旅立ちの朝
(前回までのあらすじ)
旅立ちの前夜、ヒラクはイルシカと最後の時間を過ごす。イルシカは山の向こうの砂漠で自分を助けた黒装束の女に会うようヒラクに言う。その女が何者なのかはわからない。ただ、砂漠には「黒装束の民」と呼ばれる者たちがいて、プレーナに通じているのだと、イルシカはそれだけ言った。イルシカはヒラクがプレーナの支配を打ち破ることを願っていたが、その願いを耳にしたユピは酷薄な笑みを浮かべていた。
旅立ちの朝
翌朝、まだ日も昇らないうちに、ユピはヒラクを起こした。
「ヒラク、行くよ」
寝ぼけ顔のヒラクは、ユピが言っていることがすぐには理解できなかった。
だが、普段外を出歩くことがないユピが、ヤマブドウのつるでできたわらじを履こうとしているのを見て、ヒラクは旅立ちの朝は今なのだと知った。
イルシカは炉炉の脇に転がるようにして酔いつぶれて寝ていた。
すぐには起きそうもない。
ヒラクは父が酒を呑んでいたのはそのためかと思った。
見送りたくなかったのだろう。
ヒラクはイルシカが酔うとよく言っていた言葉を思い出した。
「酔って目が覚めてみれば、すべてが夢だと思うのさ。一体どこから夢なのか。全部夢かも知れねえな」
目が覚めれば、父はきっと自分がいなくなったことも夢のように思うのだろうとヒラクは思った。
外に出ると、鳥たちの声とはばたきの音が朝の静けさを際立たせていた。
ヒラクは家を振り返る。
そしてきっとまた帰ってくるという意味も込めて言った。
「行ってきます」
旅支度という旅支度はしていない。山越えに負担になるものは一切持っていない。食料は山で調達する。そのため、ヒラクは猟に出るときとなんら変わらない格好で弓を背負い、クマを仕留めるための槍を杖の代わりに持っていた。だからこそ、自分がこれから猟に出て獲物を仕留めて再びここに戻ってくるというような錯覚さえ抱く。
けれども、隣にいるユピを見れば、これが普段の狩りではないと、ヒラクはすぐに気づくのだ。
「行こうか……」
名残惜しそうに家を見るヒラクにユピが声をかけた。
うなずき、歩きだそうとしたヒラクは、少しすると急に足を止め、何かを探すように辺りを見回した。
「どうしたの? ヒラク」
「しっ!」
ヒラクは耳を澄ませた。
そしてユピも聞いた。
途切れ途切れにヒラクを呼ぶ声が聞こえる。
「まさか、イメルが?」
ユピは表情をこわばらせた。
「ちがう、あれは……」
そう言うなり、ヒラクは家の前の川沿いを村の方に向かって走り出した。
声は近づいてくる。
ヒラクは叫んだ。
「ピリカ!」
ヒラクは走った。
そして自分の方に走ってくるピリカを視界にとらえた。
ピリカが息を切らして近づいてくる。
「ピリカ! 何やってるんだよ」
「ヒラク……私……」
ヒラクの腕にしがみつき、息も絶え絶えにピリカが言う。
「眠れなくて……。目を閉じると、ヒラクの背中が見えるの……。それが遠くに行っちゃうの……。気づいたら私……、家を飛び出していた……」
村の大巫女である老婆が死んだとき、その後継者となる人間が現れることを村人たちは願った。孫であるピリカに老婆の不思議な力が受け継がれていることを知る者はまだいない。
「ヒラク、どこかに行っちゃうの?」
ピリカは涙をいっぱいためた目でヒラクの顔を見た。
ヒラクは黙ってうなずいた。泣いてひきとめられると思った。
だが、ピリカはそうはしなかった。
「そっか……」
涙が頬を流れたが、ピリカはあきらめにも似た表情で笑った。
「ユピも一緒?」
ピリカに聞かれ、ヒラクはあいまいにうなずいた。
イメルの言葉が思い出された。
「ピリカを傷つけるのはやめてくれ」
ヒラクは何と言っていいのかわからずに、困ったようにうつむいた。
「ヒラク、これ」
ヒラクが顔を上げると、ピリカはまっすぐ目を見て、手に持っていたものをヒラクの前に差し出した。
「これは?」
それはヒラクが見たこともないものだった。
植物の繊維で作られたひもの両先に房のようなものがついている。
ヒラクはてっきり刀帯を渡されるのだと思っていた。
ピリカが自分のために作っていると、イメルから聞かされていたからだ。
それが妻から夫になる者へ渡されるものだと知ったのは、その話を聞いた後のことだった。それを受け取ることはヒラクにはためらわれたが、目の前に差し出されたものはどう見ても刀帯ではない。
「これはお守り。ヒラクのことをずっと守ってくれるよ」
そう言って、ピリカはヒラクにそのひもを手渡した。
「ピリカ……。ごめん」
ヒラクはひもを握りしめてうつむいた。
「おれ、ピリカのこといっぱい傷つけた」
思えばヌマウシのことがあって以来、ピリカとはろくに口も聞いていなかった。ヒラクはずっとそのことが気になっていた。
「おれ、おまえのことは本当に妹みたいでかわいかった。だから傷つけたくなかった。ずっと大事にしたかった。でも、おれは……」
「わかってるよ。私もヒラクのことが好き。それは、ずっと、変わらないよ」
ピリカは少し切なそうに、それでも笑顔でそう言った。
それを見たヒラクはほっとしたように笑った。
「最後にピリカに会えてよかったよ」
「最後じゃないよ」
「え?」
「ヒラクが私に会いたいと思ってくれれば、いつでも夢で会えるよ」
「夢で?」
「うん。私ね、今でもおばばと会うんだよ。おばばが夢の中に会いにきてくれるの。それでヒラクのこと色々教えてくれたんだ」
ピリカはヒラクの表情をうかがうが、ヒラクはきょとんと不思議そうな顔をしているだけだ。
「刀帯を作っているとき、イメル兄さんが私に言ったの。そんなことをしても無駄だって。あんまり意地悪なことを言うものだから、母さんに言いつけてやった。でも、母さんは兄さんを叱らなかった。ただ困った顔をするだけだった。兄さんも母さんも、ヒラクの話をすると黙り込んだ。アスルも父さんも何も知らない。でも兄さんと母さんはお互いにぎくしゃくしている感じだった」
ピリカは一呼吸おくと、真剣なまなざしでヒラクを見た。
「私、ヒラクのことは何でも知りたいと思った。母さんと兄さんが知っていることを私も知りたいと思って、誰か教えてくれないかってずっと思っていた。だから聞いたの。夢に会いにきてくれたおばばに。そしたら、おばば、信じられないことを言ったの」
「信じられないこと?」
ヒラクにはピリカが何のことを言っているのかがさっぱりわからない。
「ヒラク、私、知っているのよ。おばばが全部教えてくれたんだから」
「何を?」
「ヒラクが本当は……」
そこまで言いかけたピリカは、ヒラクのすぐ後ろに立つユピに気がついた。
ユピはピリカをみつめ、首を横に振った。
それを見たピリカは信じられないというような顔でヒラクを見た。
「ヒラク……、知らないの?」
「何が?」
ヒラクは首をかしげた。
「ヒラク」
ユピが声を掛けた。
ヒラクは振り返ってユピを見た。
「もう行こう」
ユピはピリカには目もくれず、優しい笑顔でヒラクに言った。
ピリカは打ちのめされた思いがした。
自分は最後までユピにはかなわないという敗北感にも似た気持ちでいっぱいだった。
「待ってて、ユピ」
ヒラクは再びピリカの前に向き直った。
「ピリカ、何?」
ヒラクは続く言葉をうながした。
ピリカは一瞬悲しそうな表情を見せたが、沈んだ気分を振り払うように首を振り、明るく笑って言った。
「何でもない」
「……じゃあ、もう行くよ。元気で、ピリカ」
ヒラクは少し寂しげな表情でピリカに笑いかけた。
ユピと並んで去っていく後ろ姿をみつめながら、ピリカは思わずヒラクを呼び止めた。
「ヒラク!」
ヒラクは足を止めて振り返った。
「お守り、なくさないで持っていてね。いつかそれを身につけて戻ってきて。ヒラクの居場所はここにもあるの。私、ずっと待っているから」
ピリカは声をしぼりだして叫んだ。
ヒラクはピリカからもらったひもを握りしめ、笑顔を見せてうなずいた。
歩きながらユピが尋ねた。
「それ何?」
ヒラクは無邪気に笑って答える。
「お守りだよ」
それは、アノイの女たちが嫁ぐときから死ぬときまで素肌の腰に巻きつけるもので、夫だけがほどくことが許される腰ひもだった。
女系により製法やしめ方が異なり、ピリカは母から受け継いだ製法でこれを作り、自分と同じものをヒラクに渡した。
そこに込められた思いにヒラクはまだ気づかない。
自分が何者であるのかを知るのは、まだ先のことだった。
(登場人物)
ヒラク・・・アノイ族の父と山の向こうの「神の国」から来た異民族の女との間に生まれた緑の髪のこども。誰の目にも見えない川の神の姿を見ることができる。
ユピ・・・山の向こうに広がる砂漠にいた異民族の美しい少年。ヒラクとイルシカとアノイの地で暮らしている。
イルシカ・・・ヒラクの父。アノイ族の長の息子。アノイでは禁忌の地とされる山の向こうの神の国に足を踏み入れ、異民族の女を妻としたため、村から追放された。
ルイカ・・・イルシカの姉。イルシカとヒラクをいつも案じている。
ペケル・・・ルイカの夫。昔からイルシカを尊敬し慕っている。
イメル・・・ルイカとペケルの息子。長男。まじめで常識的。
アスル・・・ルイカとペケルの息子。次男。おしゃべりでうわさ好き。
ピリカ・・・ルイカとペケルの娘。末っ子。ヒラクに想いを寄せる。
アノイの大巫女・・・イメルたちの祖母で村の大巫女。すでに他界。助産や託宣を行い、長にも一目置かれる存在だった。




