雨 - gravity - ③
「やあ、上がったね」
ソファに腰を下ろし、膝の上でモバイルパソコンを打っていた彼が顔を上げた。
「もういいの? もっとゆっくり浸かっていてもよかったのに」
「いえ、充分です。ありがとうございました」
リビングの入口でぺこりと頭を下げ、その場で所在なげにもじもじしていると、彼がゆっくりと立ち上がり歩み寄ってきた。
「ちゃんと髪は乾かした? 濡れたままだと、本当に風邪をひいちゃうよ」
伸べられなんの躊躇もなく髪に触れてきた手に、心底驚いて思わず身を引く。
「ごめん。とりあえず、適当に座ってて」
苦笑を残しランドリーへ向かう彼。しばし思案した後、香奈は先程まで彼が腰かけていたソファに近づくと、一人分ぐらいの間を置いて腰を下ろした。
「いい時間になっちゃったし、何か食べるかい?」
戻ってきた彼に問われ、さすがにそれはと首を振る。
「なら、お茶でも淹れようか?」
それならと素直に頷くと、彼はそのままキッチンに移動し、戸棚から茶器を取り出して準備を始めた。
「あれ?」
ポットに注がれた湯と共に立ち上った香り。漂ってきたそれにふと疑念が口をつき、小さく首を傾げる。
「気づくなんて流石だね。これはお客様専用に買っておいた茶葉なんだ。もっとも、開けるのは今日が初めてだけど」
「え」
「この家に誰かが訪ねて来るなんて、滅多にないもんだから」
学内では有名な彼のこと、教授たちはもとより、学友も研究仲間もそれなりに多いはずだが。
「意外、かな?」
かすかな苦笑を向けられてはっとする。どうやら顔に出ていたらしい。
「失礼でしたよね、すみません」
「気にしなくていいよ。元々自宅に人を招くのはあまり好きじゃないんだ。付き合いの大半は外で済ませてるから何の問題もないし、そういう意味では君は貴重な一人だね」
何気なく向けられたその言葉に心臓が跳ねる。こぽこぽと注がれる茶の音を聞きながら、改めてこれまでの経緯を振り返った。
学内で再会したのはもう二月ほども前のこと。彼の書いたレポートが縁で始まった交流は、幸い今でも続いている。
既に週に一、二度は訪れるようになった彼の研究室。厚意に甘え、講義の詳細な解説や実質的な補習を頼むのが目的であり、実際それが会話の大半でもあったが……そうしてやってくる自分を、彼はいつも迎え入れ、丁寧に指導してくれる。
そうして並んで座り、学術に向き合う真剣な眼差しに相対するたび、強く心を惹かれ、その距離を少しでも縮めたいと、そんな思いが日々募ってきていた。
「はい、どうぞ」
差し出されたマグカップを受け取り、同じものを手に腰を下ろした彼を窺う。
「どうかした?」
ふとこちらに向けられたほのかな笑み。重なる視線に、刹那身体に何かが走る。波紋のように広がっていく温かさ、冷静さとのギャップ、熱の遷移。幾度となくそれにさらされ、間近に見て、自分は――。
そうして唐突に理解する。
あたし、先輩のことが好き。
ううん。多分、ずっと好きだった。
高校一年の時、兄英一の親友として初めて出会った彼は、黒縁眼鏡の奥から、どこか冷たく近寄り難い雰囲気を漂わせていて。しかし同時にたった一瞬だけ、穏やかな微笑みを自分に見せてくれてもいた。
おそらくそれを目の当たりにした時から、自分の『はじめて』は既に始まっていて。再会直後は、思い出の中にあった第一印象との差に戸惑いもしたが、きっとそれは自分の気持ちを自覚できていなかった反動なのだろう。
あたしって、もしかして鈍いのかな。
ちょっとだけ気落ちしつつ、ちらと窺いながらそこで気づいた。
「先輩」
「ん?」
「あの、そういえば眼鏡は?」
街で落ち合った時からなんとなく感じていた違和感の原因。ああ、と思い出したように彼が頬を掻いた。
「元々視力はそんなに弱くないんだよ。普段眼鏡をかけてるのは、なんていうか……人付き合いをするときの、お守りみたいな感覚かな。素顔を見られるのが、なんだか気恥ずかしくてね」
眉目の整ったそこにうっすらと照れが浮く。まじまじと見つめていると、彼が取り繕うようにカップを持ち上げた。漂う湯気の向こう側に困っている様子が見え、思わず小さな笑みが漏れる。
「子どもっぽい理由だよね」
「そんなことないです」
それなら、今は?
ほのかな期待と共に心の中だけで問い掛け、そうして自分も同じように持ち上げる。
あたたかに漂う湯気と共に鼻腔をくすぐる香り。珠玉の一杯をこくりと飲み下し、自然湧いてきた言葉を次いだ。
「おいしい」
息を吐くと同時にゆっくりとほどけていく緊張、訪れる安息。嬉しくもどこか切ない気持ちが身体の隅々にまで満ち、少しだけ瞼に重みをもたらす。
「カナちゃん」
その時ふと、彼が自分を呼んだ。
「突然おかしなことを言うようだけど、聞いてくれるかな」
遠慮がちな言いように、ひとつ頷き続きを促す。
「僕は海外の暮らしが長かったから、『先輩』って呼ばれるのに少し違和感があるんだ。もしカナちゃんが嫌じゃなかったら、僕のことを名前で呼んでくれないかな
「名前で」
「ああ。君の兄さん……英一と同じように、『ヒロ』って呼んで欲しい」
突然の申し出、それは触れてきた文化の違い故だとわかっている。けれどこと日本人にとって、愛称で呼び合うことは距離を縮め、関係性を密にするに等しい行動だ。
「ダメ、かな?」
そうして覗き込んでくる。そんなふうにされては今の――恋心を自覚した――自分に抵抗する余地などあるはずもなく。にわかに高まる体温を感じながら、カップを掴んだ手に力を込めた。
「ヒロ……さん」
体育会系を長く経験してきた身には、少々辛い立ち回り。精一杯の勇気を振り絞ったのに結局言い切れず、思い切り苦笑を返されて恥ずかしくなる。
「すみません、中途半端で」
「仕方ないさ。いきなりは難しいよね。でもこれからは敬語なしにも慣れてくれると嬉しいかな」
にこりと爽やかな笑みを向けられ、心臓がみたび強く跳ねる。
「そんなの反則」
「え?」
「なんでもないです」
すっかりほだされてしまった顔を見られたくなくて、カップで再び覆い隠す。
そうして紅茶の湯気の向こう側に見る、どこかほっとして再びの作業に戻る姿。半ばうっとりとそれを眺めながら、香奈は胸に抱いた想いを反芻した。
先輩が。
ヒロが、好き。
このまま、ずっとこうして居られたらいいのに。
ランドリーから聞こえてくる、かすかな振動音。
いっそ朝まで乾かなければいい。
雨がやまなければいいのに。
もう『兄の親友』ではない、自分自身にとって特別な人。
ソファの上、自分と彼の間の距離。
そんな他人行儀な空気が取り払われる瞬間を、すぐにでも引き寄せたくなって。
もっと、もっと近くに。
想いを再認し、紅茶の由来ではなく湧き上がる熱を、身体の内側に感じながら――
そうして香奈はいつしか、安心しきって眠りの底に落ちて行った。