクは再び水音を聞いた。
ヒラクは光が消えた場所に近づいた。
そしてひざをつき、地面に手をのばしてみた。
すると、下から淡い緑の光がにじみでるように湧いてきた。
ヒラクはのばした手の隙間から、自分を照らすその光を見た。
光はひんやりと手に冷たさを感じさせ、指先の動きでなめらかに流れるようだった。
「これは……水?」
ヒラクは手元をじっと見た。
そして、少し焦点をずらすようにして、目の中にとらえながらもぼんやりと全体を眺めるようにした。
すると、光はうねるようにして立ち昇り、人の姿を形作っていった
光の体は丸みを帯び、髪は長く、薄いヴェールのような衣を身にまとう……。
女の姿だった。
それは光で形作られた、とらえどころのないものだ。
顔の中心の光がもっともまぶしく、どんな表情かもわからない。
緑色に発光する女は、ヒラクの前で両手を広げた。
そして、手で椀の形を作ると、下からすくうようにして、ヒラクの顔の前に両手をのばした。手の中には水がたたえられている。
ヒラクは発光する女の手の中の水をじっと見た。
女は両手をヒラクの口元に近づけた。
ヒラクは後ずさりして、女のまぶしい顔の辺りを見て首を横に振った。
「いやだ、飲みたくない」
のどが渇いていないわけではない。むしろヒラクは水を欲していた。けれども、その前に恐怖があった。この水を飲めば、この女に取り込まれてしまう、そんな恐怖だ。
「一体何者なんだ。もしかしておまえは……」
「我が偉大なるプレーナよ、我をその懐へと誘いたまえ。我自ら生命の水とならん……」
ヒラクの足元で声がした。
見ると、やせ細った小柄な老人が、すがるように光と水の女の足元にひざまずいていた。
「誰? どこから現れたの? ずっとここにいたの?」
ヒラクは声をかけるが、老人はまるで聞こえていない様子だ。
「ねえってば! 聞こえないの? この女の人は誰? 今プレーナって言ったの?」
ヒラクは声をはり上げるが、老人はただぶつぶつと何かをつぶやいてひれ伏すだけだった。
その時、後方で何か重いものを動かすにぶい音がして、細い光が差し込んだ。
女は姿を消した。
「お目覚めか?」
しわがれた声がして、入り口をふさいでいた円石が完全によけられた。
孔から薄明かりが差し込み、やせこけた年老いた男がランプを持って入ってきた。
腰の曲がったその老人は、薄い白髪を後ろで一つに束ね、色あせた緑の布を全身に巻きつけるようにして杖をついている。
「誰? ここはどこ?」
ヒラクは老人に尋ねた。老人は口元だけでにこりと笑う。
「ここはかつての老主様のおられる聖室です。生命の水が湧き出る地下の内奥、プレーナとの交信の間でもあります」
「老主様? このおじいさんが?」
ヒラクは足元に目をやった。だがそこにあったのは、骨と皮だけになった干からびた死体だ。
「うわっ、何これ」
ヒラクは思わず叫んだ。
「いかにも、その方がかつての老主様。いえ、老主様の離脱後の抜け殻と言った方がよいかもしれません」
死体はミイラになっていた。前のめりに体を倒して、両手で椀の形を作り、足を折って座っている。
その前には大きな銀の器があり、そこにはなみなみと水がたたえられていた。
「これは?」
「生命の水。プレーナそのもの。満月の日の分配交換により与えられたプレーナの呼び水です」
「プレーナ……」
ヒラクはハッとして老人につめよった。
「プレーナって、さっきの女の人がそうなの? おれに水を飲ませようとした、あの緑の光の女がプレーナなの?」
「ほう、あなたの前に姿を見せたというわけですか」
老人は口元に笑みをたたえるが、目は少しも笑わずに、品定めするようにヒラクをじっと見ている。
「まあ、こちらでゆっくりとお話をうかがいましょう」
老人は背を向けて、ついてくるよううながした。
ヒラクが老人の後に続いて室を出ると、屈強そうな二人の男が円石で再び出入り口をふさいだ。
空気の流れが変わり、ヒラクは一瞬外に出たような気がした。
孔の外はほのかに明るく、足元には湧き水が広がっていた。
泉の真上には煙突のように空洞が伸びていて、見上げると、外の光がずいぶん高く、遠くに見えた。
この場所は他の室とは異なり、かすかではあるが自然光が感じられる。
「ここも地下? 外につながっているの?」
ヒラクが尋ねると、老人は口角を上げて笑顔を作り、笑みの宿らない目で言った。
「ここは『井戸の間』です。プレーナ教徒の居住区全体の通気孔の役割も果たしております」
老人の言葉を聞きながら、ヒラクは足元に広がる泉をじっと見た。
その時、気配が辺りに漂った。
気づけばヒラクのかたわらには一人の娘がいた。
娘はひざまずき、祈りの言葉でプレーナをたたえ、両手で湧き水をすくい取ると口元に運んだ。水を飲み干すと娘は立ち上がり、何かを決意したような表情で上方を見上げた。
その横顔が光に照らし出されるのを見て、ヒラクは息を呑んだ。
頭からかぶる白布の隙間から覗く赤茶色の長い髪、黄土色の瞳、セーカの娘と一目でわかるが、その顔は、ヒラクがよく知る人物に似ていた。
「母さん!」
ヒラクは思わず叫んだ。
そんなことはあるはずがない。髪の色も目の色もまるでちがう。母は自分と同じ緑の髪、琥珀色の瞳をしていた。そう頭でわかってはいても、かたわらの娘はあまりにも母に似ている。
「母さん、どうしてここに?」
ヒラクは母によく似たその娘に触れようと手をのばした。
その瞬間、娘は姿を消した。
今度はその娘はちがう場所に姿を現し、泉をはさむようにしてヒラクと向き合った。母によく似た娘の他にも若い娘が六人、横一列に並んでいる。
「おまえたちはプレーナと一つになるべくして選ばれた者」
気づけばヒラクの隣に見知らぬ老人が立っていた。
老人はたった今ヒラクが話していた老人と同じ緑の布をはおっている。だが縮れ毛に黒髪の残るその老人は明らかに別人だ。
縮れ毛の老人はヒラクにかまわず、娘たちに語り続けた。
「黒装束の民に導かれ、聖地プレーナへ到達せよ。己の罪を浄化し、永遠にプレーナとともにあれ!」
娘たちの表情はさまざまだった。誇らしげに微笑む者もいれば、不安げな顔の者もいる。母に似た娘はそのどちらでもなく、ただその目にゆるぎない決意を秘めていた。
「キルリナ!」
今度はヒラクのかたわらに、見たこともない若者が立っていた。
さきほどまでいた老人は姿を消していた。
六人の娘たちもいない。
ただ一人、母によく似た娘だけがその場に残っていた。
そして、悲しく切なげな表情で若者をみつめている。
「ザカイロ……」
そう呼ばれた若者の赤茶色の鋭い瞳は激しい炎を宿しているかのようだった。
若者は泉に足を踏み入れ直進すると、あっというまに水際の娘を抱きすくめた。
「行くな! キルリナ」
「ザカイロ、やめて、はなして。プレーナに知れるわ」
抵抗するキルリナをザカイロはさらに強く抱きしめる。
「かまうもんか。愛する者が奪われるのをおとなしく見ていられるか」
「ザカイロ……」
腕の中でキルリナの力が抜けていく。その目からは涙がこぼれ落ちた。
「どうしてわかってくれないの? 私はプレーナそのものになるのよ。そしてあなたの罪をも浄化する。私は祈りそのものになる。早くプレーナの怒りがとけて再び地上で暮らせる日が来るように」
「おまえと共に生きられないなら、そんな日が来ても意味はない。逃げよう、キルリナ。俺についてきてくれ」
その言葉にキルリナは一瞬歓喜するかのような表情をみせたが、みるみる顔を曇らせた。
「無理よ……」
キルリナはそっと体を離し、あきらめたように静かに首を横に振った。
「分配の水がなければ生きていけない。この渇きの地でプレーナにすがらずにどうして生きていけるというの?」
「……くそっ」
ザカイロはうつむき、悔しそうにつぶやく。
「おれたちはただ無力な罪深い存在というだけなのか?」
キルリナは両手をザカイロの頬にあて顔を上げさせた。
「それでも私たち愛し合っているじゃない。愛は湧き出る泉のように互いの心を潤す。それこそプレーナの源と私は信じたい。だから私はプレーナと一つになりたいの。この罪を浄化して、私は永遠にあなたの中に湧き出し、心を潤わせる」
「それが、おまえの望みか?」
ザカイロが尋ねると、キルリナは静かにうなずいた。
「それで、おまえは幸せか?」
ザカイロの言葉にキルリナは微笑む。
「そうか……。それならただ一つ、俺の望みを聞いてくれ」
「何?」
「俺もおまえと共にありたい。プレーナを目指すおまえと共に」
「私についてくるというの?」
キルリナは戸惑いの目でザカイロを見た。
「でも、黒装束の民に導かれるのは選ばれた娘たちだけ。それこそがプレーナの望みだって……」
「そうじゃない」
ザカイロは寂しそうに微笑んだ。
「もう、おまえの望みをつぶすようなことはしない。ただ……」
ザカイロは真剣な目でキルリナをみつめた。
「俺はおまえに愛の証を残したい。おまえの中の俺の存在がプレーナまで到達すること、それが俺の望みだ」
「ザカイロ……それは……」
キルリナの言葉はザカイロのくちびるにふさがれた。
ザカイロはキルリナの身を包む白布をはぎとり、下に落とした。そしてその上にキルリナを横たえさせて、彼女の腕と腰に巻きついた緑のひもを解いていった。
「うわっ、うわーっ!」
思わずヒラクは叫んだ。
こういった光景をまったく見たことがないわけではない。アノイの山の中で、若い恋人同士が逢瀬を重ねるのをみかけたことがある。なぜこそこそと二人で会うのかヒラクにはわからなかったが、いとこのアスルと一緒にのぞいていると、アスルの兄のイメルにひっぱっられ、その場から遠ざけられた。
アスルは男女の交わりの話に興味津々で、無邪気におもしろおかしく口にしては、生真面目なイメルにいつも怒られていた。
ヒラクはアスルの影響で、そういったことがあるということは知ってはいたが、それは人に隠れてすることで、いけないことだというイメルの言葉を信じて疑わなかった。
一人おろおろと動揺するヒラクを、聖室から共に出てきた老人と二人の従者が呆気にとられたように見ていた。
「どうされました?」
「え? いや、この人たちが……」
ヒラクは老人に聞かれて、キルリナとザカイロがいた場所を指差した。だが、そこにはもう誰もいない。
そしてヒラクは、今見たものが、アノイの地の川の神のように、自分にしか見えないものだということに気がついた。
(登場人物)
ヒラク……北の少数民族アノイの長の息子と山の向こうの「神の国」から来た異民族の母との間に生まれた緑の髪の子ども。13歳。昔から川の神の姿を見るなど、人とはちがう能力がある。「神とは何か」の疑問を胸に、母が信仰するプレーナの正体を求めて、山を越える。
ユピ……ヒラクが五歳の頃、砂漠でみつけた神帝国の美しい少年。14歳。神帝国の言語を母語とするが、ヒラクと話すときはヒラクの母親の言葉である「禁じられた言葉」を使う。
カイル……奇岩住居郡に現れた地下の町の青年。ヒラクを警戒し、ユピに敵意を抱く。
アクリラ……ヒラクを「ヴェルダの方」と呼ぶ地下の町の少女。母の病を治してほしいとヒラクに懇願し、地下の町へ案内する。
テラリオ……神帝国の人間であるユピに目をつけ、地下の町へと連れて行った青年。




