覚 -awakening-
ひととおり、レポートの打ち込みを終えて顔を上げる。
「あ」
視線の先、スチールラックにおいていた時計が目に入り、慌てて立ち上がった。
「やば……もうこんな時間だ」
言うなりソファの端を見やる。そうして捉えた光景に、一瞬で動きが固まった。
「カナちゃん?」
静かに目を閉じた彼女。力の抜けた両手の中に、先ほど渡した白いカップを見て静かに歩み寄る。
「寝ちゃったのか」
そのままひざを落とし、空になっていたそれをそっと取り返す。持ち手にかかっていた白い指がするりと解けるのを見た瞬間、言いようもない何かが胸に湧き上がるのを感じ、そのまま顔を覗き込んでどきりとした。
閉じられた瞼を象る綺麗なまつげ。滑らかに曲線を描く頬にかかる毛先、そして惹き寄せられる――
直後はっとして視線を外す。軽く頭を振って脳内にモヤつく何かを払うと、立ち上がりキッチンに向かった。シンクにカップを置いて縁に手をつき、小さくため息をつく。
「ずいぶんと……無防備なんだね、きみは」
『先輩』の余裕、『友』の分別。至極当たり前に持つはずのそれを重ねようとしたその時、ランドリーからのかすかな振動音が耳に届いた。
ああ、まだ。
「まだ?」
思わずこぼれ出たそれに、自ら疑問を投げかけて戸惑う。一瞬前の自分が何を考えていたのか、何を継ごうとしていたのか、すべてが霞んで遠のいてゆく。
「僕は、なにを」
不可解さに、寄る辺もなくおろおろと、空いた手のひらを見つめたその直後。
ぶぶ……ぶ……
バックポケットの中で携帯が振動する。
慌てて取り出し、液晶に表示された相手の名前を確かめて、浩隆はごくりと緊張を飲み込んだ。
「Bitte」
ソファの彼女を見やってから背を向け、努めて平静を装いながら電話を取る。
「ああ久しぶり。どうしたんだ、お前からかけてくるなんて珍し……」
そうして出し抜けに向けられた問いに、ぎくりと身体がこわばった。
「どうして俺にそんなこと……え? ああそうか、再会したことを彼女に聞いていたのか。それにしたって」
急激に拍動を増す心臓、手のひらにかすかに滲む汗。もつれそうになる思考と舌をなんとか持ち直して、一息の間を置いてから答える。
「申し訳ないが、俺も知らないな」
続けざまに継ぐ。
「あのな英一、彼女だって大学生、もう大人の仲間入りをしようって時期だろ。いくら兄貴だって言っても、いい加減妹離れしたらどうなんだ」
すぐさま返された言い分に苦笑する。
「悪かったよ。たったひとりの妹なんだもんな、心配して当然だ。わかった、万が一にでも彼女に会えたら伝えておくよ」
そこでふと相手の言葉が途切れる。しんとした僅かな間に、圧のようなものを感じて。
「英一? どうかしたのか?」
後ろめたさを誤魔化すかのように、思わずこちらから窺ってしまい、一人ばつが悪くなる。だがなんでもないとの返答を得、重ねての頼みを受け取ると、ほっと胸を撫で下ろして電話を切った。
「あいつ」
一瞬ののち、ふと浮かんだ予測にはっとして、再びの緊張を取り戻した直後。
「……ん」
小さな唸りが聞こえ、ソファの姫が目を覚ました。なんというタイミングだろう、もしや兄の声が届いたのだろうか。
「おはよう」
意識して穏やかに声をかけると、彼女はすぐさまパチッと目を開き、がばりと身を起こした。
「えっ?! あ、あの、あたし寝てましたッ?!」
「うん。ぐっすりね」
少々のからかいを含ませると、その面がみるみる赤く染まっていく。
「すっ、す、す、すみませんッ! あたし、なんてこと……どうしよう……」
動揺しきりの様子。あわあわと視線をあちこちに彷徨わせて、両頬を押さえたその困り顔があまりにも。
「か……」
思わず滑り出そうとした言葉を、慌てて飲み込む。
「え?」
「いいや、なんでもないよ」
にこりと笑ってごまかすと、ますますその顔が赤くなった。次々に現れる、明らかで素直な反応が、とても、とても好ましく思えて。
もっと……
ピーッ、ピーッ、ピー。
「……ああ」
ランドリーから聞こえてきた電子音。有無を言わせず断裁された思いを苦笑に載せ、浩隆は胸に留まっていたそれを押し込めて切り替え言った。
「そうそう、さっき君の兄さんから連絡があったよ」
「え?」
「何度もメッセージを送っているのに、全然反応がないからって心配してたよ。何か約束でもしていたの?」
それを聞くなり、急いで鞄を漁り携帯を取り出す。改めてそれに気づいた顔がさっと青ざめた。
「大丈夫。この時間なら、今からでもきっと間に合うよ。遅れたのは……全部雨のせいにすればいい」
そう口にして、自分自身で引き際を覚る。
「服も乾いたようだしね。身支度が済んだら駅まで送るよ」
そう、雨は止んでいるのだから。
いつまでも、ここには留まれない。
わかっていることだ。
夢のような逢瀬は、もうおしまい。