表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

オロチ綺譚

オロチ綺譚シリーズ小ネタ集

作者: かなこ

シリーズ物です。上部「オロチ綺譚」より1作目「巡礼綺譚」からお読み戴けるとよりわかりやすいかと思います。

■とり肉

「なんか最近、食卓に唐揚げが上がんなくね?」

 柊の言葉に菊池は一瞬箸を止めた。

「あ、いや、別にどうしても喰いたいって訳じゃねぇよ。他の肉は喰えてるわけだし」

 それでも菊池の箸は止まったままだった。

「俺は別にいいけど? っていうか、もっと高タンパク低カロリーな和食を作って欲しいね」

 北斗はそう言って水餃子を口に運んだ。今日は中華がメインなので回鍋肉だの青椒肉絲だの脂っこい料理が多い。和食好きの北斗にとっては、マズいとは言わないがお代わりをしたいとは思わない。

「て言うより、とり肉が上がらへんようになったな」

 笹鳴は春巻きを取り分けながら食卓を見回した。中華料理の華とも言える北京ダッグがない事に気付いたからだ。

「みんなよく気付いたな。俺は言われるまで気付かなかったよ」

 南もエビチリを頬張りながらテーブルを見回した。炒め物も蒸し物も、よく見るととり肉が使われたものは1つもなかった。

「ほら、だから言ったじゃないか」

 宵待がくすくすと笑いながら菊池を見た。

「俺は気にしないからとり肉を使ってって」

 そこで他のオロチクルー達はやっと気付いた。有翼人種である宵待を慮って、最近わざと菊池がとり肉を避けていた事に。

「……いや……だって……」

 もごもごと言いよどむ菊池に、他のクルー達は苦笑した。

「宵待サンは羽根が生えているだけで、別に鳥類じゃないでしょ」

「せやけどわかるわ。羽むしるんがいやなんやろ?」

 こくんとうなずく菊池に、宵待は笑った。

「じゃあ俺がむしるよ。オボロヅキにいた頃だって、時々は鳥を食べていたから」

「そうなの?」

 宵待はうなずいた。

「そんなにしょっちゅうじゃなかったけどね。オボロヅキの鳥は素早くて大きかったから」

「へぇ。じゃあ獲るの大変だっただろ?」

「まぁね。父さんがそれで腹に大穴を空けて帰って来た事があったよ」

 食卓が一瞬静まり返った。

「……ねぇ宵待。オボロヅキ星の鳥って、どんな感じ?」

「そうだなぁ……」

 宵待はシュウマイを箸で掴んだまま宙を見つめた。

「1番大きかったのはロック鳥かな」

 北斗の箸から水餃子が落ちた。

「え……それって確か、フェニックスと同一視されている鳥だよね……?」

「ええ!? フェニックス食べたの!?」

 菊池は愕然として宵待を見た。

「あんまり美味しくなかったよ。なんだかぱさぱさしてて固かったし」

 それならこの間食べた蒸しささみのあんかけの方が美味しかったなと宵待に笑顔を向けられ、菊池の箸からも酢豚が落ちた。

 クラゲだけが、ペースを落とす事なくもっきゅもっきゅとカシューナッツのチャーハンを食べ続けていた。




■宇宙食

 中央管理局特殊部隊所属の対テロ作戦部COETのボスである近江は、宇宙飛行が嫌いである。

 立場上それでは務まらないので一応宇宙船には乗るが、機嫌は悪く、参謀の羽叉麻などはできるだけワープ航路を駆使した短時間の飛行になるよう、いつも頭を悩ませている。

 機嫌が悪いので早く終わらせようとするから、それはそれで利点もあるのだが、同乗しているクルー達にとってはたまったものではない。

 乗り物酔いをするとか、閉鎖的な空間が苦手だとか、そういう可愛らしい理由ではない。

 理由はただ1つ。宇宙食が不味いからだ。

 重力負荷の著しく少ない宇宙空間では一般的な食事では体調に不調が出るので、だいたいはペースト状の宇宙食となる。

 確かに肉は肉の味がするし、魚は魚の味がする。しかし見た目はアルミパックに入ったペースト状のミキサー食だ。

 肉を噛みちぎる事に喜びを感じる肉食系男子の近江にとって、それは軽い虐待に近い。よって宇宙飛行が好きではない。

 しかしそんな近江がある事をきかっけに民間船に30時間ほど滞在した事があった。その時、彼は常識を覆された。

 オロチのクルー達は、通常の宇宙船では考えられない食事の仕方をしていたからだ。

「今日のメニューは、まずは具だくさん野菜のスープ、サラダは根菜類をメインにした蒸し煮のおろしドレッシング、ゴハンはオムライスにしてみました。ソースはデミグラスね。メインは焼きウニを乗せた舌平目のムニエルの焦がしバター風味、デザートは桃のタルトとコーヒーね。コーヒーはホットとアイスとカフェオレを選べるよ」

 オロチの料理人である菊池がそう告げて並べた料理は、それでなくとも毛嫌いしていた相手を運ぶ不愉快な旅の途中だった近江にとってありえないほど輝いて見えた。

 なんだこれは。普通にご馳走じゃないか。

 無言のままナイフにもフォークにも手を付けようとしない近江へ、菊池は不安そうに視線を向けた。

「えと、あの、こういうの苦手だった?」

「……苦手ではない。が」

 近江はゆっくりとオロチのクルー達を視線で薙いだ。

「いつもこういった食事なのか?」

「まさか。毎日魚の訳ねぇじゃん」

「昨日は肉やったな。ハンバーグにどっさり野菜とチーズが乗っとったっけ」

「鍋の時もあるし、パスタなんかの麺類の時もあるよね」

「つか、嫌なら別に無理して食べなくてもいいよ」

 クルー達のそれぞれの言葉を半笑いで聞いていた南は、伺うように客人を見た。

「うちは専属の料理人がいるからな。どうしても嫌なら一応宇宙食もあるが」

「いや」

 近江は即答してナイフとフォークを手にした。

「喰わせてもらう」

 近江は、見ている方があっけにとられるほどもぐもぐと料理を平らげた。


「……まいったな」

「どないしはったん? 南」

「COETの参謀から文句が来てる」

「は? あの羽叉麻言うヤツやったか? 何て?」

「“よくもうちのボスに贅沢な宇宙食の味を覚えさせてくれたね。お陰でものすごく困ってる。どうしてくれる”だと」

「知らんわ、そないな事。ええわ、俺が返信しといたる」

「何て返答する気だ? 笹鳴」

「“悔しかったらここまでおいで”近くに来よったらステルス起動させて単独ワープで逃げたる」

「……これ以上何かに追われる身になるのは勘弁してくれ」




■商売魂

「それにしてもさ」

 柊は自動航法装置のセッティングを終えて大きく伸びをしながら呟いた。

「ローレライの改良、案外まともだったな」

「ああ、それは俺も思った」

 北斗もだらしなくカップを口に運びながら返答した。オロチは1人でも動かせるほど高度なシステムを搭載しているので、ただ航行するだけならこの2人にやる事はない。

「だよな。ローレライって何もかもが派手だもんな。街を歩いてたら店も看板もネオンが当たり前だし、歩いている人の服だって盛りまくりだもんな」

「音もすごいよ。呼び込みとか宣伝とか、菊池サンが目眩を起こしてたくらいだからね」

「あー、耳がいいってのも考えモンだなぁ」

 柊は空いている後方のシートへ振り返った。今は宵待と共にキッチンにこもっているので姿が見えないが、菊池は犬笛の音まで拾ってしまうほど聴覚が鋭いので、ローレライ滞在も後半になると外出を控えていた。

「俺、ローレライの改良には実はちょっと覚悟してた。機体が七色になったり翼尾灯がピンクになったりしてもおかしくねぇなって」

「俺も。シートにラメを入れられるかと思ってた」

 そんなオロチのエース2人の会話を聞きながら、南は後方のキャプテンシートで遠い目をした。

 ローレライのエンテン大統領サオトメの提案はそれだけではなかった。

 エンジン点火時にファンファーレを鳴らす、着陸時にレーザー光線を発射する、ワープ時のカウントダウンにBGMを付ける、機体を金色にする等、南にとっては嫌がらせに近い提案を受けたのだ。もちろん全部断ったが、サオトメの押しの強さには戦闘時以上のモチベーションが必要だった。

 そこへ、びっくりしたねぇそうだね、という会話をしながら宵待と菊池がコーヒーを乗せたワゴンを乗せてブリッジに姿を現した。

「コーヒー入ったよー」

「お茶菓子はロールケーキね」

 途端に群がるクルー達に、南もキャプテンシートから降りた。

「ロールケーキが緑だ」

「抹茶を入れてみたんだ。食べて食べて」

 ほのぼのとお茶の時間をすごしていると、ふと北斗が顔を上げた。

「そういえば、さっき何か驚いたみたいな事話してたけど、何?」

「ああ! そうそう、びっくりしたんだよ、なぁ宵待」

「うん、クラゲなんか飛んでたもんな」

 くすくすと笑い、菊池はクラゲを抱え直した。

「ローレライでサオトメ大統領にもらったミキサーを使ってて、止めた途端に『できたでー!』ってしゃべったんだよ」

「ドクターかと思ってびっくりしてたら、『はよ取り出さんとお掃除大変やでー』ってまたしゃべってね」

「なんやそれ。俺はそないな事よう言わんわ」

 和やかに話すクルー達を眺めながら、南は他にも何かされているんじゃないかと少し恐ろしくなった。




■ヒーロー

 学校が終わってすぐ、僕は全速力でエアポートへ向かった。

 だって、今日はこのヒムロ星にあのオロチが到着するって聞いたから。それから毎日ずっと楽しみにしていた。だって、オロチは僕達のヒーローだから。

 ちょっと前、僕達スイリスタル星系は、悪い海賊に襲われた。

 セイラン星ともウンカイ星とも連絡が取れなくなり、星系すべてが海賊に包囲され、UNIONも中央管理局も、海軍でさえここに到着する前に撃破されてしまった。

 その絶望の中を救ってくれたのが、オロチだった。

 皇帝のビャクヤ様はオロチの船長と親友なんだと聞いた。この間も1度来てくれたんだけど、その時は僕は熱を出して寝ていたので、テレビでしか見られなかった。

 でも今日は生でオロチが見られる。

 スイリスタルが全力で造り上げた最強の船。

 学校が終わってすぐに走って来たのだけど、エアポートはもうすごい人だかりでオロチは全然見えなかった。

 何とか割り込もうとしたのだけど、僕みたいな子供じゃ飛び上がっても見えないし、オトナの足の間に入ると潰されてしまいそうだ。

 せっかく走って来たのに。昨日は眠れないくらい楽しみにしてたのに。

 諦めきれなくて何度か人並みに突っ込んだけど、あえなく撃退されて僕はひらめいた。

 高いところに登ればいいんだ。

 幸いエアポートの近くには見学者用の小さな公園がある。そこで休憩したりするための場所だけど、そこには木が植えてあったはずだ。

 僕は一目散に公園に向かった。1番いい眺めは望めないけど、この目でオロチを見られるんならちょっとくらい遠くてもいい。空港に入って上から見ればいいのかもしれないけど、きっとそこも人でいっぱいだろう。でも木に登ろうなんて考え付くのは、きっと僕だけだ。

 走って公園にたどり着くと、ベンチでジュースを飲む若い男が1人いるだけだった。そのそばに生えている木が1番丈夫で1番高い。

 僕は走って行って、その若い男に言った。

「ちょっと、どいて!」

 若い男は帽子のつばの下から僕をじろりと睨んだ。

「やだね」

 なんだとこいつ。

「どいてよ! 木に登りたいんだ!」

「よその木にすれば?」

「その木がいいんだよ!」

 若い男はもう1度僕を睨むと、今度は僕を無視してジュースを飲み出した。

「どいてよ! お願いだから!」

 今日を逃せば、オロチは王宮のドッグに入ってしまうので見られなくなる。

「……なんでそんなに木に登りたいの? あんた猿の親戚?」

「そんな訳ないだろ! オロチを見るためだよ!」

 若い男は『はぁ?』という顔をして「オロチ?」とつぶやいた。

「なんだよ! お前オロチを知らないのかよ!」

 僕は興奮して怒鳴った。だって、あのオロチだ。僕達の救世主で、ヒーローで。

「オロチはこのスイリスタルをたった1隻で守ったすごい船なんだぞ! 船長の南ゆうなぎはビャクヤ皇帝の親友で、パイロットの北斗すばるは天才なんだぞ!」

 若い男は興味なさげに「へぇ」と言って、またジュースに口を付けた。

「船はスイリスタルの技術の結晶で、狙撃手の柊しぐれはスイリスタルのウンカイ星の学校を主席で卒業したんだ! 他のクルーだってすごいんだぞ!」

「他のクルーねぇ」

 ベンチに寄りかかったまま、若い男は動こうとしない。

「なぁ、頼むよ、もう向こうは人でいっぱいで僕の身長じゃ見られないんだ」

「あぁ、それで木に登って見ようと思ったわけ」

 若い男はやっと納得したようにうなずいた。

「そうだよ! 見たいんだ!」

「じゃあ訊くけど」

 若い男は帽子のつばを人差し指で押し上げた。

「見てどうすんの?」

 僕は返答に困った。だって、見たかっただけだから。

「……宇宙船が好きなんだ」

「じゃあ造船所に行けば?」

「パイロットになりたいんだ!」

「じゃあ家に帰って勉強すれば?」

 言っとくけど難しいよ、パイロット試験。と若い男は帽子をかぶり直した。

「お前受けた事あるのかよ」

「あるよ。現役一発合格」

 若い男は近くのゴミ箱へジュースのパックを放った。

「なんか誤解してるみたいだけど、オロチは戦闘艦じゃない、貿易船だ。どれだけ海賊に勝ったって、どれだけ巨大彗星を破壊したって、実績が高まるわけじゃないよ」

「それでもオロチは僕達を助けてくれた!」

 海賊が攻めて来た時、僕達は本当に心細かった。ビャクヤ皇帝を信じていたけど、相手は1万を超える戦闘艦を持つ5大海賊の1つだ。食い尽くされた惑星だってたくさんある。奴らは物資を奪い、人の命を奪い、資源を奪い、星を滅ぼす悪党だ。

 そこに、オロチはたった1隻で助けに来てくれたんだ。

「……貿易船でも何でもいいんだ……だって、オロチは僕のヒーローだから……」

 一目見たかった。僕達を救ってくれたヒーローを。

 若い男はため息を吐いて、やっと立ち上がってくれた。

「こんなところから見たって米粒みたいに小さいでしょ。おまけにサウザンドビーに焼かれて無惨な格好だしね」

「どこが無惨なんだよ。最高にかっこいいだろ」

 若い男はそれほど背が高くないのに、僕を見下ろす視線に気圧された。

「俺としては、あんな外装が溶けてドロドロになった薄汚れた船なんか覚えていてほしくないんだけどね」

 それでもよければついて来れば?

 そう言って歩き出した若い男の背中と木をおろおろと見比べた後、僕は慌ててその後を追いかけた。


「ああ、北斗。早かったな」

 若い男に付いて行くと、関係者以外立ち入り禁止の場所を堂々と通り抜け、エアポートの一角についた。

 サウザンドビーという熱の化け物と戦ったというオロチには大きなビニールがかけられていて見えず、その前に立っていた男が振り向いて若い男に笑顔で声をかけた。

 この顔、知ってる。テレビで散々見た。オロチの船長、南ゆうなぎだ。

 他のクルー達は映してくれなかったけど(世界中継されたパレードの時だって、他のクルー達は何故か身の置き所がないように小さくなっていた)南ゆうなぎだけは知っている。

「お、オロチの、南ゆうなぎ船長……!」

 僕がやっとそれだけ言うと、南ゆうなぎはきょとんとしてからにこりと笑った。

「ああそうだ。君は? 北斗の友達か?」

「そんなわけないでしょ。オロチを見たいって言うから連れて来ただけ」

 僕はそろそろと隣を見た。南ゆうなぎは、さっきこの男を北斗と呼んだ。

 まさか。

「オロチの天才パイロット……北斗すばる?」

 恐る恐る尋ねると、若い男は「そうだけど」とぶっきらぼうに言った。

 本物だ。

 僕は口もきけずに固まった。

「で、どうなの船長。修理はどれくらいかかるって?」

「うーん、ウンカイ星からレアメタル取り寄せるより行った方が早いってことになってな、これからまた輸送船でウンカイ星に向かう事になった」

「じゃあウンカイ星に直接行けばよかったじゃん」

「航路の出口はヒムロ星だからな」

「面倒くさいなぁ」

「まぁそう言うな。どうせ費用は中央管理局持ちだ」

 南ゆうなぎはまたにこりと笑った。テレビでよく見た、頼りになる笑顔だった。

「じゃあその間どうすんのさ。稼ぎないじゃん」

「何だかビャクヤが色々画策してるらしいぞ」

「……すごいイヤな予感がするんだけど」

 北斗すばるがため息を吐いた時、今度はまた若い男がやって来た。

「おう北斗。お前に相応しい年齢の友達作って来たじゃん」

「撃ち殺すよ、柊サン」

 柊。

 柊しぐれだ。元UNIONの、鋼鉄のヴァンガード。

「柊か。何でもオロチを見たいんだそうだ」

「あぁ? このロースト状態のオロチをかよ」

 柊しぐれがため息を吐いた。

「おい少年。悪い事言わねぇから、ちゃんと修理が終わってから来い。こんなでろでろに焼けたオロチなんか、格好悪くて見せられねぇよ」

「それでもいいんだってさ」

 北斗すばるが言う。

「ったくしゃーねーなぁ。じゃあ船内を見せてやる。それでいいだろ? 外観は勘弁しろ」

 オロチの中身。スイリスタル最高の船の中身。

「見たい……!」

「交渉成立だ。さっきうちのコックがお菓子作ってたから、運が良ければ食えるかもな」

「あの人、こんな時に何作ってんの」

「長期滞在になるなら冷蔵庫をいったん空にしたいんだとよ」

 ついて来い坊主、という声に弾かれるように、僕は柊しぐれの背中を追いかけた。




■資格社会

 宵待は頭を抱えた。

 今のままでは戦闘時に自分が何の責任も取れない事を、たったいま知ったからだ。

 事の発端は、菊池との会話からだった。

「俺は元々調理師と栄養士の免許しか持ってなかったから、オロチに乗ってから情報処理官とパイロット2級の資格を取ったんだよ」

 ひざにクラゲを乗せて、菊池は笑った。

「え? パイロットの資格を持ってるのか?」

 驚く宵待に、菊池は頷いた。

「うん。パイロットと言っても2級だから小型船舶しか操縦できないけど、でもその資格がないと、データ情報の分析報告ができないんだよ」

「どういう事?」

 うん、と菊池は頷いた。

「例えばアラートが鳴って敵船が現れたとするだろ。その時に敵船の情報は無資格でも報告できるんだけど、敵船の種別から使う武器を想定して準備したり、数から使用される武器を判断して準備したりってのは、パイロットか情報処理官の資格ががないとしちゃいけない決まりになってるんだよ」

 宵待は「へぇ」と目を見開いた。そういえば、自分は情報分析を任されてはいるが、そこから先の準備等についてはすべて指示を受けて行っていた事を思い出した。

「知らなかった。パイロットの試験って難しいんだろう?」

「2級はそうでもないよ」

「でも北斗や柊が持ってる1級パイロットってのは、すごく難しい試験だって聞いたけど」

 菊池は肩をすくめた。

「1級と2級の間には、とんでもない大きな隔たりがあるからね。あまりにも差がありすぎて準1級っていうのができたんだけど、だいたいの輸送船の船長はこの準1級の資格で船を動かしてるよ」

「もしかして、南船長も?」

 うん、と菊池は頷いた。

「でも、その準1級だけじゃ輸送船は動かせても従業員を雇う資格がない。だから更に雇用免許、貿易を行うための貿易免許、ワープ航法免許、その他諸々の資格を合わせた通称『船長切符一式』の資格を取らなきゃならないんだ」

 宵待は天井へ向けてため息を吐いた。資格だらけだ。

「大変なんだなぁ」

「俺も持っとるで。パイロット2級」

 笹鳴が2人の会話に加わった。

「他に情報処理官と通信無線資格、あとなんやったかな、2級クルーザーも持っとったかな」

「ドクターも2級パイロットの資格を?」

 驚く宵待に、笹鳴はメガネの向こうで目を細めた。

「一時期資格に凝ってな。せやけど、無線通信は自分も持ってたんやなかったか?」

 笹鳴に視線を向けられて、菊池は頷いた。

「うん。それがないと通信できないからね」

 宵待は嘆息した。

「通信1つ取っても資格がいるのか……」

「そうだぜ」

 新たに加わったのは柊だった。

「1級パイロットの資格ってのは、操縦や敵船対処に関わる武器操作に加えて、その通信無線や情報処理試験も全部ひっくるめられてんだよ。だから取るのが難しいんだ」

 基本的に1人ですべてを行える資格が1級パイロットだと思えばいい。あ、雇用はできないけどな、と柊は続けた。

「資格と言えば、ドクターは医師免許も持ってるんでしょ」

 そこに更に北斗が加わった。

「ああ、惑星ミヤコ出身の者は、申請しただけで1級医療免許が貰えるんや。せやから俺は試験は受けてへん」

「うわ。ドクターずるいなぁ」

 菊池は肩を落とした。

「まぁ特典やな。そういや、自分はエスパー資格とが持ってへんの?」

「そんな資格ないよ。100メートルを9秒台で走れる人が『俊足資格』を持ってないのと同じだよ」

 菊池の苦笑を見て、宵待は深くため息を吐いた。

「俺もきちんと資格を取らないとな」

「じゃあ俺が教えるよ。確か教科書とか問題集とかまだ持ってるはずだから」

 菊池が胸を叩いたのを見て、クラゲも動作を真似た。

「ありがとう。1級パイロットは無理だけど、せめて2級と情報処理は取りたいな」

「それやったら全員が持っとるし、誰に訊いてもええで」

「俺持ってないっスよ。飛び級していきなり1級受けたんで」

「ほんま可愛げないな、北斗は。それで1発合格かい」

「当然でしょ。柊サンはどうだか知らないけど」

「ふっざけんな死ね北斗! 確かに俺は飛び級はしてねぇけど、試験は一発合格だっての!」

 むくれる柊の大声に、今度は南が気付いて加わった。

「なんだ? どうしたんだ?」

「ああ、宵待が資格を取りたいって言うから勧めてただけだよ、船長」

 菊池が言うと、南はそうかと目を細めた。

「確かに情報処理と無線通信は持ってて欲しいところだな。今でも支障はないが、何かあった時に書類申請が通りやすい」

「頑張るよ」

 宵待は苦笑気味に呟いた。学校にも満足に行けなかった自分がこれからどこまでできるかわからないが、微力でも力になりたい。

「そういえば、これは素朴な質問だけど、貿易船に乗る上で1番難しいのが、1級パイロットの資格なのか?」

 宵待の質問に、クルー全員が眉を寄せた。

「まぁ……難易度が高いのは1級パイロットだけど……」

「せやな……船長やるんが1番面倒かもしれへんな」

「だな。パイロットなんかの専用職と違って、船長は2桁の資格を取らねぇとならねぇからな」

「そうだね。俺達パイロットは2級整備士の資格しかないけど、船長は場合によっては1級整備士の資格もないとダメだし、銃器取扱い責任者資格に管制資格、航海資格、無線通信、航空情報処理、ワープ航法……その他に商売を行うために貿易資格、輸出入管理能力検定、航空貨物取扱士、通関士、ある程度の語学の検定なんかも必要だし、年単位で勉強しないとなれないよね」

 それぞれのクルーの呟きに、宵待はため息を吐き、南は苦笑した。

「俺は地元でそこそこ資格を取ってたから、1から全部って訳じゃなくて助かったよ」

 南は気負うでもなくそう言ったが、宵待はため息しか出て来なかった。

「そう難しく考えな来ていいぞ、宵待。まずは取れるヤツから攻めていけばいい」

「だな。無線通信は割と簡単に取れるし、いつでも受験できるから大丈夫だと思うぜ」

「せやで。朱己も今2級医師免許受験に向けて勉強しとるみたいやさかい、一緒に受けてみるのもえんちゃう?」

「気分転換に調理師免許を取りたいって言うならいつでも協力するよ」

 宵待は苦笑し、みんなに向かって頭を下げた。

「ご指導ご鞭撻のほどを、よろしくお願いします」

「任せて」

 笑うクルー達に、宵待もやっとくったくなく破顔した。




■差別社会

「ここは絶対出るからね。あとこことここ」

 菊池は問題集に線を引いた。

「通信試験は基本さえ押さえておけば大丈夫」

「……と言われてもな」

 宵待は苦笑した。会話はできるものの、宵待は文字というものにあまり免疫がない。まずは文字の書き取りからの勉強となったので、試験への壁は大きかった。

「大丈夫。語学の試験じゃないから、難しい言葉を使う事もないし、選択問題が多いからね」

 宵待は文字は読めるんだから大丈夫、と菊池は笑った。だが宵待にとっては精神的にも大きな壁だった。自分は学校というものに行った事がない。他の惑星に生まれていれば当然のように受けられた教育も、宵待の生まれたオボロヅキ星ではあり得ない事だった。生き伸びる事で必死だったから。

 宵待がオロチに乗るようになって初めて知った常識は、差別だった。


 宵待のように希少種や貧民層、その延長上で教育を受けられなかった者、その惑星に生まれたというだけで謂れのない差別を受けるという事は、宵待にとっては大きなショックだった。

 宵待自身がその枠組みに入っている事が、更に大きなショックだったのだ。

 オボロヅキ星に生まれた者達は、その背に翼が生えているというだけで狩られた。下半身が魚だというだけで捕らえれて売り飛ばされた。

 人種差別、人間狩りというのは、いまこの時代でも当然のように横行している。

 初めてそれを知った時はショックで眠れなかった。

 自分は迫害されている。宵待の場合は少し違うかもしれないが、それでも人間以下の扱いをされている事実は変わらない。

 ある夜、宵待は眠れなくてベッドで何度も寝返りを打ち、そして結局は起き上がってブリッジへ向かった。ブリッジには必ず1人は夜勤の者がいる。誰かと話して気分を紛らわせたかった。

 その時ブリッジにいたのは、南だった。

 驚く南に宵待は「眠れないんだ」と原因をぼかして告げ、自分のシートに座った。

 自分がショックを受けている事を悟られないように話したつもりだったが、後から思えば南はすべてわかっていたのかもしれない。苦笑まじりにため息を吐き、南はシートへ寄りかかった。

「確かに今でも差別はある。言ってみりゃ俺達は差別層の集まりだからな」

「俺達? 船長もなのか?」

 南は元を正せば王族だ。差別する側の人間だろうと宵待は思っていた。

「俺は今でもUNIONや中央管理局に監視され続けているエアシーズの出身だ。笹鳴も滅んだ惑星の生き残りだし、北斗はエリートコースを蹴った人間だから、 同期にゃ差別されてるだろう。柊なんぞ、自分からは言わないが思い切り命令違反をしてUNIONを飛び出した口だから、今でも裏切り者だと思われている節がある。菊池だってルナベースじゃ相当の落ちこぼれだったし、それにクラゲだって売られてた立場だぞ」

 言われてみればそうだ。だが、彼らはそんな様子は欠片も見せない。

 だからこそ、自分を命がけで助けてくれたのかもしれない。差別される事の、生きる事のしんどさを知っているから。

「お前ほど悲惨な人生を送ったヤツはいないかもしれないが、まぁ、あれだ。マイノリティにはマイノリティなりの生きる方法があるって事だな」

 南は正面のモニタを見ながらとつとつと語った。

 確かに宵待自身の人生は散々だった。生きるために生きていただけで、何かを得ようだなんて考えた事もない。だが南は南で血を吐くような生き方をしてきたし、それは他のみんなもきっとそうなんだろうと宵待は思った。

 差別されたと言って悲しむ必要はない。それは差別をする側が勝手にしている事で、それに自分が合わせてやる必要はない。

 1人で生きるにはそう考えるのは難しい。だけど仲間がいるから大丈夫。一緒にいれば強くなれる。彼らと一緒に生きる事は、なんて楽しいんだろう。生きる事が楽しいなんて、オボロヅキ星にいた時は考えた事もなかった。


「だから大丈夫だよ。宵待なら」

 宵待ははっとして正面の友人を見た。物思いにふけっていたようで、何を言っていたのかよく思い出せない。でもその笑顔を見ていると、心の底から安心できた。

「ぜひ大丈夫だと思いたいね」

「当たり前だろ。何せ先生がいいからな」

 菊池は胸を叩き、そのひざに乗っていたクラゲもその動作を真似た。

「じゃあ先生、この問題について詳しく教えてくれないかな」

「よろしい。ええっとな、通常通信波数はシステムポジションと呼ばれていて、1は通常回線、2はワープステーション専用、3はその他の公的機関、4は遠距離船及び衛星、5~10は空きで11以降は軍事回線の事なんだ。だから俺達が通常使っていいのは1~5、もっとおおまかに言えば1~10までで……」

 問題集をなぞる細い指先を、宵待は真剣に見つめた。

 彼らと共に生きていこうとするのなら、この勉強は必須だ。楽しい人生を目指すのなら、努力しないとならない。だからそれは決して苦痛ではないはずだ。

「空き回線っていうのは?」

「それはね」

 人差し指を立てて解説に入る菊池を前に、宵待は真剣に問題集に視線を落とした。




■小惑星探査機『はやぶさ』

「宵待、何読んでんの?」

 キッチンから戻ると、ブリッジの自分の席で真剣な表情で宵待がモニタを見つめていたので背後に回った。どうやら宵待が読んでいるのは、電子購入した読み物みたいだった。

「ああ、うん。調理を手伝えなくて悪かったね。宇宙開発の歴史を勉強しようと思って読んでたら夢中になっちゃって」

 宵待は俺を見上げて笑った。

「地球のものならいいかなって思って買ったんだ。オロチのクルーは3人が天の川銀河出身だから」

 俺は皆に比べて宇宙の事は何も知らないから、と宵待は苦笑した。

「それなら俺も教えて上げられない事もないけど……」

「うん、期待してる。今読んでるのは『はやぶさ』だよ」

 ああ、と俺は笑った。

 小惑星探査機『はやぶさ』

 それは、今でも伝説として地球で語られている探査機だ。

「知らない単語がたくさんあって、調べながらなんだけどね」

「うん、それなら俺も知ってる。俺も好きなんだ『はやぶさ』」

 地球歴2003年。小惑星イトカワに向けて小さな探査機が飛ばされた。

 宇宙へ飛ばすためのM-Vロケット1つを取っても、『はやぶさ』は特別だった。乗客である『はやぶさ』のために調整されたオーダーメイドのロケット。細身のペンシル型であり、それは世界的にも珍しいものだった。完全使い捨てなので1機70億という莫大な資金を必要としたが、それでもM-Vロケット5号は、我が子である『はやぶさ』を宇宙へ送り届ける事に成功した。

「7年もかけて片道3億キロを旅したんだよ。史上初となるイオンエンジンでのスウィングバイに初めて成功したんだ」

「イオンエンジンって?」

 尋ねる宵待に、俺は得意げに笑ってみせた。

「言葉の通り、イオンを噴出して推進を得るエンジンの事だよ。プラスのイオンがマイナスイオンに引き付けられる事を利用したものなんだ。速度は既存のものより遅いんだけど、燃料消費が1/10に押さえられるという画期的なものだったんだよ」

「へぇ。すごい」

 感嘆する宵待に、俺は言葉を続けた。

「初っ端から4機あるうちのエンジンの1つが不調。でもこれは元々3機で推進する予定だったから問題なかったんだけど、姿勢制御装置のリアクションホイールの3つのうち1つが故障。残り2つでなんとか制御したものの、イトカワ到着後に更にもう1つが故障。急遽1日で化学スラスタを用いて再度姿勢を安定させるプログラムを造り上げたものの、次にその化学スラスタが全損。燃料が機内で凍り付いてしまったんだ」

「全損?」

 宵待は驚いて声を上げた。

「じゃあもう姿勢制御できないじゃないか」

「でも、JAXA……イトカワを飛ばした宇宙航空研究開発機構は諦めなかったんだ」

 12機搭載されていた化学スラスタを使い、何とか姿勢を安定させたものの、燃料漏れからその化学スラスタすべてが使い物にならなくなってしまった『はやぶさ』は、そこで次に4つのエンジンに付属している4つ中和機からそれぞれ別の方向へ向けて電子を噴出する奇策を思いつき、かろうじて姿勢制御に成功した。これは奇想天外としか言いようのない発想だった。

「やっとの思いで姿勢を安定させ、イトカワへのタッチダウンを成功させるんだけど、ここでまたトラブルが起きたんだ。なんせ3億キロも離れてるものだから、当時は地球から出した指示が『はやぶさ』に届き、帰って来るまでに30分はかかったんだ。100℃を超える地表で『はやぶさ』は30分も停止を余儀なくされた。重力も地球の数10万分の1しかないから、当時は相当難しかっただったんだよ」

「惑星のサンプルはその時に?」

「うん。でも1度目のタッチダウンは失敗していたし、カプセルは『もしかしたらサンプルが入っているかもしれない』という可能性レベルのものでしかなかったんだよ」

「それでもJAXAは『はやぶさ』を帰そうとしたのかい?」

「うん。『可能性』を持ち帰るために『はやぶさ』はイトカワを離れた。その時にはもう機能不全が数えるのもいやになるほど増えていてね。『はやぶさ』本体は自分がどこにいるのか、何のために何をしているのか、自分の持っているカプセルがなんなのかもわからなくなっていたそうだよ。そしてイトカワを離れた『はやぶさ』は、音信不通で行方不明になってしまう」

「行方不明? そういう事って、当時はよくあったのか?」

 俺は首を横に振った。

「行方不明自体はよくあった事みたいだけど、それが再発見された事例は過去1度もなかったんだ」

『はやぶさ』は3億キロ離れた宇宙で、たった1人で迷子になってしまった。地球へ通信を飛ばし続けても、返事は返って来ない。JAXAもあらゆる方法を使って『はやぶさ』を呼び続けたが、返答はなかった。

「それでも約1ヶ月後、JAXAは途切れ途切れの『はやぶさ』からの微弱な電波をキャッチする事に成功したんだ」

 行方不明になっている間、太陽光のエネルギーを得られなかった『はやぶさ』は電力供給が停止し、予備のリチウム電池に切り替えていた。だがリチウム電池は空になると再充電ができないという欠点があり、JAXAがすぐに確認すると、そこでインプットした覚えのない機能が起動していた事を知る。本来手動で行う過放電を防ぐスイッチが何故かONになっており、11個中7つが奇跡的に生きていたのだ。

「『はやぶさ』が自分で危機を感じて、4つがダメになった段階で自分でスイッチを入れた……」

「科学的に考えればそんな事ある訳がないよ。でもそのお陰で『はやぶさ』はイオンエンジンを再起動させ、帰還開始に成功したんだ。そしてJAXAもその頑張りに応えた。バッテリーが空になっていたのを再充填するために、1億回ものスイッチのONOFFを手動で繰り返したんだ」

「1億回を手動で?」

「うん。ある一定レベルを超えると爆発してしまうから、こまめに何万時間もやり続ける必要があったんだ。最後には指紋がなくなったんだって」

 しかしまたここで致命的なトラブルに襲われた。4つのエンジンすべてが不調及び故障で動かなくなってしまったのだ。

「もうボロボロじゃないか」

「うん。もうダメだって誰もが思ったみたい。でもそれでもJAXAは諦めなかった。生きている機能を繋ぎ合わせて、エンジンを1つだけ復活させたんだ」

 1個たった80円で繋がれていたバイパスダイオードで、『はやぶさ』は再び地球へ向けて飛行を続けた。

「地球の引力圏内に確実に戻って来れると分かったのは、地球を出て7年経った時だった」

「それで、『はやぶさ』は地球へ戻れたのかい?」

 俺は頷いてみせた。

「うん。可能性を抱えたカプセルは、無事地球へたどり着いた。そして半年後にはそれがただの可能性じゃなかった事が証明されたんだ」

「じゃあ、サンプルは採取できていたんだね」

「うん。イトカワの物質がちゃんとカプセルに入っていたんだよ」

 到着場所の誤差はわずか30メートル。惑星イトカワのサンプルを入れたカプセルは、オーストラリアのウーメラ砂漠に無事落下した。

「すごいな。もはや『はやぶさ』は英雄じゃないか。機体はもちろん博物館なりに保存されているんだろう?」

 期待を込めた宵待の視線に、俺は首を横へ振った。

「ううん。『はやぶさ』本体は、大気圏突入時に燃え尽きてしまったんだ」

 化学エンジンが無事であったなら他に運用もできたのだが、満身創痍の『はやぶさ』には、もう燃え尽きる運命しか残されていなかった。

 プロジェクトのリーダーであった川口教授は、それまで探査機としてしか見ていなかった『はやぶさ』に対し、地球帰還直前に突然「何とか地球に帰してやれないか」と言い出したらしい。7年もの間、自分達の指令に答え続けた『はやぶさ』を地球へ帰してやりたい。大気圏に突入して燃え尽きろという指令にさえ従い続ける『はやぶさ』に、我が子のような思いを抱き始めたのかもしれなかった。その著書『はやぶさ、そうまでして君は』で、川口教授は大気圏突入命令を『冷たい方程式』と記している。

「カプセルを地球へ向けて発射した後、『はやぶさ』はその卵を最後まで見守るように追走しながら、バラバラに分解して燃え尽きてしまったんだ」

 宵待は神妙な顔で俺を見上げていた。

 度重なる困難に、生みの親であるJAXAと共に立ち向かい、そして最後に『はやぶさ』は隼から不死鳥になった。

「当時はJAXAのあった国は財政が逼迫していてね。宇宙開発はNASAっていう別の国の組織の方がずっと進んでいたし、1位を狙わず2位でもいいんじゃないか、だなんて言われた事もあったんだ。そのNASAから絶縁状を叩き付けられても、JAXAは諦めなかったんだな」

「……不屈の精神だね。でも」

 宵待はため息を吐いた。

「『はやぶさ』が不憫でならないよ。そんなに頑張ったのに、本体は欠片一つ地球へ帰れなかったなんて」

「でもね、データはたくさん地球へ届けたんだよ。そして最後に『はやぶさ』が送ったデータが、地球の写真だったんだ」

 カプセル発射後、そのせいで大きくバランスを崩した『はやぶさ』に、川口教授を始めJAXAの科学者達は「最後に地球を見せてやりたい」と、写真撮影を指示した。

 その写真は白いノイズが大きく走り、大気圏突入直前までデータを送信していた事を証明するように、右下が欠けていた。

「『はやぶさ』は後の惑星探査に大きな影響を及ぼしたんだ。成果だけじゃないよ。諦めない心、状況に負けない努力というものを、『はやぶさ』は示してくれたんだ」

「立派な探査機だったんだね」

 宵待が笑ったので、俺も笑みを返した。

「ところで、どうして『はやぶさ』にしたんだ? 有人ロケットならアポロ11号の方が有名だけど」

「ああ、北斗がこれにしろって言ってくれたんだ。特に説明はなかったけど、俺に必要だと思ってくれたんじゃないかな」

「うん、いいチョイスだ。今晩は和食にしてあげよう」

 俺は宵待に手を振って、再びキッチンへ向かった。




■光について

「ちょっと聞いてもいいかな」

 俺がこう尋ねるのはいつもの事なので、菊池は笑顔で振り向いた。

「何? 宵待」

「すごく初歩的な事で恥ずかしいんだけど」

 こうして食器を片付けたり料理の手伝いをするのは俺の日課になっていた。今の俺にはろくな知識はないし、みんなのためにできる事は少ない。知識を増やして少しでも力になりたかった。この時間は菊池にわからない事を教えてもらえる貴重な時間でもあった。

「真空だと、熱って伝わらないだろう? 宇宙は0ケルビンに近い温度なんだから」

「その通りだよ」

「じゃあさ、なのにどうして太陽に照らされると地上は暖まるんだい?」

 菊池は「そんな事もわからないの?」とは絶対に言わない。いつも俺にわかりやすく丁寧に教えてくれた。

「ああ、それはね、光は一種の電磁派だからなんだよ」

「電磁派?」

 うん、とコックは頷いた。

「電磁派ってのは、伝わるのに触媒がいらないんだ。だから惑星の地上まであっさり届く。で、光のエネルギーが地上に到達した時に、熱エネルギーに変化するんだよ。だから暖まるんだ」

 へぇ、と俺は頷いた。厳密に言えば、俺には電磁派の正確な定義はわからない。でもこのコックがこうやって説明してくれると、何となくだけどわかるような気がするから不思議だ。

「電磁派、ねぇ……」

 自分なりにイメージを固めていると、菊池はスポンジを手に笑った。

「簡単に説明すると、電磁派ってのは電気の流れるところに発生するものだよ。名前の通り電界と磁界が組み合わさって、遠くまで波のように伝わるものを言うんだ」

「波って事は、振動してる?」

「その通り。飲み込みが早い教え子だと教えがいがあるよ。まぁ、触媒がいらないって言っても重力場なんかの空間の歪みによっては進行方向が曲がることはわかってるんだけどね」

「そういえば以前、ブラックホールは光を屈折させるって言ってたね」

「またまたその通り」

 菊池はいっそう笑った。

「ブラックホールクラスになっちゃうと、電磁派だけじゃなく色々面倒くさくなるんだけどね」

「ああ、ブラックホールの説明はまた今度にしてくれないか」

「うはは、じゃあそうしようかな。あれはもうモンスターだからね」

 菊池は洗い終わったボウルやフライ返しを所定に位置に戻すと、新たに食材を取り出した。

「さて、今夜の夜勤のために夜食を作ろうかな」

「今日の当番って誰だっけ?」

「しぐれ」

「じゃあ唐揚げでも作る?」

「それはちょっとカロリーが高いから、焼き鳥にしようかなって」

「それもどうかな。朝になったらお酒も飲んで出来上がってるんじゃない?」

「うはは、それはあるかも。じゃあピーマンの肉詰めとか肉巻きアスパラにするかな」

「いいね。手伝うよ」

「ありがとう。じゃあバター出して」

「オッケー」

 今度は料理も教わりたいな。そうも思ったけど、そうなるともっと詳しくややこしい事を言われそうな気がしたので、俺は黙ってバターを手渡した。




■消毒

「ちょっといいかな?」

 宵待がこう尋ねてくる時は、いつも決まって少し申し訳なさそうにこっちを伺ってくる。

 宵待はその人生の大半を暗い洞窟の中で過ごしたので、知らない事が多い。ご両親から教えてもらえた事だけが宵待の常識だったそうだけど、そのご両親だって海賊に追われ続けていただろうから、それほど知識がある訳でもなかっただろう。

 だから俺達はいつも、宵待に尋ねられた事はきちんと丁寧に教える事にしていた。もっぱら俺に尋ねる事が多いけど、ブリッジでの席が近いせいか俺達は結構仲良しだからだろう。それとも1番ヒマそうに見えるんだろうか。

「なに? 宵待」

「訊きたいんだけど、いつも他の惑星に着陸した時と離陸する時に、なんかこう、機体にシャワーみたいなものをかけるだろう? あれって何の意味があるんだい?」

「ああ、虫除けだよ」

「虫除け?」

 きょとんと、宵待は首を傾げた。

 宇宙船は規格に関わらず、他惑星に着陸する時には必ずその惑星の規定による消毒を受ける事になっている。それが液体だったりエアシャワーだったり色々だけど、それをしないのはよほどの未開の惑星だけだ。

「宇宙にはまだ俺達の知らない生物や毒素がたくさんあるんだ。ほら、この間しぐれが見てた映画でもあっただろ、気持ちの悪いクリーチャーが惑星を侵略していくやつ」

「ああ、エイリアンとか言うやつかい?」

「うんと、エイリアンっていうと、俺達はどの惑星にとってもエイリアンになってしまうから、あんまりその名称は使わないかな」

 あぁなるほどと宵待は頷いた。

「もっと有害なものだよ。例えばものすごく凶暴な生物の卵だったり、感染率の高い疫病だったりが、船体や俺達に付着している可能性はあるわけだろ? 実際に無消毒で入星した宇宙船に付着していた強力なウィルスで滅んだ惑星とかあるからね」

「今でもあるの?」

「あるよ。船長とドクターが出会ったきっかけになった全滅しかけた太陽系って、確かそれが原因じゃなかったかな」

 うわぁ、と宵待が顔をしかめた。

「海賊が嫌われるのはそれもあるんだよ。あいつら知らないうちにこっそり侵入するから。正規のエアポートを使わないから消毒なんかしてないし」

 宵待はいっそう顔をしかめた。海賊は宵待の天敵で仇で諸悪の根源だ。

「船体ドックの他に俺達クルーの定期検診も義務づけられているのはそのせいだよ」

「……ちょっと待て。イザヨイ星に降りた時は消毒してなくないか? あそここそ変なものを持ち込めない場所だと思うんだけど」

「してたよ。気付かなかったかもしれないけど、オロチには自浄機能があって、着陸前と離陸後に船体全部を自動でクリーニングしてるんだ。ハッチにもエアシャワーが付いてるから、俺達も通れば自動消毒されるんだよ。どんな薬剤を使ってるかに関してはドクターの管轄だから俺はよくわかなんないけど」

 宵待は感心したように頷いて、両腕を組んだ。

「考えてみればオロチは貿易船なんだから、そのへんは1番きちんとしてなきゃダメだよね」

「うん。UNIONに属している貿易船は規定にのっとった消毒を受けているから信用されてるんだ。俺達はある程度独自に勝手にやるから、まぁ普通のとこではあんまり歓迎されないよね」

「でもきちんと消毒してるんだろう?」

「そりゃそうだよ。俺達だって自分の命がかかってるんだからね。積み荷に得体のしれない生物の卵が付着してて飛行中に孵化した、なんて事になったら死んじゃうよ。逃げ場ないもん」

 俺は笑ったが、宵待は引きつった表情を浮かべた。

 そこにほたほたとクラゲがやってきたので、俺は抱き上げた。

「クラゲもドクターがちゃんと調べてくれたんだ。だから安心して抱いてあげてね」

「もちろんだよ。でもクラゲが俺に抱かれてくれるかな?」

「きゅう」

 差し出された触手に手を伸ばし、宵待はクラゲを抱いてちょっとくすぐったそうに笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ