初 ‐"introduction" Full.ver‐ ①
「え?」
耳にした予想外の情報に、制服姿の女子高生――高遠香奈は、リビングのソファから立ち上がるなりすぐさま復唱した。
「アニキが友達を連れてくる?」
それを受けて、母の香子が台所でにこりと笑う。
「今から?」
「そう。中間試験も間近だし、部屋で一緒に勉強するそうよ」
つい先程帰宅の連絡を受けたらしい。どこか浮き立った様子に返す言葉もなく、香奈はぼすんと座り込んだ。
「香奈も一緒に勉強させてもらったら? それこそ今日は、試験前で部活も休みだったんでしょ?」
「まぁ、そうなんだけど」
状況からすればそれが得策だろうが、なにせ気持ちがひどく乗らない。そんな心境を察したのか、香子が苦笑を漏らした。
「なによその顔。自慢の兄さんを誰かに取られそうだからって拗ねてんの?」
指摘にぎくりとし、身を縮こめる。
「ほんと小さい頃から兄さん大好きっ子なんだから。まさかこんなことでヤキモチ焼くなんてねぇ」
「別に、そんなつもりじゃ」
「あの子が卒業と同時に家を出るっていうのは、もうずいぶん前に決まったことじゃない。広い世界に出て、外のいろんなものを見て、大人になっていこうって時期なんだから、いつまでも妹の面倒ばっかりも見ていられないのよ」
「わかってるもん、そんなこと」
兄へのべったりを諭すそれ。何度となく繰り返された文句に、頬を膨らませる。
勉強ができ、優しくて、人格も優れた自慢の兄。その兄が友と呼び、初めて家にまで連れてくるというその人物。
「どんな人なのかな」
少しの興味と、嫉妬にも似た何かがないまぜになった心情。肌を包む妙な緊張感に、身体をもぞりと動かしたちょうどその時、玄関の扉が開く音が耳に届いた。
「ただいま」
よく通る声。続いて廊下から何事かやり取りをする低い声が聞こえた後、兄、英一がリビングに姿を現した。
「お帰りなさい。意外と早かったわね」
「まぁね」
母に返しつつこちらを見て。
「お。居たな、香奈」
それがいかにも計算通りというような声色に聞こえたため、眉を寄せてあからさまな不満を返した。
「なによそれ。あたしが居たら何か不都合でも?」
「いいや別に」
言いながら、どこか楽しそうに含ませた笑みを浮かべる。不可解な反応の連続に、さらなる疑念を抱いて首を傾げた直後。
「失礼します」
そう口にしながら、小さな赤い紙袋を手にした制服姿の青年がリビングに現れた。
その姿を見止めて思わず息をのむ。兄と同じぐらいの長身に、明らかに染めではない、薄い茶色の髪と瞳。そして整った面貌にしばし視線を奪われる。兄の通う学校には、英語で授業をするクラスがあるとは聞いていたが、まさか友だというその当人が帰国子女だなどとは、露ほども思っていなかった。
「はじめまして、国枝です。今日は突然お邪魔してすみません」
しかしその口から滑り出したのは極めて流暢な日本語で。芯の通った所作とも相まって、さすがは兄の友たりうると直感的に思った。
「いらっしゃい。大したおもてなしはできないけれど、よかったらゆっくりしていって」
「ありがとうございます」
母にそう返した後、まじまじと見つめる視線に気づいたのか、彼がこちらを向く。ばちりと重なる視線、黒縁眼鏡の奥から向けられるまっすぐなそれに一瞬射抜かれた。
「こいつは妹の香奈だよ」
耳に届いた兄の言葉に我に返り、弾かれたように立ち上がる。
「あの、あたし」
「はじめまして。よろしく」
軽い会釈と共に返された短い挨拶。こちらが名乗るよりも先に被せられた、素っ気なく硬いその声に少しだけおののいた。
「じゃ、俺達部屋に上がるから」
言いざまリビングを出た英一を追って、彼もまた礼をひとつ残して続く。階段を上っていく音が徐々に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなったところで、香奈は茫然としたままソファに再び腰を下ろした。
「驚いた。凄いクールイケメン君だったわね」
「あ……うん」
香子の浮き立ったコメントにそっけなく返す。ざわざわとにわかに漣立ち始めた心。どこか心許なくなって、傍にあったクッションを掴んで抱き込んだ。
「ああ、そうだわ」
そのときふと、何かを思い立ったらしい母が食器棚に向かった。そうして手に取られたそれに、香奈は訝しげに眉を寄せる。
「なにそれ」
真っ黒な円柱状の缶。キッチンカウンターに置かれたそれを、立ち上がって近寄りしげしげと見つめる。
「前に頂いた、紅茶の茶葉よ」
「紅茶?」
来客のもてなしならコーヒーが順当だろうに、続いて取り出された白磁の丸いポットとカップ、そして突然の方針転換に思わず聞いた。
「なんで紅茶なの?」
「だってあの子には、こっちの方がお似合いじゃない?」
思いもよらない回答に混乱する。母は時々こんなふうに直感を織り交ぜて物事を判断することがあるが、そんな思いつきで『おもてなし』を変えてしまっていいものか。
「紅茶を淹れるのって、技術がいるんじゃなかったっけ?」
以前そんなことを聞いた覚えがあり、手軽には扱えないイメージがある。しかし、そんな杞憂はお構いなしに、母はラベルを見ながら鼻歌交じりに茶葉を量り入れていった。
そうして注がれた熱湯と共に、ゆったりと立ち上ったふくよかな香り。緊張していた身体から、すうっと余分な力が抜けていく。
「いいにおい」
「そうね。あの子もきっと同じよ」
「え?」
ふと放たれたその言葉の意味が解らず首を傾げていると、とんとんと階段を下りて来る足音がして、英一が再びリビングに現れた。
「母さん、これ手土産だってさ」
手にした小さな紙袋をキッチンカウンターに置くなり、廊下の奥へと姿を消していく。
「あら『ボヌール』じゃない。最近の学生ってセンスいいのね」
隣町にある洋菓子店。明らかに感心した様子を見せつつ、そうして茶器一式を載せた盆をおもむろに差し出してきた。
「それじゃお願いね、香奈」
「は? なんであたしが」
「いいじゃない。給仕ついでにイケメン成分を補給してくれば?」
あくまで軽いノリで言われ戸惑っていると、無理矢理渡されて半ば強引にリビングを追い出された。
「部屋に着くころには丁度飲み頃になってると思うから。あとはよろしくー」
なんとも適当な、と諦めに似た息をひとつ吐いてから、改めて階段を見上げる。
しんと静まり返った二階の空気。直後背中に走った小さな震えを武者震いだと思い込むことにして、香奈はゆっくり、至極ゆっくりと踏み板に足をかけ上り始めた。