初 ‐"introduction" Full.ver‐ ②
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「失礼します」
扉のこちら側で一度断ってから中へ入る。
きちんと整理整頓された室内、ローテーブルに広げられようとしていた参考書にノート。彼はそのそばに正座していた。
「あの、お茶をお持ちしたのでよかったらどうぞ」
「ありがとう」
簡潔なそれと視線を受けつつ、テーブルの側に膝を落とし、盆を置いて準備を始める。
普段は兄に倣ってコーヒーばかり飲んでいるため、正式な作法などよくは知らないが、緑茶と同じ茶の類なのだし、まぁなんとかなるだろう。手前に置かれた小さな網を手に取るとカップの上に掲げ、そこに向けてポットの口を傾ける。飴色の液体がカップに落ちていくのを見るうちに、徐々に気持ちが落ち着いていくような気がした。
そうして満たされたカップを、ソーサーの上に移してから伺う。
「あの、お砂糖は」
「そのままで構わないよ」
「そう、ですか」
クールで知的といえば聞こえはいいだろうが、先程来感じている、どこか近寄りがたい雰囲気はやはりぬぐえなくて。
「どうぞ」
言われた通りのストレートティーを差し出すものの、慣れない所作も手伝って、指先の震えがかすかに受け皿に伝わってしまう。
「ありがとう」
何気なしに受け取った彼を少しだけ覗き見る。眉目の整った涼やかな外見に、芯の入ったきれいな姿勢、どこか近寄りがたい壁。けれど手にした器の中で揺れる紅茶が存外似合うな、と直感的に思った。
よかった。
これで、言い付けは無事終わり。
だけど。
『あの子もきっと同じよ』
先程の母の一言が、今更どうしようもなく気になり始めて。手持無沙汰ながらも、まだこの場に残っていたいような、そんな何かが湧き上がる。
もうちょっとだけ。
初めてのおもてなしだし、何か粗相があったら、取り替えなくちゃならないし。取ってつけのようにも聞こえるそれを、心中で何度となく転がしながら彼の反応を待つ。
当の彼はこちらを気にした風もない。直後かちりと受け皿が鳴り、白磁のカップが持ち上げられた。ゆるりと揺れる飴色を、一口含み、そうしてこくりと喉が鳴った後、そこに初めて人気じみた表情が現れたように思えた。
「美味い」
小さな息が漏れ出すのと共に、ほのかな笑みが面に浮く。緩められた口元、少し和らいだ視線。氷の壁の内側から突如洩れ出た、まるで少年のような無垢を映したそれに、心の底からほっとして全身から力が抜けていくのに合わせ、唇から安堵が零れ落ちた。
「よかった」
「え?」
それを捉えたのだろう彼が、今度は微かな驚きをその面に灯してこちらを見つめてくる。眼鏡の奥から向けられる視線の中に、柔らかで親しげな光を見つけた気がしてどきりとした。
「あ、いえ、なんでもないです……」
重なった視線に耐え切れず、ふっと視線を外して俯く。どきどきと打ち始めた鼓動を耳の側に聞きながら、言葉も、次に取るべき行動も一切がわからなくなってしまい、もじもじとその場にとどまるしかなかった。
「お。いたのか、香奈」
その直後、扉が開いて兄が部屋に戻ってきた。殊更にびくりと全身で反応したせいか、怪訝な視線を向けられておろおろする。
「どうかしたのか」
兄の心配そうな声に、慌てて場を繕った。
「えと、あの……あ、あとは兄貴がやってよね! あたしもう戻るから」
言いながらそそくさと立ち上がり、振り返ることなくそのまま部屋を出た。ばたばたと足早に階段を下り、そのままの勢いで誰もいないリビングに飛び込むと、まっすぐソファにダイブした。
「はあぁぁぁぁ」
クッションに顔を埋めてため息をつく。ドキドキと激しく打つ鼓動と、熱くなった頬がなんとも落ち着かなかった。
「やだもう、なんなの?」
「あら、香奈?」
その時どこからともなく戻ってきた母の声が聞こえて、全身でビクリと反応する。
「お茶、上手くいった?」
さらりとこともなげに聞いてくる。途端どっと押し寄せてきた疲労感に、ソファに沈み込みながら生返事で答えた。
「んー、まぁ」
刹那、先程対面した微笑みが脳裏にフラッシュバックし、再び耳まで熱くなる。
「〜〜〜〜っ!」
「何? どうしたの?」
クッションから顔を上げない娘に、流石に気付いたらしい。けれど、その声色にかすかなからかいの色を感じ取って、なおさら顔が上げられなくなる。
「なんでもない! だっ、大丈夫だからっ!」
ふごふごと答える娘に、あらそう、と珍しくあっけなく引き下がった母の、その短い反応すら揶揄に聞こえて。
「ばかみたい、あたし」
ぼそりとそう口にして自分に言い聞かせると、少し冷静さが取り戻せたような気がした。
そう、これはきっとただの「混乱」だ。同じ人物から、一時のうちに感じたあまりの温度差に、受け止めきれなくてパニックになっているだけ。
「そう、だよね」
こんな遭遇は二度もあるまい。兄の友人とはいえ、こんなふうに顔を合わせ接する機会など、今後あるはずもないのだから。
自ら導いた結論に納得する。
偶然に偶然が重なったがゆえの、奇跡に近い出逢い。
「もう二度と、こんなことないよね」
繰り返し唇に載せて思う。
多分きっと。
心の奥底に眠る、ひっそりとした思い出になっていくんだ。
今はまだ、そんな気がしていた。
そう。
今は、まだ。