おねえさんの、ちちおや
翌朝になって、私は布団の上で目が覚めた。
天井の波模様が一番に見えて、一瞬「えっ」て思ったけど、”ホテル”にとまったんだって思い出したらすぐに安心した。
ここ最近、起きるところが毎日違うから変な感じがする。
最初は道の上。その次は”ひ”の傍。
最近は車の中で、今はホテルの布団の上。
“マグメル”にあった自分のお部屋が、少しだけ恋しい。
何もなかったけど、ベッドは使い慣れてたから。
道の上も車の毛布も、そしてこのお布団も一つとして自分の使い慣れたものはないことに気付く。
それでちょっと落ち着ける場所が欲しいなって思ってたら、隣で真歩おねえさんが突然唸った。
「うぅ……」
「おねえさん?」
「ん……ゆきほ……」
「なに?」
「みず――」
私は洗面台にあったコップを取ってお水を注ぐと、仰向けに倒れたままのおねえさんに渡した。
「はい。お水」
「ん」
ごくごくと飲むおねえさん。
飲み終わるなり「まっず」て吐きそうな顔をした。
「くっさ……錆の味じゃんか」
「あそこの洗面台から注いだの」
「…………設備悪すぎ」
おねえさんは口を手で拭うと、頭を抑えながらばさっとお布団に倒れた。
「だいじょうぶ?」
「二日酔い。放っておけば治るから……」
ふつかよい?
なんだろう、ふつかよいって。
二日目の酔い?
ってことは、おねえさんまだ酔ってるの?
でも昨日みたいに、変に明るくないけど。
どっちかっていうと、不機嫌そうな感じ。
「おねえさん昨日、すごいおかしかったよ」
私がそう言ったら、おねえさんは顔を覆いながら呻いた。
「……あまり、覚えてないんだよな」
「ご機嫌だった」
「たまのホテルで、ちょっと調子に乗り過ぎたかもしんない」
おねえさんは気怠そうに身を起こすと、よれた袖の中に片腕を突っ込んでボリボリ掻く。
「おまえはちゃんと眠れたの」
「眠れたよ。おねえさんをお布団に運んで、歯磨いて自分で寝た」
「……わたし磨いたっけ」
「ない」
「…………」
おねえさんと私は”ホテル”を出てごてんば市の方に戻った。
戻って、そこにある“ほきゅうスタンド”ってところで車をお世話した。
おねえさんが言うには、車は“すいそ”って物質を定期的にあげないと止まっちゃうらしい。
お腹が空いて動けなくなっちゃうから、餌をあげて復活させるっておねえさんは言った。
車さんも私たちと同じなんだと思いながら、窓ガラスを“ぞうきん”で拭いてあげた。
そんなこんなで今、私はおねえさんと一緒に“ごてんば市”を離れようとしてる。
朝に私を保護するしないでちょっともめたけど、でも最終的におねえさんは私が一緒に付いて来るのをもう少しだけいいよって認めてくれた。
私はおねえさんが「いいよ」って言ってくれた時、すごく嬉しい気持ちになる。
もう少しじゃなくて、ずっと認めてくれたらいいのにって思うけど、でもおねえさんがそれを許してくれるかどうかは分からない。
分からないけど、もう少し一緒にいてくれるっていうのは、とっても嬉しい。
おねえさんが言うには、これから進んでいく“とうかいちほう”ってところは、昔大きな“じしん”があって、それで“つなみ”というものに街を飲み込まれてしまったから、今も壊れたままで人も殆ど居ないので、そんなところに私を置いて行くのは“はばかられる”から、“はままつ”までは付いて来るのを許すらしい。
「ねえおねえさん」
「ん。なに」
「そのはままつって、とうかいちほうにあるの?」
「そう」
「海はある?」
「地図で見ると、街の半分近くが海に沈んでるみたいだし、そう願わなくたって嫌でも見られるだろうね」
私は首を傾げた。
どうして、おねえさんは壊れてしまった“とうかいちほう”の“はままつ”を目指しているんだろう?
誰も居なくて、街が壊れてしまっているなら、おねえさんの生き方である“雑貨屋のねーちゃん”は出来ないんじゃ。
さがみはら市に居た時、「海辺の街はしょーばいが出来ないから、あまり寄らない」みたいに言ってたのに。
それなのに“はままつ”を目指すのは何故?
もっと訊こうと思ったんだけれど、おねえさんは“はままつ”の話をする時、すごく静かな雰囲気になる。
だから、あんまりしつこく聞く気になれなかった。
普段から静かなおねえさんがうんと静かになるので、ちょっと怖い。
取り敢えずまだ一緒に居ていいよって言ってくれたから、それだけでいい。
細かいことは訊かないことにした。
車はごてんば市を出て、すぐに木だらけの道に入った。
どこを見渡してもあるのは木で、あとは前と後ろにどこまでも続いてる道路だけ。進んでいるのかいないのか、良く分からない。こういうところは”森”って言うんだって。薄暗くて、ちょっと怖かった。
途中、“ふじのみや市”っていう、白くて大きな壁と何にもない空き地が広がるさびしい街を通り過ぎたのだけど、おねえさんは少しも寄らないでまた山の道に入った。
地図ではすぐそこに海があるのに、通るのは”森”。
海辺の道は“かいすい”にやられてて、走っても行き止まりになっている箇所がいっぱいあるからダメらしい。
海が見られるのはまだ先かな。
朝はわくわくとしてたけど、でも直ぐにみられるわけじゃないって分かったら退屈になって、気づいたら眠っちゃった。
「ほら、起きて」
肩を揺さぶられているのに気づいて、私は「んあ」って変な声を出しながら起きた。
意識がまだはっきりとしない中で『起きたよ』ってことを早く伝えようとしたんだけど、身体が思ったように動かなくて、それでおかしな声が出た。
おねえさんは私の目が覚めたのをじっと見ると、そのまま無言で車を降りた。
自分も付いて行かなきゃって、ぼーっとする頭で急いで降りたら、臭い匂いが鼻を突き抜けた。
ツーンとしていて、何だか辛いような匂い。
ふっと良い匂いに感じる気もすれば、とっても臭い変な匂いにも感じる。
何だろう、これ。
今まで嗅いだこともない匂い。
それと、『どどー』って言葉に表せないような不思議な音が、どこからともなく聞こえてくる。
匂いも音も、どんなモノから放たれているのか全然予想がつかない。
目をこすって困惑してたら、おねえさんはバンって車のドアを閉めて、ひとりでに歩き始めた。
周りはちょっとした森みたいなところで、でもおねえさんの目指してる場所は景色が開けてる。
おねえさんの先に、真っ青な空が見えた。
木で出来た柵の向こう側に、青い色が広がってる。
あそこを越えたら、どこかへと落ちていってしまいそうな、そういう奥行きを持っている。
私は不思議と惹き付けられた。
ふらふらと足が前に進んでいって、吸い寄せられていく。
おねえさんの背中。
その先にある、不思議な空。
食い入るように眺めて進んでたら、おねえさんと柵の頭から、空とは違う青いモノがのぼって来た。
私はもう一回目をこする。
あれ。
太陽さんの錯覚かな。
でも、青くてきらきらとしたモノがどんどんと見えてきて、それがお空を上に押し上げて、いっぱいに広がり始める。
急にぶわっと風が当たって、私の髪の毛が巻き上げられた。
臭い匂いがひと際強く漂う。
風は生暖かいような冷たいような、良く分からない温度を持ちながら、肌にぴちっと纏わりついてきた。
なにこれ、気持ち悪い風。
いつものさらっとした風より、ねばねばとするような、突っ張るようなおかしな感触。
やっとのことで髪の毛を払ったら、私は目の前のモノに息を呑んだ。
それはとても、とても大きな音を発してた。
お空の青とほとんど同化した、どこまでも広がる水。
じっと目を凝らさないと、遠くに境目があるって気付かないほど大きく広がっている、水。
どどぅ、ざわぁーって音が、全部の方向から耳に入ってくる。
臭くて、ツンとしていて、それでとっても綺麗な、きらきらとした不思議な光景に、私は言葉を失った。
「久しぶりに来たな」
おねえさんが傍で、とっても小さな声で喋る。
ううん、おねえさんはきっといつもの声の大きさで喋っているんだけど、でも目の前の青い水たまりの音が、おねえさんの声をかき消しちゃってるんだと思う。
だって水たまりは、絶え間なく大きな音を発しているから。
音の上に音をかぶせて、ざばぁって、鳴いているから。
おねえさんの“海”って言葉が、私の中に入って来るようで、入ってこない。
だって、想像していたのとずっと違かったの。
ずっと大きくて、果てしなくて、不思議だ。
「見たがってた海がこれだよ」
おねえさんの声が、音の洪水の向こう側から小さく聞こえてくる。
私はカラカラとした喉の奥で、やっとのことで喋った。
「なんて言ったらいいか、分かんない」
「思ってたよりつまらなかったんだろ」
「ううん。違う」
私は二、三歩前に踏み出すと、どこまでも続いている海と空の溶けあうところを見つめて言った。
「わたしなんかよりもずっと大きくて、広くて、すごかった」
それ以上は言葉が出なくて、私はただただ、海を眺めた。
どれだけ遠くを見つめても、終わりが見えない気がした。
空との境界に目を凝らしても、ぜんぶが青。
おねえさんはしばらく黙っていたけど、やがて私のそばに近づいて来ると、何かに気づいたみたいに言った。
「おい。崖の下」
「え?」
私たちの立っている場所は高いところだった。その斜面の下に、壊れた建物みたいなものがある。
それはマス目みたいな屋根のあちこちが壊されて、ざざーんと波に晒されていた。
波に打たれる度、全身から出血するみたいにだばーって水を吐き出す。
沈んでいるのは、よく見たらそれだけじゃない。
ずっと向こうに、所々が落ちた長い橋みたいなものがすっと伸びているのが見える。
その更に遠くには、はちおうじ市やさがみはら市にあったような背の高い建物が海の水に浸かって、鈍い光を放っている姿もあった。
おねえさんが地図を取り出しながら独り言ちる。
「あの橋、東名高速か」
「とうめいこうそく?」
「昔はあそこに、車がたくさん走ってたらしいな」
私は木の柵を握りながら、”とうめいこうそく”を見つめた。
きらきらと輝く海の真ん中に、崩れた橋だけがぽつんと取り残されているみたい。
周りにはもう誰も居なくて、独りぼっちで、いつ崩れちゃうかも分からない、そういう風に悲しんでいるようにみえる。
助けてあげたい。
あの“とうめいこうそく”さんの所に行って、大丈夫だよって声を掛けて助けてあげられたら、どれだけ良いだろう。
しょぼんとしてると、おねえさんは車の方に戻り始めたから、私は慌てて追いかけた。
「おねえさん、ここどこ?」
おねえさんは車のドアに手をかけて返す。
「浜松の、海に沈んでないところだよ」
確かにここは、沈んでないけど。
ちょっとしたお山の上で、石ころがいっぱいの空き地みたいなところらしい。
周りは木以外に何もない。
「次の場所行くよ。乗りな」
「うん」
私たちの乗った車は石ころだらけのぼこぼこ道に揺られながら、坂道を下った。
木の陰に“海浜公園・駐車場”て書いてある看板を見つけたけど、読み方がちょっと分からない。
てんりゅーく、うみはま? それとも、かいはま? ちゅうしゃば。
どれも間違ってそうな響き。
車は、さっき波にもまれてた物体と同じような作りの建物がぽつぽつ立ってる狭い道を進んでいく。
斜面がいっぱいで、坂道を上ったり下りたり、”森”に入ったり出たりを繰り返すと、とつぜん立派な感じの建物が姿を現した。
おねえさんはその建物の広場に車を停めると、何も言わずに降りたので、私も付いて行こうとしたんだけど、おねえさんは「一人で待ってて」って静かに言うから、おまたを抑えながら訴えた。
「おトイレ、おトイレ行きたい」
「……はぁ」
ため息をつかれちゃったけど、おねえさんは私と一緒に建物の中に入ってくれた。
入り口には“浜松市天竜役所”って書いてあった。
「おトイレ、どこ」
「多分向こう」
「行ってきます」
おトイレは臭くて、あまり清潔な感じじゃなかったけど、おもらししなくて済んで良かった。
お水でぬれたおててを服で拭きながら歩いてたら、おねえさんが受付みたいなところでおじさんと話しているのが目に入った。
私はおねえさんの元に駆け寄って尋ねる。
「なにしてるの」
「大事な話」
髪の毛の少ないおじさんが、私を見て丸眼鏡のレンズの向こうでおめめをぱちくりとさせる。
私は頭を下げて、挨拶した。
「こんにちは」
「こんにちは……。いやはや、珍しいです。この町に若い人が訪ねてくるなんて」
「で、居兎澤って人間はここにいるんですか」
「お身内でも探しにいらしたんで?」
「そんな感じです。墓でも何でも、居兎澤って名前の人間のものがあったら早く教えて下さい」
「はいはい。今調べますから、少しお待ちくださいね」
おじさんはくるりと回る椅子ごと後ろを向いたかと思うと、端末を弄り始めた。
私は首を傾げる。
「いとさわって、なに?」
「私を捨てた、父親の苗字」
えっ。
おねえさんを捨てた?
おねえさん、ぽいって捨てられちゃったの?
人なのに?
ぐるぐると考え事をしていたら、髪の毛の少ないおじさんが頭をハンカチで拭きながらせかせかと言った。
「本来なら、身元の不明な方にこういった個人情報の開示は、行えないんですけどねえ」
「実の娘ですから、遠慮することもないと思いますけど」
「はぁ。まあ、そう言われると――――と、ありました」
おねえさんの顔が、何だか緊張してるように見えた。
いつもは大体、無表情なのに。
おねえさんらしくない、何かを怖がっているみたいな顔。
おじさんはタブレットを持ちながら、眼鏡をくいくい動かす。
「ええと、居兎澤さんという姓の方は一件、見当たりました。でも、現在は市内にはいらっしゃらないようですね」
「今は居ないにしても、家とかそういう残していったものは目星つくはずですよ」
「ううむ。記録はあるにはありますが」とおじさん。
「居兎澤さんのあらゆる情報は、古いままで止まってます。2133年以降の記録がありません。33年を境に、完全に市外に引っ越されてますな。引っ越された先は、と……」
「新東京都」
「ええ、ええ。その通りです」
「捨てていった家のある住所ってどこですか」
「今は行けませんねえ……。お墓も同様、見つけるのは困難でしょう」
「どうして」
「居兎澤さんは、水没した地域にお住まいだったようですから」
おねえさんのお口が、なんだか悔しそうにきゅっと結ばれる。
おねえさんはそのまま、一言も喋らなくなっちゃった。
おじさんが受付の向こう側から、私に困ったような目を向けてくる。
私も困った目でおじさんを見つめた。
私にだって、おねえさんがどうしたのか、分からないよ……。
「無茶聞いてくれて、ありがとうございました」
おねえさんは唐突にお礼を言うと、足早に受付を離れて、そのまま出口に向かって行っちゃった。
私はおじさんにぺこりとお辞儀をすると、自動ドアの先に出てるおねえさんを慌てて追った。
私は“市役所”の敷地を突っ切っていくおねえさんに必死に声を掛ける。
「ねえ、おねえさん。ねえ」
おねえさんは立ち止まらない。
止まらないで、ひとりでどんどんと車の方にいってしまう。
ようやく追いついたと思ったら、おねえさんは運転席に座ったまま、何もしないでぼーっとし始めた。
何もしないで、ただじっと、意味のない所を見つめてる。
私はいつもと様子が全然違うおねえさんに、尻込みした。
おねえさんは何というか、動揺してるみたい。
気持ちは緊張していながらも全身の力が抜けちゃってて、なにをするにも動けない様子で、ただじっと、うつろな目でモノを見つめている。
私はおかしな空気で静まり返った車内で、息苦しい気持ちになった。
どうしよう。
おねえさんに、どういう事があったのって訊こうか。
でも、今の感じじゃ、おねえさんにものを尋ねるのはよくない気がする。
訊いても、おねえさんの気持ちは治らないと思う。
おねえさんに、元気になってもらいたい、けど……。
でも、どうすればいいのか分からない。
私は一所懸命に考える。
甘いものを食べたら、おねえさんは元気になってくれるかな?
おいしいものを食べたら、おねえさんは笑顔になってくれるかな。
うーん、うーんて考えて、それで“はこね”のホテルから貰ったお菓子を、おねえさんに差し出してみた。
「おねえさん。これ食べて」
「…………なに、これ」
「はこねのお菓子。これ食べて、元気出して」
「いつの間にこんなもの持って来たんだ」
「えっ? あ、うん……。お部屋を出る時に、テーブルの上の残ったお菓子が勿体ないなって、思って」
「……いいよ、お前が食べて」
「いらない。おねえさんにあげる」
「なんで」
「おねえさんに、笑顔になってほしいから」
おねえさんは私をじっと見た。
何も言わないで、私の顔と、差し出したお菓子の袋を見る。
急におねえさんの片目から、ぽろって一滴なみだが落ちて、それがお洋服の中にじわっと消えた。
えっ……!?
私は慌てる。
今、おねえさん、泣いた?
どうしよう。
おねえさんを泣かせちゃった……!
雪保が悪い?
雪保が、おねえさんに変なことを言っちゃった?
だから、おねえさんは泣いちゃったの?
わたわたしてたら、おねえさんは突然「くふっ」て笑った。
笑って、片手の指で涙の流れた筋を拭った。
「このちゃっかり屋め」
「ちゃっかりや? ちゃっかりやってなに?」
おねえさんはまた急にクスクス笑うと、両手で目をぐいぐい拭きながら、いつもと違う声で言った。
「お前みたいな奴、はじめてだ」
「どういうこと?」
おねえさんは答えなかった。
でも、私の差し出してるお菓子をそっと受け取ると、静かに呟いた。
「――ありがとう」
「え?」
「これ、くれて」
「あ……うん。どういたしまして」
「美味しいな、これ」
「あまじょっぱくて、わたしもすきだよ」
「売り物として買ってきたのが後ろにあるけど、食べるか」
「でもそれ、他の人にあげるんじゃ」
「少しくらいいいよ」
私はおねえさんからどっさりとお菓子を貰えて、にこにこになっちゃった。
って、あれ。わたしがおねえさんをにこにこにさせるつもりだったんだけどな……。
でも、お菓子をもそもそと食べる私を見て、おねえさんは何だかほんのりと笑ってくれてたから、嬉しくなった。
私は、おねえさんが笑っている姿の方がすき。