雨 - gravity - ②
「カナちゃん」
商店の角を折れて現われた彼。近づいてくるにつれ、その面に心底驚いた表情が浮かんだ。
「一体どうしたんだ。その格好」
「あ、あの、急に土砂降りになっちゃったから」
前半身、特にも上半身を鞄で隠しながら答える。とても見せられたものではない自覚があるだけに、尚のこと羞恥で頬が熱くなった。
「そうか、だから連絡をくれたのか」
同じく店のひさしの下に入り込むなり、彼は着ていた上着を脱ぐとすぐさま肩にかけてくれる。布地に残っていたぬくもりに包まれると共に、かすかな違和感が胸に湧いたが、それよりか先に安堵の息がほうっと漏れ出た。
「とにかくそのままじゃいけない。僕の家においで」
「あの、本当にいいんですか?」
見られたらマズいものとか、知られたら困る人とか。そんな今更の懸念をもごもごとうそぶいていると、彼がかすかに眉を寄せた。
「いいもなにも、濡れたままじゃ風邪をひくし、そんな姿だと知ってて夜道を一人帰せないからね」
さらりと言い、再び開かれた傘。一本しかないそれに戸惑う。
「ごめん。どこかでもう一本調達してくればよかったんだろうけど、急いでいたもんだから。僕の家まで、ちょっとの間辛抱してくれないかな」
「そんな、全然」
嫌じゃないです、むしろと心の中で次いでから、失礼しますと傘の下に入り込む。
「じゃ、行こうか」
そうして自然寄り添い触れ合った肩。
不可抗力でも、それが嬉しい。
なおも降りしきる雨の中、香奈は身もだえするほどの喜びを噛み締めながら彼と共に歩き出した。
*********
「ここだよ」
落ち合った場所からしばらく歩き、とあるアパートの前に到着する。
「どうぞ」
階段を上がった先でゆっくりと開かれた扉。緊張しつつ「お邪魔します」と意を決して足を踏み入れる。
「気にしないでそのまま上がって。今タオルを取ってくるから」
「は、はい!」
促されるまま進み、別室に向かうその背を送ってから、香奈は興味津々に室内を見回した。
最低限のファブリックに、整理整頓されたリビング。多少もの寂しいような気もするが、落ち着いた雰囲気がとても心地好かった。
それに。
少なくともこの部屋からは、誰か他の女性が立ち入っているような様子は――ただの根拠のない直感でしかないが――見受けられない。
「よかった」
胸を撫で下ろしてひとりごつ。
もしも、本当にそうなら。
「……って、なによそれ!」
「どうしたの?」
思わず声に出してしまったところで、彼がタイミングよく戻ってきてしまい慌ててかぶりを振る。
「なななな、なんでもないですッ!」
ぶんぶんと頭を振って弁解する様子がおかしかったのか、くすりと小さく笑われた。
「よかった」
「え」
「いや、いいんだ。それよりも」
はい、と真っ白でふわふわなタオルと共に衣類を手渡される。
「カナちゃん全身びしょ濡れだからさ、ちゃんと身体を温めた方がいいと思う。うちのバスルーム、よかったら使って」
お風呂と聞いた瞬間に、身体がぷるっと震えた。夏とはいえ雨に打たれた後には、温かい湯など願ってもない。
「いいんですか」
「ああ。ちゃんと掃除してあるから、中のものも自由に使ってくれて構わないよ。それから僕ので悪いけど、上がったらとりあえずそれを着ていてくれないか。濡れた服は洗濯機に入れておいてくれれば、あとで乾かすから」
話がそこまで進んだところで「あ」と小さな声が上がり、少し困ったような、そしてどうにも言い出しにくそうな表情が次ぐ。
「あ」
にわかに気づいたその原因に、こちらも顔に火が着いた。
「だっ、大丈夫です!」
「え」
「まったくの偶然、いえ、本当の本当に偶然ですけど! ちゃんと用意してありますから、どうぞご心配なく!」
「え? ああ、じゃあバスルームはそっち」
「すみませんありがとうございますお言葉に甘えてお借りしますッ!」
目を円くする彼に、それ以上追求されないよう一息にまくしたて、指し示された方へと向かう。廊下からランドリーに入るなり扉を強く閉めて鍵をかけ、そのまま戸板に背を預けて大きなため息をついた。
「はあああぁぁぁぁぁ」
言うに事欠いて、とんでもないことを暴露してしまった。
「変な子だって思われたかな」
備え癖が人より過ぎる自分にヘコんだその時、ほんのりとした香りが鼻先に漂ってきて、思わず手元のタオルを見つめた。
「この香り」
しばし思案し、至った記憶。理解してなお一層高まる頬の熱。着せられたままの上着が殊更に意識されて、心許ないような、それでいてひどく期待しているかのような、そんなない交ぜの気持ちが胸を満たす。
自分でも持て余すほどに次々と溢れ出す何か。
香奈は顔を両手で覆うと、ずるずるとその場にへたり込んで声にならない悲鳴を上げた。