緑の髪のこども
誰もが、自分が今いる場所を、世界の中心と思っている。
北方の少数民族、アノイ族もまたそうだった。
北の大陸の北部には高い山が連なっている。
山を越えた北端の海へは、大小さまざまな川が下っている。
その一つの川筋にアノイ族の集落がある。
彼ら部族は北の海のはるか遠くまで鯨漁に出ることはあっても、すぐ南の尾根を越えて猟をすることはなかった。尾根の手前に広がる住みかがアノイ族にとって世界のすべてである。
アノイの人々は山の向こうは神の国であると信じていた。そこは人間が決して足を踏み入れてはならない場所とされている。それがなぜかと問われれば、老人たちは決まって同じことを言う。
「今ここにあるすべてのものに満足して感謝しなさい。神々の怒り一つですべては一瞬でなくなってしまうのだから」
そうして小さな子どもたちに畏怖の念を植えつける。
山を越えるなどと考えることもはばかられるように。
山の中をさわやかな風が吹きぬけ、ヒラクの緑の髪をなびかせた。
北方のアノイの地の夏は短く、夜はひんやりと肌寒い。
すでに日も傾きかけている。
ヒラクは狩猟を終えた父といっしょに家に帰る途中だった。
父の後について川沿いを歩いていたヒラクは、ふと女の泣き声を聞いた。
川沿いの木々の隙間から漏れ聞こえてくる声は、背を向けて先を行く父イルシカの耳には届いていない。
ヒラクは泣き声に近づこうとして茂みの中に入っていった。
イルシカはヒラクが自分の後をついてきていることを疑わず、振り返りもしない。
茂みの向こうには小川が流れていた。
ヒラクは小川をたどってその先へ進んだ。
泣き声は近づいてくる。
ヒラクは自分よりも背の高い葦の茂みの中に分け入った。
そこには小さな沼があった。
(誰もいない……)
それでも泣き声は聞こえてくる。
ヒラクは辺りを見回した。
すると目の端に人影が飛び込んできた。
けれどそこに目を向けても、すでにそこには誰もいない。
(おかしいな、確かに誰かいるのに……)
ヒラクは泣き声に集中するために目を閉じた。
(いる……)
泣き声を自分の前に捉えたところで、ヒラクはゆっくり目を開けた。
木の皮で織った服を着たアノイの若い女が背を向けて、沼の前で泣いていた。
ヒラクは女の背後からおそるおそる近づいて声をかけた。
「……どうしてそんなに泣くの?」
女は沼をみつめながら、はらはらと涙をこぼした。
「この沼の水は泥だらけで飲めない。ああ、のどが渇いた。のどが渇いた」
女の声はヒラクの心に直接響くようだった。
「じゃあ、うちにくれば? 水飲めるよ」
「もう家には帰れない。誰も私をみつけない」
女には、ヒラクの声が聞こえていないようだった。
ヒラクは女の肩にそっと手をのばした。
その瞬間、女の姿はすっと消えた。
ヒラクは急に怖くなった。
いつもは優しくその懐に抱いてくれる自然も、今や夕闇に魔物の気配を漂わせ、ヒラクを取り囲んでいる。
今度はヒラクが泣き声をあげた。
すると急に、生き物のように沼の水がうねりだした。
うねりはやがて中心に集まり、泥水がぬくぬくと盛り上がって人の形になっていく。
そこに現れたのは、先ほどの若い女だった。
ひざから下は泥水で形づくられ、沼そのものにつながっていた。
女は先ほどまで泣いていたのがうそであるかのような穏やかな表情で、ヒラクをじっとみつめている。
ヒラクは泣くのも忘れて驚いて女を見上げた。
すると女は自分の背後のやぶの茂みを指差した。
ヒラクはわけがわからないまま、そちらの方に向かって走った。
一瞬、水が跳ね上がる音がした。
向かう先を示すように前方から聞こえる。
ヒラクは音がする方に向かって走り続けた。
まもなくやぶを抜けようとしたそのとき……
「うわっ!」
ヒラクは腰を抜かした。
やぶから抜け出ると、目の前を巨大なヘビのようなものの胴体が横切った。
その胴体はどこまで伸びていくのか、いつまでも尾が見えてこない。
ヒラクは引き返そうとした。
するとまた水音が聞こえた。
振り返ると、巨大な長いものの胴体は消えていた。
代わりにそこには川がある。
川の真ん中には女がいた。
川の流れにびくともせず、ひざまで水につかったまま、女は無表情で立っていた。
飾り板のついた重そうな首飾りを身につけたその女は、先ほどの女よりも威厳があり、他を圧倒するような雰囲気だった。
女はヒラクに気がつくと、川の中を進みはじめた。
歩いているというよりは流れに乗ってすべるようで、どうしたらそのように水の中で自在に動けるのかと、ヒラクには不思議だった。
女が遠ざかるのを見送るように、その場にヒラクが立ち尽くしていると、川の女は前に進むのをやめて振り返った。
自分を待っているような気がして、ヒラクは女に近づいていった。
するとまた川の女は進みはじめた。
女に付き従うように、ヒラクは川沿いを歩いた。
やがて川が合流したところで女は止まった。
左手の枝川の真ん中で誰かが女に向かってひざまずいている。
足を止めた女は、ちらりとヒラクに目をやると、目線でそのひざまずく者の方へと誘導する。
ヒラクが近づくと、ひざまずいていた者は立ち上がった。
今度は若い男だった。
男は力強い歩みで自分がいる川を上り始めた。
振り向けば、さきほどまでいた川の女はもういない。ヒラクはあわてて川を上る男の後を追い、緩やかな谷の沢を上っていった。
次第に川は細くなり、枝川の男の姿もかすんでいった。
山を登りつめたときには男の姿はすっかり消えていた。
水のない川床の道が両側からおおいかぶさるやぶの奥へとのびるだけだ。
「ヒラク、ヒラク、こちらへおいで……」
やぶの奥から声がした。
ヒラクはやぶの中へ分け入った。
やぶを抜けるとまた川が流れていた。
その川にはまた女が立っていた。この女も装飾品で身を飾ってはいたが、先ほどの威厳ある女とはちがい、親しげに、見知った者のような目でヒラクを見ている。
その女もまたヒラクを誘うように流れに乗って川の真ん中を進みだした。
ヒラクは女の後を追った。
女はヒラクを何度か振り返り、親しみをこめた視線を送ってくる。ヒラクもなぜかこの女のことは知っているような気がした。
辺りはすでに暗かったが、この女に会った時から、ヒラクはすでに家に帰りついたかのような安心感に包まれていた。
やがて女は足を止め、ヒラクの方に向き直り、そばに来るよう手まねきで呼んだ。
ヒラクは女が誰なのかを確かめたい思いもあり、そばに近づいた。
女はヒラクがそばに来ると、川の水を手ですくい、ヒラクの頭上から注ぎ、両手で頬をやさしくなでた。そして同じように、肩、背中、わきと、川の水で汚れを落とすように、ひんやりとした手でヒラクの全身をなでさすった。
ヒラクはハッとして女を見上げた。
(この人、もしかして……!)
女はヒラクの思いがわかったかのように、にっこりと笑った。
「ヒラク!」
川岸からイルシカが叫んだ。そして、あっというまに川の真ん中にぽつんと一人でいるヒラクを抱き上げた。
「心配したぞ! どこにいたんだ? こんなところで一人で何やってんだ?」
その時にはもう体を洗ってくれた女はどこにもいなかった。
壁と屋根を樹皮でふきあげた見慣れた家が見える。そこはヒラクの家のすぐ前の川だった。
イルシカは一度家に戻り、そして今また再びヒラクを探しに外に飛び出したところだった。
「一体全体どういうわけだ? 振り向いたらおまえの姿がねえし、すぐに探したがどこにもいねえ。一体どこにいた? どうやってここまで戻ってきたんだ?」
暗がりで、我が子の無事をその手でしっかりと確かめるように、イルシカはヒラクの緑の髪がすっかり乱れるほどなでて、力強く抱きしめた。
ヒラクは、少しもがいて父親に向き直り、沼で会った女のこと、巨大なへびのような胴体、川にいた威厳ある女、枝川の男、そしてさきほどまでそばにいた川の女のことを話した。
イルシカは驚きを隠せない様子で、何も言えないまま、ヒラクをじっと見た。その目の奥にあるのは、不安、混乱、そして怒りだ。
「父さん?」
ヒラクはきょとんとした顔で父を見た。
「……おまえ、いつからそれが見える?」
イルシカの声が震えた。
「いつからそれが見えるんだ!」
イルシカに怒鳴りつけられて、ヒラクはわけがわからないまま、大声で泣きだした。
「ああ、すまなかった。ヒラク、泣くな。おまえは何も悪くない。悪いのは……」
イルシカは泣きじゃくるヒラクを抱きかかえて、家の中に飛び込んだ。
ヒラクは父の腕の中でもがき、床に降ろされると、泣きながら母の部屋に駆け込んだ。
「ヒラク、どうしたの?」
そこにはヒラクと同じ緑の髪を持つ若い女がいた。アノイの女とはまるで違う、異民族の母だった。
そこにイルシカが鬼のような形相で飛び込んできた。
自分を追ってきたのだと思ったヒラクは、さらに大声で泣き叫んだ。
「一体どういうことなの?」
「黙れ!」
イルシカの怒声に、ヒラクも母も声を呑みこんだ。
イルシカは、母にしがみついたままおびえる我が子を一瞬悲しそうに見ると、再び厳しい顔つきで妻をにらみつけて言った。
「もう水は運ばない」
「なんですって!」
妻は激しく動揺した。夫が山の向こうから運ぶ特別な水がなければ生きてはいけない。
アノイの地の水を飲むことができない妻にとって、それは死の宣告に等しい言葉だった。
「何度も言ったはずだ。ヒラクにはおまえの水を飲ませるなと。おまえのせいだ。ヒラクがおかしくなっている。もうこれ以上、一緒にはいられない」
イルシカは冷たく言い放つ。
妻も覚悟を決めた目でイルシカを見てうなずいた。
「……わかったわ。私ももうこれ以上こんなところでは暮らせない。ヒラクを連れて山の向こうに戻るわ」
「それは許さん」
イルシカは間髪入れずに妻の言葉をしりぞけた。
「戻るならおまえ一人で戻れ。もしもヒラクといたいなら、俺たちと同じ水を飲み、アノイの女として生きろ」
「……この私に、プレーナを捨てろと言うの?」
ヒラクは、自分を抱きしめる母の腕がゆるんだことに気がついた。
「ヒラクをとるか、プレーナをとるか、どちらかだ」
夫の非情な言葉に妻は唇をかみしめる。
ヒラクは母にしがみつく。そのゆるめた腕が再び自分を強く抱きしめるように。
しかし、その腕は、ヒラクの体からほどかれていく。
「……私はプレーナを捨てられない」
そう言って、母はヒラクを手放した。
この時ヒラクはまだ五歳。
母に捨てられた痛みは、この先も消えることはない。




